綱引き部

kiki

第1話

「ピック・アップ・ザ・ロープ」

 地面の綱を持ち上げる。

「テイク・ザ・ストレイン」

 両手で綱を持ち、引く態勢に移る。

「ステディ……」

 動きを止める。

「プル!」

 綱を全力で、引く。ただ、それだけのスポーツがある。


「やめる!?」

 放課後、高校の体育館だった。綱引き部のキャプテンは、沢木から突然言われたことを驚いた様子で繰り返す。

「やめるってどういうことだ! 沢木!」

 キャプテンは角刈の三年生。レスリングをやっているような体重百キロ近くある巨漢で、目が細い。太ももが丸太のようにぶ厚く、鍛え上げられた筋肉はボディビルダーのようだ。

「言葉の意味、そのまんますよ」

 対する沢木は二年生。背は百八十センチと高いが、体重は七十キロほどとやや痩せている。髪を茶髪に染め、目つきが鋭い。しかし、キャプテンにガンを飛ばしているわけではなく、これは生まれつきだ。とぼけたような口調で、眉をしかめるキャプテンに言った。

 この騒ぎに綱引き部のマネージャーがやってくる。琴浦雫(ことうら しずく)。沢木の同級生で小学校からの幼馴染。両サイドをゴムで束ねたツインテール。上は体操服、下はジャージ。背が低く、タレ目で弱々しい印象を与え、守ってやりたいという男心をくすぐるような女の子だった。

「竜ちゃん。どうして突然?」

 沢木は心配そうに見つめる幼馴染を見下ろす。面倒くさそうに首の後ろをかきながら、

「だっせーんだよ。今どき、綱引きなんて、はやんねー」

 昨年のちょうど今のように暑い季節。沢木は何の部にも所属していなかった。放課後は体育館裏にしゃがみ、一人でタバコを吸っていた。そのとき突然、キャプテンに「綱引きしないか?」と誘われた。最初は断ったが、綱引き部は部員が不足していたせいで交渉は一回では終わらない。あるときは「綱引きはいいぞ」と聞いてもいないのに勝手に熱く語り出し、またあるときは「タバコは健康によくない」と言って取り上げたり、しまいには「お願いします」と頭まで下げるので仕方なく入部した。

 沢木としては絶対やりたくない、ということはなかった。なめられないように、体力と筋肉をつける必要があるなと感じていたことは確かだった。

「今まで我慢してたけど、もう限界だ」

 沢木は視線をキャプテンに戻す。

「つーわけで、俺は今日限りやめますわ。よろしく」

 あくまで軽い調子で沢木は告げた。キャプテンは口を真一文字に結んだまま、黙っている。

「そんな……。頑張ろうよ。竜ちゃん。もうすぐキャプテンの引退試合なんだよ?」

「うっせーな。メス豚。やめるっつったらやめるんだよ」

 蛇のような目つきで睨まれた雫は、ひくっと肩を揺らして一歩後退した。

「てめ! 俺の琴浦ちゃんに向かって!」

 その様子に黙っていられない同級生の部員の一人、戸田が声をあげる。彼は雫に想いを寄せるムードメーカだ。腕立て、腹筋などの筋トレの最中、立ち上がった。

「調子こいてんじゃねーぞ! この不良が!」

「ああ?」

 戸田は沢木の睨みに、「うぅ……」と一瞬怯む様子を見せた。

「つーか、俺の琴浦ちゃんって何だよ。きもいんだよ。お前」

「な、なんだと! 何と言われようが俺は琴浦ちゃんが好きだ。大好きだ。付き合ってください」

「え? ごめんなさい」

「ガーン! 即答!」

 険悪な状況下での流れるような告白、そして断られる一部始終に筋トレ中の部員たちから笑いが漏れた。ショックを受けたのか、体を踊るようにくねらせる戸田の頭頂部にキャプテンの拳が振り下ろされる。

 ゴン!

