第3話 魔王の真意



 これをあなたたちが見る頃には、あたしはすでにこの世にはいないでしょう。

 ……やー、人生で一度は使ってみたかった言葉だったけど、まさかこんなに早く使えるとは思わなかったなぁ。これがアニメとかゲームだったら、そんな感じの手紙を読んだ主人公がギリギリのところで駆けつけて救い出してくれる胸キュンな展開もありえるんだろうけど、現実はやっぱり甘くないみたい。

 救ってくれるはずの勇者様は訪れず、ミラクルも起きず、ご都合主義な展開はもちろんあるはずもなく、あたしは死ぬ。たぶんきっともしかしなくても――死んじゃう。

 この身に巣くう、病魔によって……って、なんかちょっとヒロイックになってるじゃないかあたし。これじゃあ『身勝手が過ぎるぞ』って、円樹くんに怒られちゃうよね。

 そもそもの話。あの時勇者を拒んだのは、あたしだっていうのに。





    三



 半年前、文化祭の準備を進めていた頃だった。

 当時一年だった僕らの初めての出し物は、文集作り。他の部活も準備を進めているらしく、作業をしていると廊下から楽しげな声が聞こえてきた。その時は雨で、部室の窓ガラスに水滴がびっしりと貼りついていたのを憶えている。

「円樹くん、君は『蝶道』という言葉を知ってるかな?」

 そう聞いてきたのは、部長である春日井美玉だった。

 光の加減によっては青みがかって見える髪を無造作に後ろで束ね、部屋の隅にあるパイプ椅子に制服のまま体躯座りという行儀の悪い格好。どこか狐を思わせるような、吊り気味なその大きな目が僕の姿を映し出す。

「さぁ、寡聞にして知りませんが。それが?」

 彼女は待ってましたとばかりに得意げな顔になる。髭もないのに顎を指でなぞる仕草が実にわざとらしかった。

「ふっふー、ならこの美玉さんが教えてしんぜよう。蝶道というのはね、文字通り蝶が進む道のことを指すんだよ」

「蝶の道、ですか」

「そそ。蝶というのは自由気ままに飛んでいるようで、その実決められたルートを通っているんだよ。そのルートを『蝶道』っていうの。オスの蝶がメスの蝶を効率よく探すためのものなんだって。不規則なようできちんと規則があって、無意味なようで意味がある。つまりはそゆこと。あんだすたん?」

「ええ、とても勉強になるお話で」

「そっかそっかー、よかったよかった」

 一仕事終え、満足そうに美玉はテレビのほうに向き直る。一時停止していた『クロノファンタジー』の戦闘画面に戻ろうとする。

 そこでみすみす逃がすような僕ではなかったが。

「それで?」

 と努めて硬く低い声を出す。

 途端、彼女の背中が思いきり跳ねた。恐る恐るといった感じでこちらを振り返る。

「は、はひ……?」

「その『蝶道』と美玉先輩がゲームをして文集作りをサボっていることに、一体どんな関係があるというんですか? まさか、自由気ままにゲームをしていることに実は意味があるとでも抜かすわけじゃないだろうな」

「え、円樹くーん? めっちゃタメ口だけど一応あたし先輩なんだけどなー?」

「人間扱いしているだけマシだと思いますが。敬って欲しければちゃんと仕事して下さい」

「働かざる者人にあらず……世知辛い世の中だねぇ。でもあたしは――」

「ちなみに。『ゲームの専門だからゲームが仕事』というくだりは聞き飽きたからな」

「……ふ、ふふ。ゲームの専門? ノンノン、あたしはもう『ゲームの達人』と呼ばれても過言ではないのだよ円樹くん」

 などとのたまう。さっきからこの調子でのらりくらりと躱されてばかりだった。

 冬のストーブを占領する猫よろしくテレビゲームにべったりな彼女は、僕が何を言おうがもっともらしいことを垂れ、ゲームを続行した。それだけでなく、一人では倒せない敵が出現したとなると部員たちに加勢を求めた。コントローラーをわざわざ四つ用意してあるのはそのためだ。

