第4話 オストラシス、再び

       四



 灯台から伸びる直線の光が、巨大な竹とんぼのように夜の空を回転していた。

 心を癒やす穏やかな海の音色は一変、今や迫りくるような不気味な音にしか聞こえなかった。ほの暗い海面にはうっすらと白い波が現れては消えてを繰り返している。月には薄い雲がかかり、照らすのは便りのない電灯の明かりのみ。

 そして僕はようやく、その光の中に足を踏み入れる男を見つけた。気だるい足どりで鷹揚に歩き、手には白いビニール袋を提げている。金髪に、そしてくたびれたアロハシャツ。やがてその不敵な顔が露わになった。

「よぉ。待たせちまったかい?」

「遅いぞ花屋木。わざわざ沙凪に連絡させたというのに」

 咎める僕に花屋木は気にした風でもなく、耳の穴を小指で掻く。

「ったく、沙凪ちゃんをダシに使いやがって。男の風上にもおけねえ野郎よなぁ」

「お前が素直に僕の言うことを聞く人間じゃないと思ったまでだ」

「土下座でもすりゃあ聞いてやらんこともねぇが?」

「誰がするか。お前こそ頭が高いんだよ」

「誰かさんがちっこいだけだろ」

「ヘチマの蔓で首でも吊ってろ」

「望むところだ」

「この変態め」

「お互い様だ」

 ――睨み合い。

 顔をつきあわせる度にコレである。もはや挨拶代わりとなってしまっているので、コミュニケーションの一種だと沙凪に言われても仕方ないのかもしれない。

 花屋木はあからさまに不機嫌な顔つきで持っていたビニール袋を突きだしてくる。

「ご命令通り持ってきたやったがよ。これを一体どうするつもりよ?」

「お前も薄々感づいているだろう」

「……ま、そりゃな」

 袋を持った右手をだらりと下げる花屋木。その拍子にカシャリと硬い何かが擦り合うような音が鳴った。中身は僕が沙凪に指示して花屋木に持って来させたものだ。

 後ろにいた沙凪が躊躇いがちに進み出る。

「あれを……するおつもりなんですね」

「ああ」

「沙凪ちゃんの頼みで持ってきたはいいがよ、何のためにするってのよ? 今さらこんなことして何の意味があんだ?」

 へらへらと花屋木は軽薄に笑っているが、その目は笑っていなかった。

「花屋木、『蝶道』って言葉を知ってるか?」

「あん?」

「不規則なようで規則があり、無意味なようで意味があるということだ」

「……言ってることが理解不能なんだがよ」

 からかっただけだ、と軽くいなし、僕は本題に入る。花屋木から袋を受け取り、中のものを取り出した。

 それは、三枚の白い陶片。花屋木の部屋にあった花瓶の欠片である。沙凪を気遣ってだろう、陶片はヤスリで軽く磨かれていた。それから油性のマジックが一本、茶封筒が一枚入っているのを確認する。

「じゃあ、そろそろ始めよう」

 僕は陶片を一枚ずつ二人に手渡して説明する。

「貝殻はさすがに暗くて拾えなかったからな。だがあれは本来、一般的に使われたのは土器や花瓶の欠片のほうだ。だからこのほうがかえって伝承通りではあり、ハートレスサークルの伝統に沿うものになるだろう」

 そして、部の伝統を重んじた彼女の意向にも。

 僕は二人に指示し、夜の浜辺に正三角形の形に並ばせる。回転する灯台の光が、ざわめく海の波音が、今ではどこか魔術めいたもののように思えてくる。僕は目を硬く閉じ、深呼吸。それを何度か繰り返し、ゆっくりと目を開いた。

「――それでは、『オストラシス』を始めよう」

 あの時彼女が紡いだ言葉をなぞるように、僕は言う。

「平和を脅かす魔王は、追い払わなければならない。ハートレスサークルの平穏は、保たれなければならない」

 一体どんな気持ちで、彼女はこんな言葉を口にしていたのだろうか?