「お前は引っ込んでろ」

 戸田は両手で頭頂部を押さえ、涙目になっていた。ムードメーカーが退いた後、キャプテンは沢木を見た。

「わかった。だが、残念だな。次期キャプテンはお前に任せようと考えていたんだが……。今日は練習はやるのか?」

「いや、もう帰るんで」

「そうか……。またやりたくなったらいつでも来いよ」

 キャプテンは寂しそうな顔を一瞬だけ見せた。

「よしお前ら。腕立て、腹筋が済んだ奴から練習だ!」

 部員たちに大声をかける。すぐにいつものキャプテンに戻っていた。




「千夏が……病気?」

 妹の現状を知ったのは、部活をやめると宣言する一週間ほど前のことだ。アパートの食卓でお袋と夕飯を食べているときに聞かされた。

「病名は?」

「肺の病気。手術を受ける必要があるわ」

 手術。

 そう聞いたとき、千夏の苦しむ姿が思い浮かんだ。次にお金の心配が脳裏をよぎる。

 お袋は父と十年前に離婚した。それから女手一つで俺と妹を育ててきた。離婚した父から養育費をもらっているが、それでも日々暮すのがやっとの中、千夏の病気、そして手術。

「あんたは心配しなくてもいい。安心して学校に行きなさい」

 そう言ってくれた母の顔は疲れていた。朝から晩まで毎日働いた疲労は隠せない。

 何か手伝えることはないか。

 すぐ思い浮かんだのはバイトだった。学校が終わった後なら時間はある。綱引き部はやめるしかない。

 沢木が一週間で出した結論だった。ださいなどと言って本当のことを言わなかったのは、雫に余計な心配をかけさせないためだ。沢木にとって彼女は特別な存在だった。

 昔からこの獲物を狙っているような目つきと、態度が悪いせいか、沢木は学校で孤立していた。そんな彼に話しかけてくれたのが雫だった。最初はうっとうしいとしか思っていなかった。しかし、小学校の高学年だったか。休憩時間中、トイレから教室に戻ろうとして足を止めた。雫の声が教室内から聞こえたからだ。

「竜ちゃんは別に、不良なんかじゃないよ!」

 おそらく教室にいる誰かが俺のことを悪く言ったんだろう。それで雫が怒ったんだ。おかげで俺は教室に入りづらくなり、無駄に校舎を歩いて時間稼ぎをするはめになった。

 何、俺なんかのために本気になってんだ。あいつ。

 湧き出る心地良さをとっぱらうかのように、幼馴染を悪く言おうとする。それでも嬉しさからつい、頬が緩む自分が、なんかムカついた。

 それから、沢木は雫と友達以上恋人未満の関係を続けている。彼女と一緒にいる時間は妙に落ち着く。心が洗われる。「ありがとう」という言葉は恥ずかしくて言えなかった。


 部活をやめるといった次の日は休日だった。

 沢木は入院中の千夏を訪れた。パジャマ姿の彼女は上体を起こし、ときどき咳を挟みながらも、いつもの笑顔で迎えてくれた。普段は髪形を気にしている妹だが、今は入院中ということでばっさりと髪を下している。

「おっす。兄貴。元気? 私は病気!」

 うるさい奴だ。

 同室で入院中のおじさん、おばさんから笑いが漏れた。

「寝てろよ。手術があるんだろ?」

「わー。兄貴が私の心配? 明日は雪が降るのかな?」

 千夏はおちょくるように遠くの窓の外を眺める。

「お前な……こんなときぐらい安静にしてろ」

「えー。だってせっかく兄貴がお見舞いに来てくれたのに、対応してやらないと可哀そうじゃん?」

「可哀そうとか言ってんじゃねー。すぐ帰るから余計なことに気を使うな」

「はいはい」

 千夏は言われたとおり、うつ伏せに寝た。ゴホゴホと咳を挟む。沢木はベッド近くの椅子に腰を下した。

「ところで兄貴。雫ちゃんとはどう?」

 いたずら小僧のように笑う妹。

 千夏は二歳年下の中学生。雫と兄が一緒にいるところを何度か目撃していたことがきっかけで、雫のことを知った。夏休み、冬休みなどの長期の休みに遊んだりしている程度の仲だ。