 極めつけがRPGで度々出てくるダンジョンの謎解きである。僕が『ミステリの専門』であるのをいいことに、彼女は謎解きで行き詰まるとすかさず僕を呼んだ。むしろそのために『ミステリの専門』を与えられたのでは、と疑ってしまう。

 いつもは僕が不承不承折れる形になるのだが……しかし、今回は状況が違った。僕自身にも思うところがあった。

「文化祭ですよ先輩、文化祭。ゲームなんていつでもできるはずだ。部長であるはずのあなたが率先してやらないでどうするんですか」

 詰め寄ると、美玉は目を逸らして唇を尖らせる。

「……えー、いーじゃん別にー。ハートレスサークルだよ? 熱意のない集まりなんだよ? 熱意を出しちゃったらそれはもうハートレスサークルじゃなくない?」

 みたいなー、とボソボソと独り言のように嘯く彼女。

「…………」

 瞬間、僕の頭の中にある糸のようなものがプツンと切れる音がした。思考が飛んだ。気づけば僕は動いていた。

 僕は無言でテレビに近づき、ゲーム機本体に繋がれているコードに手をかける。

「えっ、ちょ、円樹くん!?」

 慌てふためく彼女の前で、僕はコードを力任せに引き抜く。引き抜いていく。コードというコードを、ゲームに繋がれたAVケーブルもアダプターケーブルも容赦なく、テレビの電源もメモリカードもコントローラーも含めすべて根こそぎ。

「あああああああー!? セーブ、まだセーブしてない! あのダンジョン難しくてかれこれ三時間も迷ってようやくたどりつけたと思ったのにー!?」

 悲鳴が上げるが、知ったことではない。振り返って僕は改めて彼女と対面した。

「何がハートレスサークルだ。何が部長だ。何がゲームの達人だ。あなたがやっているのは部室の私物化だ。無駄に占領して、無駄にゲームして、無駄に時間を浪費しているだけじゃないか」

「ううー、何もここまでしなくたっていーじゃんかぁ……」

「ゲームなんて、するだけ無意味だ。時間の無駄なんですよ」

 少なくとも僕は、親からそう教えられてきた。もしかしたらそういった記憶がここまで自分を過敏にさせているのかもしれないが、そんな風に分析するのもまた無駄だった。

 美玉先輩はようやく落ち着いたらしい。電源の切れたゲーム機に名残惜しそうに視線を送った後で、少し困ったような顔を僕に向ける。 

「無意味かどうかは、他人が決めることじゃないよ。キミにとっては無意味でも、別の誰かにとっては大事な意味があるかもしれないでしょう?」

「話をすり替えるな。というか、文化祭の準備以上に大事だというそのゲームをする意味を教えて欲しいものですけどね」

 ぜひ、と僕は彼女を真正面から見下ろす形で睨みつける。

 沈黙が横たわった。吹奏楽の演奏や廊下からの話し声がうるさく感じるほどの静寂。今まで呆然としていた沙凪たちが止めに入ろうとする。だがそれより一瞬早く、美玉が声を漏らした。はああ、と深い溜息をつきながら。

「なぁーんか、部室内がギスギスしちゃってるね。居心地悪いなぁ。これはもうアレをするしかないのかも」

 ハートレスサークルの伝統に則ってね、と彼女は言った。

「……何を?」

 怪訝に僕が問いかけると、美玉は複雑そうに微笑み静かに告げる。

 どこか切なげに、どこか寂しそうに。

 明日の放課後、『オストラシス』をしましょう――と。




 オストラシス、オストラシズム、オストラキスモス。

 呼び方は色々あるが、和訳では『陶片追放』と呼ばれる古代ギリシャに伝わる追放制度だと彼女は説明していた。昔は誤訳で『貝殻追放』と呼ばれたこともあったらしい。それもあり半年前は貝殻を使用していた経緯がある。

