猿の脳

鐘辺完

猿の脳

 玄関の戸が開いた。

「ごめんください。願い事はありますか?」

 セールスマンが入ってきて言った。

 一人暮らしの暇そうな学生が奥から出てきた。

「宗教の勧誘だったらお断りです」

 彼は疑わしげに言った。

「いいえ。宗教ではありません」

 セールスマンの顔は仮面をはりつけたような無表情である。

「じゃあ、キャッチセールスですね。とっととお帰りください」

「いいえ。ただ私は、願いを叶えるためにやってきました。お金をとるつもりは一切ありません」

「商売っけがないってことは、どんな目的で人の願いを叶えてるんですか?」

「私は人々の願いを叶えると経験値があがってより高位な存在になれるのです」

「やっぱり宗教だ」

「なんとでも言ってください。手早くすませますから、聞いていただけますか?」

「どうせヒマだし、ひっかかるつもりはないから」

 暇な学生は、追い返すのも面倒になっていた。

「では」

 セールスマンは鞄の中から、ガラスの大きな標本瓶ひょうほんびんのようなものを出した。直径二十センチくらいの広口のびんの中に、脳ミソがホルマリンか何かの液に浸かっていた。薄ピンク色がすすけたような色であった。

「これがなにか分かりますか?」

「脳ミソ……ですね」

 学生は異様なものをみせられて少々とまどった口調で答えた。

「そうです。これは、願い事を叶えてくれる〝猿の脳〟です」

「〝手〟じゃないんですか?」

「いいえ。〝脳〟です。猿の手で願いが叶うなんてバカらしいと思いませんか? 根拠が感じられないでしょう」

「たしかに、まだ脳のほうが、物を考える部位だからまだ説得力はあるな」

「そうでしょう。そこでこの〝脳〟の使い方ですが、簡単です。寝る前に枕元にこれを置いて、願い事を考えながら眠りにつけばいいのです」

「それでこれを買え、と……」

「とんでもない。これはお貸しします。ただし、これをなくしたり、壊したりすると、あなたの命も危ないことになります。そのことだけ気を付けてくだされば、ただでお貸しします」

「ふーん。けどあとでなんくせつけられてもなぁ……」

「これを用意してあります」

 セールスマンはカバンから書類を出した。誓約書である。

 学生はそれを受け取り、目を通した。どう歪曲した読み方をしても甲(セールスマン側)より乙(使用者側)のほうが圧倒的に有利な内容だ。一週間以内に願いが叶わなかったら賠償金を払ってくれるのだそうだ。

「だけど、もし、賠償金目当てで、枕元に置かなかったり願わなかったりしたやつがいたら?」

「その脳は、私に通じているのです。脳に願いをしたかどうかは私にはすぐにわかります」

「うさんくさいなぁー」


 とか言いながら、彼は三分後には、〝猿の脳〟をベッドの枕元に置いていた。

 そして、

(どうか可愛い逆玉できる彼女ができますように……)

 彼は願いを心の中で告げたとたんに猛烈な眠気に襲われベッドに倒れ伏した。

 …………。

 彼はいつまでも眠ったままだった。夢の中で金持ちの娘と仲良くなって、結婚して、悠々自適に暮らしていた。

 延々と彼は眠り続ける。死がいたるその時まで――。


 彼の枕元にあった〝猿の脳〟は、いつの間にかセールスマンの手元に戻っていた。

 セールスマンは自分の顔の皮をはいだ。その下には顔が、チンパンジーのような、人間のような……。進化の過程の猿人ではなく、猿と人間の中間形態のような猿の顔があった。

 猿人は自分の頭蓋を炊飯器のふたのように開き、ビンに入った脳をそこへ入れ替えた。

 そして頭蓋を閉じると猿人の顔は唇がはっきりし、額の張り出しが減り、人間の顔に近づいた。

「あと二人ぐらいにセールスすれば、ぼくの願いが叶う」

 鏡を見て喜々とする猿人。


 今日も猿人は夢を叶えるためにセールスに従事する――。

「ごめんください。願い事はありますか?」

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猿の脳 鐘辺完 @belphe506

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