「どうって何だ?」

「またまたぁ……。うまくいってるのか、どうかってことだよ」

「ああ? まあ、ふつー」

「普通ねー。いつになったら、恋人のような関係になるのか、心配で心配で」

「人のことを心配してる場合か」

 本当に病気かってぐらい千夏は普段通りだった。

 ていうか、うぜー。

「部活、頑張ってる?」

「あ? ……まあな」

 やめたとは言えない。

 こいつのことだ。根ほり葉ほり問い詰めてきて、やめるなって言うに決まってる。だから俺は嘘をつくことにした。

「それにしては元気なさそうじゃん?」

「……俺はいつも元気ねーよ。世の中、めんどくせーことばっかだからな。嫌になる」

 勉強はもちろんだが、学校とか、学校とか、学校とか。

「ふーん」

 千夏は兄の顔を凝視。真顔の妹と見つめあうこと三秒ほどが経った。

「んだよ」

「別にぃ」

「……ていうか、お前は元気だな」

「まあね。死ぬわけじゃないし」

「死ぬとか、口に出すなよ。縁起でもねー」

「兄貴が縁起とか気にするの初めて知ったよ」

 病室の中に笑いが響いた。沢木はため息で応じた。

 この分だと大丈夫そうだ。

「あいかわらずだね」

 千夏はぼそっと呟いた。沢木には聞こえなかったようで、「何か言ったか?」と返す。

「なんでもない」

 千夏は「よっこらしょ」と言いながら寝返りを打った。


***雫***


 沢木が部活をやめてから一週間後。

「竜ちゃん?」

 部活が終わってから、雫は家の近くのコンビニに寄った。そこでレジ打ちしている沢木に会った。

「バイトしてたの?」

「ああ。そうだよ」

 沢木は雫の顔を見ず、出された紙パックの飲み物とお菓子をストローと一緒に淡々と袋に詰めていく。平気なふりをしているように幼馴染の目には映った。

「聞いてないよ」

「話してないからな」

「どうして?」

 綱引きをやめたことに関係があるのではと、口に出した。

「……遊ぶ金欲しいからだよ」

「それだけ?」

「わりーか? 後、金払えよ」

「あ」

 雫はレジに映し出された金額を見て、慌てて財布から小銭を取り出した。

「ありがとうございました」

「竜ちゃん。あの……」

「次のお客様。どうぞ」

 後ろに並んでいる客を優先させる沢木。俺に関わるなと言っているようで、仕方なく雫は袋を持ってコンビニを後にした。

 何か隠してる。

 自宅に帰った雫はシャワーを浴びて、パジャマに着替える。熊の顔がプリントされたお気に入りのパジャマだった。食卓で遅めの食事。母が作り置きしていたご飯を少しだけ残す。沢木にメス豚と言われたことを気にしていた。

 自分の部屋に入り、姿見で立ったままの自分を見ながらお腹の肉をつまむ。

 豚って言われるほど太ってるかなあ。

 はあ……とため息。

 ベッドに仰向けに寝転がった。枕元のスマホを手に取り、アドレス帳を開く。

 電話して、どうするの?

 自分に問いかけてみる。

 あの様子だと、自分から喋ることはないよね。これ以上、うざがられるのも嫌だし。

 諦めてスマホの電源を切ろうとしていた。そのとき、電話がかかってくる。相手は沢木の妹、千夏からだった。

 どうしたんだろう。こんな時間に。

「もしもし?」

「あ、琴浦さん。夜分にすみません」

「千夏ちゃん。久しぶりね。どうしたの?」

「いやー。気になったことがあって電話しました。兄貴のことで」

「竜ちゃんのことで?」

「はい。病院で会ったとき、なんか隠し事してるっぽかったんで。でも聞ける人、琴浦さんしかいなくて」

「病院? 誰か入院してるの?」

「あー……」

 何かを察知したように、千夏は言った。

「その様子だと私、病気で入院してること。兄貴から聞いてません、よね?」

「う、うん。大丈夫なの?」

「大丈夫です。ちょっと不安だけど、平気です」

「そう……。私、全然知らなかったわ」

 竜ちゃんは何でそのことを隠していたんだろう。部活をやめ、バイトをしなければいけない理由。竜ちゃんは母子家庭なのは知っていた。妹の治療費で圧迫する家計。となると、母を助けるため、バイトをし始めたということだろうか。