 割れた陶器の破片や貝殻の裏側に追放したい人の名前を刻み、投票し、ある一定の数が集まればその人物を十年に渡り追放するシステム。選んだ理由を必要としない、結果が出れば有無を言わせず強制退去させる制度だ。追放するのは主に僭主(せんしゅ)――ざっくり言えば国家にとって有害だと見なされる者――と思われる人物だった。ゲーム脳な彼女はそれを『平穏を脅かす魔王』と表現していた。

 ハートレスサークルの平穏は守らなきゃいけない、と彼女は言った。そのためにオストラシスをするのだと。あるいはしてきたのだと。

 平穏を乱す者は誰か?

 悪いのは誰か?

 魔王は誰か?

 それを決めるためにあの日の放課後、あのオレンジ色に染まる砂浜で、僕らはオストラシスをすることとなった。それに何の意味があるのかと抗議をしたが、『伝統だから』の一言でかたづけられた。誰にも彼女は止められなかった。

 そして、その結果。

 過半数の票を満たして選ばれたのは、春日井美玉だった。

 彼女は最後まで自分の貝殻を見せようとはしなかったが、他の三つの貝殻はすべて彼女の名前だったので結果は変わらない。僕はともかく、他の二人がなぜ彼女に票を入れたのかは知らない。僕も言っていない。選んだ理由を問わないのがオストラシスのルールだったからだ。

 そして、その翌月。

 彼女は何も告げず、この街を一人静かに去って行った。


    ◆


 魔王が死んだ。

 オストラシスをして、僕らの前から消えていった春日井美玉が、死んだ。

 あまりにさりげなく発した花屋木の言葉に対し、僕はたっぷり三秒、もしかしたらもっと長い時間、思考が停止していた。息が止まった。部屋に充満する植物の匂いも感じなくなり、一瞬自分がどこにいるのかも忘れてしまった。

 親づてに聞いたという花屋木の話によると、彼女は病死だったらしい。

 何の病気かはわからない。ただ、学校で僕らと部室で過ごしている頃から悪かったらしい。そんなことなど彼女はおくびも出さなかったので気づきようもなく、僕はただ為す術もなく結果だけを提示される形になった。それも最悪の結果を。

 花屋木は立ち上がって窓を開ける。五月の抜けるような風が入ってきたが、この重々しい雰囲気を払拭することはできなかった。

「俺、思うのよな。美玉ちゃんはたぶん、わざとオストラシスをしたんじゃねえかって」

「どういうことだ?」

「それを考えるのはお前さんの専売特許だろうがよ。ミステリの専門さんよ」

 トゲのある口調。花屋木の目にはなぜか僕に対する敵意が滲んでいるような気がした。

「花屋木さん」

 たしなめるように沙凪が真面目な顔つきになる。

「……わーったわーった、そんな睨まないでおくれよ沙凪ちゃん。でまぁ、その根拠なんだがよ。俺、実はあの日の前日、美玉ちゃんに呼び出されたのよ」

「オストラシスをする時に、自分の名前を書いてくれと頼まれたのか?」

 即座に返す僕に、片眉をぴくりと動かす花屋木。

「……本当、ムカつくくらい今日はキレッキレじゃねぇの。見てたのかよ?」

「いいや。僕はともかく、お前が美玉先輩の名前を書いたのはおかしいと思ったんだ。なんだかんだ先輩を慕っていたお前が自分の意志でやったとは思えない。であれば、直接先輩に説得されたというのが妥当だろう」

「ああそうだよ。こう言われたんだ。『オストラシスは調和のために行うものだから、あたしを信じて』――とかなんとかな。調和どころかあの結果だぜ? 見事にダマされちまった」