 僕たちの居場所を守るため、部の存続を守るため。たった一人で彼女は決断し、たった一人で死ぬことを彼女は決意した。無駄だと言われても、無意味だと罵られても、自分が見いだした意味をどこまでも愚直に信じ続け、彼女は自分の役を真っ当した。迫真の演技だった。

 彼女は誰よりもあの場所を、ハートレスサークルをこよなく愛していたはずなのに。

 だが愛していたからこそ、彼女は離れなければならないと思ったのだろう。ハートレスサークルの存在意義を、本質を、その手で壊してしまわないように。病魔に蝕まれ、平穏を脅かす『魔王』と化してしまうその前に。

 そう思うと、不思議と胸が震えた。息を吸うと喉が震えた。呼吸が上手くできない。不覚にも僕は泣きそうになっているようだった。しかし、今はそれどころじゃない。やらなければならない事があるのだ。

 僕は陶片を指で挟み、腕を前に出して宣言する。

 あの日彼女がそうしたように。

「だから追放しよう、魔王を。この中の――誰か一人を」



      ☆


 あの時を振り返ると少し切ない気持ちになるけど、あたしは後悔してないよ。

 ……というのはたぶん嘘。ちょっと後悔してる。一週間くらいずっと泣きっぱだったし。

 でも、きちんとやり遂げられた自分は少し誇りに思うかな。あたしにとっては意味のあることだったし、愛するハートレスサークルのためだしね。

 だけどやっぱり、あたしってほんとバカな人間だなって思う。

 孤独だったあたしを癒やしてくれたあの場所のためとはいえ、こんな思い切ったことをしちゃうだなんて。自分が正しいことだと思ったらずんずん突き進む。どこまでも直進する。周りのことなんておかまいなしに、猪突猛進。それがきっとあたしの本質。だからいつも周りから浮いちゃって、独りになっちゃったんだと思うけど。

 でもそれは円樹くんもきっとそう。キミはあたしと同じタイプだと思うんだよね。見ていてちょっと心配になるくらいだもの。

 だから沙凪ちゃん、優くん。

 もしも彼が無茶しそうになったら、二人でちゃんと支えてあげてね。



      ◆


 誰にも言ったことはないが、僕はこの部に入れたことを僕なりに感謝している。

 最初は確かに戸惑った。いきなり浮き輪をした変人に話しかけられたと思えば部室に連れ去られ、得体の知れない部活に勧誘されたのだ。そう感じても仕方ないだろう。

 だが最初に言ったように、僕は結果的にこの部に入ってよかったと思っている。

 特に目的も熱意もなく、学生らしい青春はそこにはなかったが、代わりに自分自身の居場所と静かな平穏があった。高校でも肩身の狭い思いをするだろうと憂鬱に感じていた僕にとっては、それで充分過ぎるものである。

 美玉先輩にはいつも振り回され、花屋木とは度々衝突した。が、しかしそれは理不尽に殴られたり陰口を叩かれたりするような類いとは明確に違う。一方的な関係ではなく、対等な関係。心の底で僕が望んだ形。部長である彼女がこの部を誇りに思い、大切に思っているのも頷けた。

 だから、だからこそ僕は――

 暗く冷たくなった砂の上、迫るほどの波音が響く中。

 僕たちはすでに陶片に名前を書きこむ作業を済ませていた。再び正三角形の形をとって並んでいる。

 本来のオストラシスは広場にある投票する場所で陶片を投げこみ、それらを集めて総票数を数え、名前ごとに選り分け――その中でもっとも投票数が多かったものを追放するという流れだ。しかし前回は当然のこと、今回もさすがにそこまで仰々しくはない。総数で六千票が集まらなければ無効というルールがあったらしいが、もちろんそれもない。

 僕たちが行うオストラシスのルールは多少簡易的になっている。全員がそれぞれの陶片に一人の名前を記し、公開し、その中でもっとも投票数が多く、かつ過半数を越えている名前の者を追放する。それが半年前に美玉から説明されたルールである。