「その辺りとなんか関係がありそうですねえ。兄貴、最近なにか変わったこと、ありました?」

「部活やめたことは知ってる?」

「え? 兄貴が? でも、この前、部活頑張ってる? って聞いたら、まあなって言ってましたよ」

「やめたのは確か。やめるって言ったとき、私もその場にいたし」

「ははあ……」

「それでね。近くのコンビニでバイト始めたらしいの。私も今日知ったんだけど……」

 千夏は少し唸ってから、「あんにゃろう」と小声で言った。彼女も気づいたようだ。

「千夏ちゃん。やっぱり、竜ちゃんは家計のこと心配して?」

「だと思います。なんで嘘つくかなー」

「千夏ちゃんに心配かけたくなかったんじゃない?」

「まあ、そうですね。でも、なんかムカつきません? 勝手に一人でしょいこんで、俺、かっけーとか思ってんでしょ? うわっ。キモいキモい」

「それはわからないけど」

 からかうように言う千夏に、雫は微笑んだ。

 照れて悪態をつくところは竜ちゃんそっくりだな。

「琴浦さん。私、提案があるんですけど、聞いてくれますか?」

 その日、雫と千夏はある作戦を実行すべく計画を練った。決行日は週末の土曜日。この日は綱引き大会が行われる日だった。


***沢木***


 土曜日の朝。

 自室で、沢木はベッドから起き上がった。

 そう言えば、今日は大会か。……どーでもいーけど。

 綱引きをやめてから毎朝の日課になっていた腕立て、腹筋をやめた。物足りなさを隠すように立ち上がり、カーテンを開いた。手の平の、少し黄ばんで硬くなったマメを親指で押さえる。鼻を近づけて嗅ぐと綱と炭酸マグネシウムの臭い。炭酸マグネシウム、通称、タンマは綱引きをするときの滑り止めの役割を果たす白い粉だ。

 まだ、とれねーのか。この匂い。

 一階に下りて、食卓で朝食をとる。母はもう出勤していた。

 午前十時、私服に着替えてから家を出た。向かう先は千夏が入院している病院だった。途中、好物の甘いものでも買ってやろうかと思ったがやめた。あいつのからかう顔が思い浮かんだからだ。

 バスで三十分ほど揺られてたどり着いたのは大きな総合病院。三階に千夏の病室はあった。

 ノックした後、病室のドアを開いた。

「あ?」

 そこにいるはずのない雫が、千夏のベッド横の椅子に座っていた。なぜか学校の制服を着ていて、学生鞄が床に置かれている。

「なんでお前がここにいるわけ?」

「ちょっと、ね」

「ちょっとね、じゃねーよ。今日、綱引きの大会だろ? あと、なんで制服?」

「いや、それは、こういうところってどういう格好で来ていいか、わからなくて……」

 睨まれて、雫はあうあうと言葉に詰まっていた。

「まあまあ、兄貴。とりあえず座ってよ」

 用意したのか、雫の横に椅子が置いてあり、立っているのも何なので座った。

「千夏。お前が教えたんだな」

「そうだよ」

 沢木は頭を押さえてため息をつく。

 余計なことをしてくれたもんだ。

「今日は兄貴に大事な話があるんだ」

 千夏はいつになく真剣な顔だった。

「その話はこいつと関係があるのか?」

 指差す先は雫だ。

「まあ、少しね」

「じゃあ聞いてやるよ」

「実はね。私、軽い病気っていうの嘘なんだ。手術して助かる見込みもほんとにわずかだって……」

「え……」

 嘘だろ?

 沢木はなんて返したらいいか、言葉が見つからなかった。病状は聞いていなかったが先週会ったときの感じから軽い病気だとばかり考えていた。だから、千夏からそうじゃないと聞かされて動揺を隠せなかった。

「でね。そこで兄貴に最後のお願いっていうか……」

「やめろ!」

 自分でも驚くほど、しゃがれ、怒気を含んだ声が出た。同室の患者たちの視線が沢木に集中する。

「最後とか言うな。縁起でもねー」

 小さく頼りない声に、千夏の顔は暗くなった。

「とにかく兄貴にお願いがあるんだ。聞いてくれる?」

「ああ……」

「雫さんから聞いたんだけど、綱引き、続けなよ」

「ちっ」

 舌打ちの矛先である雫は「あはは……」と苦笑いを浮かべた。

「兄貴、綱引き好きなんでしょ? わかるよ。私、何回も試合見に行ったことあるもん。奇声をあげて引いているとき、兄貴の狂気に満ちた顔、輝いてたよ」

 そんな顔してたのか俺? ていうか、それは褒めているのか?

「だから……綱引き、続けなよ」

 シーンとなる病室。次の言葉が吐かれるのを二人は待っていた。

「できねーよ」

 沢木の返答に千夏はムッと眉を寄せる。

 例え妹の頼みでもダメだ。これまで散々苦労をかけてきたお袋を少しでも助けたい。それが出来るのは俺しかいないからだ。わがまま言える状況じゃない。俺はそこまでガキじゃない。