 ハハ、と花屋木は力なく笑う。

「……」

 彼女が死んだことによって、僕の中に喪失感みたいなものは生まれなかった。

 まだ実感が沸かないのかもしれない。こんな風に呼び出されて、突然に知らされて、頭の中で処理が仕切れていないのだと思う。

 自然とこみ上げてくる感情は困惑と、そして怒り。

 酷く理不尽に感じた。もし、美玉がわざとオストラシスをする状況を作ったのなら、僕はまんまと乗せられたということになる。破滅のトリガーを無理やり引かされた形で。彼女がなぜそうしたのかはわからない。僕にはとても理解できない。

「……理解、したくもない」

 心の中だけに留められず、声に出てしまった。窓の外を眺めて黄昏れていた花屋木の背中がわずかに反応した。

「今、なんつった?」

 背を向けたまま聞いてくる。しまった、と思ったが僕は努めて平静を保つ。

「別に何でもない」

「理解したくねぇっつったな。それは美玉ちゃんのことを言ってるのかよ?」

「……だから、何でもないと」

「しゃあしゃあと嘘つくんじゃねぇ。変わってねぇなしかし」

「何がだ」

「そういう無神経なところがだっての。いつも人様を見下して、他人を理解しようとしないところが変わってねぇっていってんのよ」

 これっぽっちもな、と花屋木は振り向いてせせら笑う。僕はその場で立ち上がり、花屋木と対峙する形になった。沙凪が止めようと手を掴んできたが軽く振り払う。

「何をそんなに苛立っている、花屋木。僕が何かしたか」

「自分の胸に聞いてみろ」

「あいにく、僕の胸には聞く耳も喋る口もないからそれは難しいな。できればお前の口から聞ければありがたいんだが」

「言うじゃねぇのよ」

 にじり寄り、花屋木が僕の襟を掴んでくる。間近には彼の顔が迫っていた。いつものへらへらとした態度は消え、今はその顔から表情が抜け落ちて虚ろに近い。

「お前が――お前があんなことをしなけりゃもっと違う結末になったかもしれねぇんだ。美玉ちゃんを一人で死なせることも、なかったかもしれねぇ……」

「あれを引き起こしたのは美玉先輩自身のはずだろう、お前の言うことが正しければな。遅かれ早かれああなってたんじゃないのか」

 正論を突かれて動揺したのか、花屋木の手が僕の襟から離れる。

 だがその直後、左の頬に衝撃が走った。殴られた、と認識した時には僕の身体はすでに吹き飛んでいた。眼鏡が宙を舞う。後ろの棚にぶつかり、置いてあった花瓶が落下する。沙凪の悲鳴と共に、がしゃんと割れる音が響き渡った。

「うるせえよ」

 吐き捨て、冷ややかに僕を見下してくる花屋木。

「だからお前は無神経だっていってんのよ。人の気持ちを理解しねぇ。理解しようともしねぇ。なんだ、なんなんだ? 世界が自分のために回ってるとでも思ってんのかよ?」

「……」

 何も、出来なかった。言い返すことも、立ちあがって殴り返すことも。

 ただ僕にできるのは、その場から逃げ出すことくらいだった。『頭を冷やしてくる』と呟き僕は部屋を後にする。出て行く間際、割れて砕けた花瓶が目に入った。数枚の花びらが無惨にも散らばっている。

