桜恋しや、恋しいや
お別れいたします、そう書いてあった。テーブルの上。小さなメモ帳に。
私はまた彼女の悪戯かと思い、なんとなくそのメモ帳をテーブルからはがして、冷蔵庫にぴたりと付けておいた。
彼女はとても賢かった。愛読書が太宰治という点が少し暗いような印象を与えたが、何に変えても明るく、冗談がよく通じた。
それに乗じて、私は少し憂さ晴らしもしていた。
よく食事をしているときに、「豚」と小声で言ってみたり、その時の彼女のびっくりした顔を写真に撮って、後で眺めて一人笑っていたりした。
いつでも自分の部屋から出ず、入れず、常に彼女を一人にした。
大丈夫、どこにも行く当てなんかないさ。そう決めつけていた。彼女は自分のところ以外、どこにも知り合いも家族もいない。
だから彼女が三日帰らなかったときには、さすがにカチンと来て警察に電話し、痴話喧嘩ならよそでやれと彼女が散々電話を掛けて毎日話を婦警さんに聞いてもらっていたことなど知り、唖然とした。
一番大事な時に、何故動かないんだ?
私は爪を噛んで暮らした。一人の部屋は広かった。
その内反省しだして、彼女が戻ってきたらああしてやろう、こうしてやろうと一人計画を練ったりして、一人遊びに夢中になり、掃除や家具の位置を変えたり、プレゼントを用意したりして彼女を待った。
携帯も持たない硬派な彼女のことだ、きっと大学にでもこもっているに違いない。
私は彼女の大学へ行ってみた。
研究室を訪ねたが、彼女を可愛がっていた教授には渋い顔をされ、「それはあんたに原因があるんじゃないのか?彼女だって大人なんだ、帰って来なくなることもある」と、まるで猫の家出みたいに言われたのには閉口した。
私は研究室を後にし、出る間際に「淫乱婆」と一言呟いて教授が目を吊り上げるのを目の端で捉え、低く笑った。
彼女がよく本を読みに行った公園、コンビニ、ペットショップ。
何処も探した。ただ、実家にだけは電話を掛けられなかった。
やもめ男が娘を付け回してる。そんな風に言われたんじゃ敵わない。
私はその内彼女とよく行った銭湯に通う癖が付き、15時から開店のそこで時間を潰すことが多くなり、未だ自分が捨てられたのだという感じを持たずに、呑気に風呂上がりの牛乳など飲んで過ごした。
サウナで耐久勝負、常連の爺さんといつまでも座っていて、後で入る水風呂の気持ちよさ!
私は次第に彼女を忘れて行った。
もう戻らない猫、もうどこにもいない。私が行ける範囲内には。
三年ほど経っただろうか、図書館で本を読んでいると、目の前のソファに女性が座った。
ふと懐かしい感じがして、ちらりとその足に履いているブーツなどを見て、つっと顔を上げると、彼女だった。
髪が長くなっている。
彼女はにっこりして言った。
「一人ぼっちって、どんな感じ?」
私は言葉を紡ごうとして、口を開いて閉じた。言葉は何も出なかった。
数分した頃、待ってくれた彼女に、「悪かった」と呟いた。
彼女は「うん」と言って、赤いショールを巻き直し、「ではそろそろ、帰りますかな」と言った。
私は「うーん」と声を出し、「これが読み終わるまで、待ってくれないか」と聞いた。
彼女が「ガックシ!」と言って首を落とし、「それではさようなら」と言ったので、私も「さようなら」と言った。
彼女が出て行く様子を、図書館の窓から眺めた。
彼女は荷物が沢山あるらしい。
時間は解決しなかった。むしろ新しい何かを引き寄せて来た。
一人で過ごす喫茶店の二階で、私はこれを書いている。
相手がいなくなったら、汚い言葉を使うことも無くなった。消極的になった自分に驚いている。
桜がよく見える。コーヒーの湯気に映える、桜並木の下を、彼女と知らない誰かが歩いている。
私はそんな夢想をして、コーヒーのおかわりをし、また本を手繰った。
桜の花びらがひらりと一枚、ページから落ちた。
テーブルの上に落ちたそれを眺め、また本に挟んでおいた。
結局な、と私は思う。
大事なものほど、傷つけてはいけないのだ。私はもう誰とも付き合わないだろう。人を大事にできない性質なので。
ただ彼女との想い出を可愛がって歩いていく。
私は精神安定剤を一粒飲み、空気が穏やかに過ぎ去るのを待った。
一人で大丈夫にならないと、誰とも一緒に居られない。
恋は病と言うが、私の場合全くこれであった。
ただ軽やかでいようと、桜並木の中、石段を軽やかに駆け下り、誰もいない青空の下、行く。その選択はきっと間違っていなかった。
一緒にいることで腐ることもあるのだ。
私は家に帰り、すっかり伸びた植物に水をやり、一人風に拵えられた書斎にて、足をテーブルに乗せて本を読んでいる。
深夜のコーヒーは、。美味い。
最後に公園で読んだページに、桜の花びらが何枚も挟まっていた。
振ったらそれは、ばらばらと床の上に散らばった。暫し見入り、掃除機で吸い上げた。
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