 緊迫した空気の中、静寂を破ったのは花屋木だった。

「なぁ円樹クン。一つ聞きてぇことがあんだがよ」

「なんだ」

 視線を向けると彼は相変わらずヘラヘラとしていた。それでいながら、全身から苛立ちが滲み出ているのがわかる。陶片を手の中で弄びながら彼は言う。

「お前さんまさか、イカサマしてねぇよな?」

 花屋木は言葉を僕に、視線を沙凪に向けた。彼女はただ静かにことの成り行きを見守ることにしたのか、花屋木とは目を合わせずに俯いむいたままだった。

「イカサマというのは、半年前にお前がやったようなことか? 美玉先輩と一緒に」 

「言ってくれるじゃねえの」

 いきり立つ花屋木に、僕は努めて冷然と切り捨てた。

「いいから始めるぞ。――これより、開票を始める」

「待ちやがれ。もしイカサマがあれば無効だろうがよ」

「残念ながら半年前はそうはならなかった。さぁ、僕から始めるぞ」

 問答無用で僕は腕を突き出す。花屋木は絶句し、場の雰囲気が冷たさを増したように思えた。身の震えるような海のさざめきを耳で聞きながら、夜の海辺に流れる肌寒い風を頬で感じながら、僕はゆっくりと握っていた右手を開く。中の白い陶片が電灯に照らされ、露わになる。そこに僕が記したのは――


   『空木円樹』


 他ならない、自分の名前だった。

 瞠目した花屋木が声を上げる。

「てめぇ、まさか……!」

 僕は右手を力なく下げ、花屋木のほう顔を向ける。

「お前の言う通りだったんだ。僕は他人の気持ちを考えてはいなかった。無神経だった」

 本来オストラシスは、名前を書いた理由を言う必要はどこにもない。だがそれでも今回は事情を説明するべきだと判断した。

 正三角形を自ら崩すように、僕は一人海のほうへと歩き出す。見上げると、月こそ雲に隠れて顔を出していなかったが、明かりの少ないせいか星が鮮やかに夜を彩っていた。 

「……僕は、あの部に入ることができてよかったと思っている。心の底から」

 一歩ずつ、冷えた砂浜を踏みしめていく。

「だから僕は、部のために何かをしたかった。少しでも恩を返せればと思っていた。だから、文化祭は積極的に働こうと決めていたんだ」

 一歩、一歩――

「だがその結果、僕はその想いにかられて美玉先輩と衝突してしまった。自分が正義だと思いこみ、彼女の考えを察そうとはまるで考えなかった。ハートレスサークルを一番考えているのは彼女のはずなのに。……僕が、思い上がっていた」

 やがて波打ち際に辿りつき、足首から下が海水に浸かる。靴も靴下もずぶ濡れになったが構わなかった。僕は遠くに目を凝らす。

 昼間は見えた島の影は、さすがにこうも暗くては目視することは難しかった。どこまでも伸びる灯台の光をもってしても照らし映すことは叶わない。

 エルドランド。『クロノファンタジー』の本編クリア後、厳しい条件を満たすと現れるといわれる地図にもないその島を、彼女は目指していた。僕を含めた多数のプレイヤーがそこに価値を見いだすことができずにいた中、彼女だけが。

「悪いのは、この僕だ。追放されるべきは――僕だったんだ」

 波が一際大きな音を立てた。少し離れた場所に設置されたテトラポッドに波がぶつかったのだろう。潮風がさざめき、街灯を繋ぐ電線が鞭のようにしなる。

 もしかしたら僕は、彼女に許しを乞いたかったのかもしれない。

 どこまでも暗い海に視線を向ける。吸いこまれるような、墜ちていくような、一面の黒。もしこのまま進み続ければ、彼女に会えるのだろうか。そんな感傷めいた非現実的な想像が頭をよぎる。今になって彼女の死を実感している自分がいた。

 だがその瞬間、背中に鋭い痛みが走った。一気に現実に引き戻される。

 振り返ると花屋木がこちらを睨んでいた。

「女々しいこと言ってんじゃねぇよ、この野郎」

 まさかと思い足元を確認すると、あった。波にさらわれかけていたのは、オストラシスに使っていた白い陶片。ヤスリをかけたとはいえ陶器の破片である。なんてものを投げつけてくれるのだ。内心で毒づきながら拾いあげ、それを裏返してみると。