「こんの……馬鹿兄貴」

「あ?」

 肩をぷるぷると震わせて、小さな体で怒りを露にする千夏。

「どこまで頑固なんだよ。死んじゃえよマジで」

「ふざけんな。死ぬのはおま……」

 はっとなって、口をつぐむ。

「わりぃ」

 小さな声で、そう言って立ち上がる。

 居心地の悪さから帰ろうとしたとき、

「待って!」

 振り返る。雫が立ち上がっていた。

「竜ちゃん。綱引き続けるの、そんなに難しいことなの?」

「お前には関係ねー。引っ込んでろ」

「私に提案があるんだけど……」

「あ?」

 雫は緊張した面持ちで、ふぅと息を一つ吐く。そして話始めた。


***キャプテン***


 綱引き大会は地域の人たちがイベントで使うような特別な体育館で行われていた。上から見渡すことができる応援席が設けられ、出場する選手の家族だろうか、子供連れの大人が多く、歓声をあげていた。

 朝から始まった大会で、綱引き部はトーナメントを順調に勝ち上がっていった、かに見えた。

「大丈夫か?」

 体育館の隅に陣取った綱引き部の部員達。そこで立っているキャプテンは、しかめっ面して座っている戸田に声をかけた。ひざ下裏を手で押さえている。

「肉離れっす。大丈夫です。揉めばなんとか……」

「俺の引退試合だからって無理をするな」

「平気ですよ。こんぐらい」

 戸田は笑いかける。「雫ちゃんに揉んで欲しかったな」とふざけているが、疲れは隠せていない。

 綱引きは八人で行うが、綱引き部の部員は全員で八人だった。沢木が抜けたことで、穴を埋めるために急遽、レスリング部の部員にお願いして入ってもらったのだが……。

 大会が始まる前に軽く練習したがやはりダメだ。綱の引き方がまるでなっていない。手で引くような引きかたは運動会レベルだ。手はあくまで添えるだけであり、腰で引かなければいけない。

 負担は他の部員達にも影響していた。あきらかに疲れが顔に出ている。

 助けに入ってくれた人に文句は言えない。仕方のないことか。

「キャプテン。それにしても雫ちゃん。どこに行ったんですかね?」

「知らん。大切な用事があるとは言っていたが……」

「本当に午後に戻ってくるんですか? もうすぐ三時ですよ」

「そうだな……」

 やはり、沢木が必要だ。あいつは先頭が適任だった。体重は物足りないが引き方は申し分ない。狂気に満ちた顔は相手にプレッシャーを与える。

 キャプテンは一人歩きだして、壁に貼られたトーナメント表の紙を見上げる。

 次は強豪だな。もはやこれまでか……。そのとき――。


 ガラガラ!


 体育館の扉が勢いよく開かれた。

 一人の男が現れた。茶髪で無愛想、目つきが悪く、背が高い、今、一番ここに来てほしい男が向かってくる。後ろから雫もやって来た。

「……遅かったじゃないか」

 キャプテンは思わず口を緩ませた。


***雫***


 大会が終わって、次の週の日曜日。

「お見舞いに来たよ」

「琴浦さん。ちっす!」

 病室で、雫は千夏のベッド横の椅子に腰を下した。

「どう? 体調のほうは?」

「順調ですよ。問題ないです」

「兄貴はどうです? ちゃんと綱引きしてますか?」

「うん。大丈夫。バイトも続けてるし」

 先週の土曜日、雫は沢木に綱引きとバイト、両方すればいいと提案した。例えば、週三日綱引き部に顔を出し、練習。残り四日はバイトをするか、三日バイトして一日休日を挟むといった具合だ。これなら好きなこともでき、母親を助けることにもなる。一石二鳥とはいかないものの、この提案を沢木はのんでくれた。

「嘘をつくのって心が痛みますね」

 沢木に手術して助かる見込みもほんとにわずかと嘘をついたことだ。電話で、兄貴がムカつくから、こっちも嘘をついてやれといったノリで計画は実行された。

「それにしては楽しそうだったよね」

 クスリと雫の口元が緩む。

「ま、でも、正直、軽い病気でもないんですけどね」

「そうなの?」

「はい。正直、手術が成功する確率は五分五分らしいので」

「え? 五分って、そんなに……」

「……はい。でも負けませんよ」

 千夏はぐっと握り拳を作った。

「兄貴が立ち直ってくれたので、私、頑張ります」

 そっか。結局、この子も嘘をついてたんだ。たいしたことないよって態度で示して……。本当は怖いはずなのに。

 ほんと、似てるね。

 雫は少し二人の関係が羨ましいななどと変なことを思いつつ、幸せな顔をしている少女に笑いかけた。


 放課後、今日も高校の体育館では綱引きの合図が響いている。

「ピック・アップ・ザ・ロープ」

「テイク・ザ・ストレイン」

「ステディ……」


「プル!」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

綱引き部 kiki @satoshiman

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