 夕焼け色に染まる花。アルストロメリア。

 花言葉は『未来への憧れ』――そして、『友情』だと花屋木は言っていた。



     ◆



 白く濁った海水が、足元をさらう。

 細かく砕けた波は表面に世界地図のような模様を描き、去り際に素足の裏にある砂を掻きだしていく。結果、僕の足は下へ下へと沈みこみ、気づけば足首まで埋まっていた。

 どれくらいそうしていただろうか。

 赤く色づき始めた空と海を前にして、僕は立ち尽くしていた。

 几帳面に定規で引いたような地平線の向こう、うっすらと島の輪郭が浮かんで見えた。美玉先輩はあそこに行ったのかもしれない。なんとなくそう思う。

 ここは、あの『オストラシス』をした忌まわしい場所。

 そして同時に、もともとは僕にとって特別な場所だった。肌で風を感じながら目を瞑ると、波の音が心地よく、気分が落ち着く――

 見るともなしに波を眺めていると、少し前もまた同じように黄昏れていた記憶が蘇る。

 中学の頃から僕はクラスにも学校にも馴染めなかった。もともと他人との距離の取り方が不得手であるらしく、それで度々摩擦もあった。上級生からは年下のくせに生意気だと殴られ、同級生からは偉そうだと陰口を叩かれ、下級生からは畏怖の対象として見られた。特に自分が何をしたという自覚はないのだが、そう思われるのだからそうなのだろう。自分の欠点とは意外なほど気づけないものだ。

 そして恐らく、それは高校に入っても変わらない。入学当時もその現実に打ちのめされた僕はこの浜辺に足を運び、一時の間だけでも忘れようとしていた。そんなある日の事だった。


『黄昏れちゃってるねぇ、少年。お姉さんと一緒にイイところに行ってみない?』


 そんな風にいきなり謎の少女に声をかけられた。口調が完全にナンパのそれだった。

 カラフルな浮き輪をその細い身体に通していたのだが、小さな子供ではなく制服姿の女子高生。個性的なファッションなのかこれから着衣泳の練習でもするのか判然としなかったが、奇人変人の類いであることは確かだと思った。後で聞いてみれば、浮き輪は浜辺で見つけた戦利品なのだという。やはり変人だった。

 彼女の誘惑に対しわりと本気で抵抗は試みたものの、結局口車に乗せられ手を引かれるままに僕は連行された。幸いにして、連れて行かれたのはいかがわしい場所ではなかったが。

 案内されたのは、憂鬱の元凶である僕の通う高校。その校内の奥まった場所にある一室だった。文芸部と書かれたプレートがあったが、春日井美玉と名乗る彼女は別の名前を口にした。首を傾げ、柔らかな微笑みを浮かべながら。

『ようこそ、ハートレスサークルへ』

 そう言って伸ばされる、彼女の手。

 僕は戸惑いながらも、なぜかその手を掴んでいた。理由はよくわからない。本能的に自分が求めている場所なのだと、僕は知っていたのかもしれない――

 ふと後ろから、砂を踏みしめるかすかな音が聞こえてきた。

「やっぱりここにいたんですね、空木さん」

 思考が途切れる。振り向くと、沙凪が後ろに立っていた。潮風に吹かれる髪を手で押さえ、いつもと変わらない楚々とした笑みを浮かべている。

「よくここがわかったな」

「ふふ、わかりますよ。空木さんのことなら」

「本当は?」

「……ええと、実は花屋木さんにアドバイスを頂いてここに来ました。よくわかりましたね」

「わかるさ。お前たちのことなら、少しだけな」

 ハートレスサークルに入ってまだ数ヶ月ほどしか共に過ごしていないが、それなりに彼らを知っている部分はある。そういう意味では、無駄ではなかったと思える自分がいる。

 沙凪は目を細め、遠く離れた島を眺めた。

「ここ、落ち着きますよね」

「ああ」

「……私、昔は落ちこんだりするとこの浜辺によく来ていたんです。中学生の頃は虐められていて、その度にここで一人泣いていました」

「それで美玉先輩に拾われた――と」

 沙凪は意外そうに視線を向けてくる。

「もしかして、空木さんもですか?」

「まぁそんなところだ」

 恐らく、花屋木も。彼は僕たちが入部した経緯を美玉先輩から聞いていて、この場所を沙凪に教えたのかもしれない。

 そんな沙凪はそこが定位置だとでもいうように、僕の右斜め後ろで静かに佇んでいる。丁寧すぎる挨拶といい、今といい、彼女は少し慎ましさが過ぎている。過去の虐めが原因だとは思うが、『出る杭は打たれる』を意識しすぎた彼女のその姿勢は、よそよそしささえ感じる人は多いだろう。