 ――『花屋木優』

 そこには、彼自身の名前が記されてあった。

「一人でヒロインぶってるんじゃねぇ。責任は俺にだってあんだからよ」

「花屋木、お前……」

 彼は早足でこちらへ向かってくる。そして目の前に立ったかと思えば、

「ッ」

 気づけば僕は波を頭から被っていた。頬を殴られ後ろに倒れたのだ。

 今度は幸い眼鏡は外れなかったが、花屋木は僕の襟を掴み上げてくる。

「俺だって……!」

 唸るような声。だが直後、僕を掴んだまま花屋木は力が抜けたようにその場で崩れ落ちる。

「……俺だってなぁ。結果的に、美玉ちゃんに投票しちまったんだよ。例え本人にそそのかされても言い訳にはならねぇ。免罪符にもならねぇ。だから、てめぇだけの責任ってわけじゃねぇ。それがなんだ。何を一人で責任背負いこもうとしてるのよてめぇは」

「引き金を引いたのは、僕だ」

「関係ねぇのよそんなもん。俺もてめぇも、結果に関与しているのは変わりねぇだろ」

「だが僕は自分の意志でやった。憎悪があっての行為だ」

「そういう風に感情をコントロールされてたんだろうよ、美玉ちゃんにな。……だからそれも、お互い様ってわけだ」 

 馬鹿野郎、と彼は力なく呟いた。その顔にはいつもの不敵な笑みではなく、口端を上げて自虐めいた笑みが貼りついていた。

「……花屋木」

 彼は立ち上がって僕に手を差し伸べてくる。僕は、その手を掴もうとする。

 だがそこへ、別の細く白い手が伸びてきた。

「…………あ?」

 花屋木が呆けたような声を出す。

 いつの間に近づいたのだろう、沙凪がすぐそばに佇んでいた。しかし、花屋木はそれで驚いたのではない。目を疑うほどのものが、そこにはあった。

 彼女の手の平にある――一枚の陶片。

 そしてそこに書かれてあったのは。


   『空木円樹』

 

 僕の、名前だった。見間違えようがない。花屋木が信じられないという顔で叫ぶ。

「な……んでだよ! 沙凪ちゃん、どうしてコイツの名前を……!」

「……」

 彼女はしかし答えなかった。目を静かに伏せ、肩から流した髪を指先でなぞる。それから僕に視線を向けてきた。

「空木さん、聞いてもいいですか? 空木さんはどうして、花瓶の欠片と一緒に茶封筒まで花屋木さんに持って来させたのですか?」

「沙凪ちゃん、何を言って――」

「花屋木」

 反論しかけた彼を僕が手でそれを制する。訝しむように花屋木は鋭く僕を睨みつけてきた。

「……まさか、やっぱりてめぇら、グルだったのか……?」

「それは違いますよ、花屋木さん」

 と答えたのは沙凪だった。

「そもそも空木さんが私にお願いしたのは、花屋木さんをここへ連れてくることだけです。それに、もともと空木さんは自暴自棄にはなっていないと思います」

「……どういうことよ?」

 沙凪は答えず、僕に視線を戻す。

「空木さん。もう一度聞きますが、どうして茶封筒を持ってきたのですか?」

「……それは、あの封筒の送り主が美玉先輩ではなく、君だと思ったからだ。それを問い正すために花屋木に持ってこさせた」

「なぜ、私だと?」

 無垢に首を傾げる沙凪。

「……」

 彼女がどうしてこんな質問をするのか意図が読めないが、彼女なりに考えがあるのかもしれない。正直確信はあまりない。が、現時点での僕の推理を聞かせることにした。

「理由としては二つある」

 と僕は指を一本立てる。

「一つ目は、君が持っていた封筒だ。沙凪が持っていた封筒と、僕と花屋木が持っていた封筒の色が違っていた。沙凪は白で、僕たちは茶色だった。色が違うのは、あの白い封筒が美玉先輩から届いたものだったからだと僕は睨んでいる。その中に彼女から細かい指示が書いてあったんじゃないかとな」

 僕は二本目の指を立てる。

「二つ目は、封筒に貼ってあった印刷物。手書きではなく、わざわざ名前と住所を印刷したものを貼ってあったのは少し違和感があったんだ。なぜそんな手のこんだことをしたのか? それはたぶん、手書きでは字でバレると思ったからだと僕は推測する」

 一拍置いて、僕は言った。

「なぜなら君は、『書記の専門』だからだ」

 僕たちが彼女の字を見慣れている上、彼女の字は誰よりも美しい。特徴的だと言い換えることもできる。それを意識していたからこそ彼女は、意図的に手書きを避けたのだ。

 思えば沙凪の様子はおかしかった。何かに動じていた、というわけではなく――何にも動じてはいなかったことが。花屋木から美玉の死を聞かされた時も、彼女は特に何のリアクションもしなかった。いくら『出る杭は打たれる』を戒めとする彼女といえど、まったく動じないのはさすがにおかしい。

「君は、最初から知っていたのか。美玉先輩の死も、こうして僕たちがオストラシスをすることも――その結末も」

「ご名答です、空木さん」

 沙凪は薄く笑う。彼女のこんな表情を見るのは初めてだった。

 今だ回転し続ける灯台の光を見つめながら、沙凪は僕に尋ねる。

「では空木さんは、なぜオストラシスが私たちの部の伝統に組みこまれているのか、それを考えたことはありますか?」

「……ああ」

 と僕は力なく答える。

 半年前、美玉が『伝統だから』という理由でハートレスサークルを強行して以来、何度も考えたことだ。これも確信はないが、自信はそこそこあった。

「あれは、単なる形だけの儀式だと僕は思う。本気で誰かを追放するわけではなく、お互い自分の名前を書くことで自らを戒め、部の調和を保つのが狙いだったんだ」

 儀式とは一見無意味なものに見えるのが常だが、その効果は大抵、精神的な成長を促すためにある。例えば成人式や結婚式でも、華やかではあるが実際には莫大なお金と時間をかけてまでそれをする必要性はどこにもない。だが子供が大人になるために、男女が夫婦になるために、定められた儀式を行うことで心の成長を促している。無意味なようできちんと意味を持っている。

『オストラシスは部の調和のためにある』

 花屋木に言っていた美玉のその言葉は、つまりはそういうことだったのだと思う。彼女はその儀式を逆手にとる形で利用してしまったが……。しかしその一方で。

「美玉先輩は、きっと信じていた。再び僕たちがオストラシスをして、それぞれが自分を戒めた後で、最後には仲直りをすることを。そんな結末を彼女が望んでいるとわかったから、僕はオストラシスをまたやろうと決めたんだ。……だが、君は……」

「さすがは『ミステリの専門』ですね、空木さん」

「はぐらかさないでくれ。……どうしてだ? なぜ君は僕の名前を書いた?」

 沙凪はしかし、小さく頭を振った。

「はぐらかしてはいません。それに、私が、いつ空木さんの名前を書いたと言いました?」

「……な、に?」

 言っている意味が、わからなかった。名前を書いてない? だが、彼女の手の中にある陶片にはたしかに僕の名前がある。彼女以外に誰が書いたというのか。あるいは何か見落としている部分がある……?

 そもそも沙凪はなぜ、封筒のことを今僕に尋ねたんだ? 

 もしもそれが、遠回しのヒントだったとしたなら?

 そっと彼女に手渡された陶片を見て、僕はハッとする。見落としていたことに気づく。

 これは、沙凪の字じゃない。彼女のあの美しい字とは似ても似つかないのだ。沙凪は封筒の件を指摘することで、それを気づかせようとしていた。そして、改めて陶片を観察すると。

「これは……僕の、字?」

 つまり、僕の陶片だった。

 さっきまで手に握っていたはずなのに、いつの間にかなくなっていた。見落としていていただけでなく、実際に落としてもいた。

 恐らく花屋木に殴られた拍子に知らず手から離れ、それを沙凪が拾ったのだろう。その証拠に彼女はもう片方の手を開き、最後の白い陶片を露わにする。

 そして彼女は言った。

「私だって、悪いんです。私も自分の意志で、春日井先輩に投票したのですから」

 月を覆っていた雲に切れ目ができて、柔らかな光が漏れた。暗澹としていた海面が眩いほどに一斉に輝き出す。その水面に、彼女の手からこぼれた陶片が落下する。ちゃぽん、と小気味よい音を立て、わずかに波紋を広げながら。 

 沈んでいくその陶片には、彼女の美しい文字で『凛々宮沙凪』と記されてあった。





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