「空木さん」

 と、沙凪は目を軽く瞑って切り出してくる。

「花屋木さんは、空木さんのことを根っこから嫌いなわけではないと思います」

「……だから、君は僕たちの仲を誤解していると――」

「私はそうは思えません」

 沙凪はなぜか譲ろうとはしない。だがそうでないにしても、良好な仲とはさすがに言えないだろう――そんな僕の考えを先回りするように、彼女は言った。

「ほら、花屋木さんって花に名前をつけますよね?」

「……ああ」

「花屋木さんがご両親の都合で転校ばかりしていたのはご存じだと思いますが。あの方は、作ったご友人と別れる度に花を増やしているのだそうです。……別れた友人だと思って、愛情こめて育てていると私は聞きました。――別れるのが辛くて、友達を作るのにも億劫になってしまったということも」

「……」

「あの部屋には、空木さんのもありました。それはつまり――」

「……言いたいことは、わかった。もういい」

 目を伏せて、僕は深くため息をつく。

 なんなんだ、はこちらのセリフだ。わざわざ『無神経』の花言葉を選ぶところをみるに、やはり良好な関係とは言えないのだろうが。

 ああ見えて花屋木は繊細な心を持っている。平気なふりを装ってはいたが、美玉先輩が死んだことを聞いてかなりショックを受けたはずだ。その証拠に、水もろくに与える気力もなかったのだろう、大事にしているはずの庭の花たちが少し萎れていた。 

 土台、お互いに関係が噛み合うことは難しい話である。

 僕らはそれぞれに他人との間に断絶する要素が何かしらあり、結果的に孤独になってしまう性質を持っているのだから。でなければ、ハートレスサークルには所属していない。

 無神経で無愛想な人間。慎ましさが過ぎるために親密な関係を作れない人間。転校を繰り返し、花を友人のように大事に育てようとする人間。

 そういった人種であるからこそ、僕らは自らの心の孤独を癒やすためにこの海を訪れ、そして春日井美玉という少女に拾われた。価値なきものに価値を見いだす彼女によって、あの放課後の部室へと誘われた。

 ――ハートレスサークルはね、『居場所』と『自信』を与えるところなの。

 そう、彼女は言っていた。

 特別な目標も熱意もいらない、ひたすら純粋な居場所なのだと。そしてどんなことでもいいから『専門』を与えることで、自信を持たせたいのだと。それがハートレスサークルの本質だと彼女は語っていた。

 だったなら、と僕は推測する。

「……たぶん美玉先輩は、自分の死を知られてしまうことで、ハートレスサークルの平穏が壊れてしまうのを恐れたんだろう」

 沙凪は黙ったまま僕の声に耳を傾けている。僕は続けた。

「だが、いきなり転校するのはさすがに勘繰られる。だから彼女は『オストラシス』をして、そのルールを逆手にとって、僕たちの前から自然に消えるという演出をしてみせたんだ」

 あの部室は、彼女がそうまでして守りたいと願った場所。もしかしたら彼女もまた、先代の誰かにこの浜辺で『拾われた』のかもしれない。

 空を見上げると、いつの間にか夜の帳が落ちようとしていた。じきに灯台の明かりがつくことだろう。

「沙凪、君に頼みたいことがある」

 僕は砂に埋もれていた両足を引き抜き、振り返って彼女の前に立った。僕の異質な雰囲気から何かを感じとったのだろう。沙凪は不安げに眉を寄せる。

「空木、さん……?」

 美玉先輩と同じように、僕もまたあの場所を守るために覚悟をしなければいけない。

 例え正しい選択が――苦痛を伴うものだとしても。


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