4-7 「アリー・ムーン」

4‐7 「アリー・ムーン」





 【アースバウンド】には「一虫沈艦」という言葉がある。





 ちっぽけな機械の虫(リモートコントロールワーム)によって巨大な艦隊が大海に沈んだ悲劇から生まれた言葉だ。「悲劇の発端はたった一匹の虫からでも起こり得る。小さな異変でも見逃すことなく早急に対処せよ」という意味で使われている。









「小僧、一緒に来い! 一虫沈艦の事態じゃ! 」





「いっちゅ……? 待ってくださいドクター! 」





 緊急速報を聞くや否や、ドクターは突然車道に身を乗り出し、タクシーを拾い始めた。




「ドクター! どうなっているんですか? アリーがワーム寄生者で殺人だなんて! 信じられません」





 ドクターは行き交う車に向けて大きく手を伸ばしながら答えた。





「ワシも信じとらん! 少なくとも殺人においてはな」





「少なくとも……?」





 言葉に引っかかりを感じる中、タクシーが捕まらなく苛立ったドクターはとうとう一台のタクシーの目の前に身を乗り出して車体を急停止させた。





「あぶねぇだろ! 俺っちを殺人犯にする気か! 」





 運転席から勢いよく褐色の肌の男が飛び出してきた。





「あれ? 」





 僕はその人物に見覚えがあった。





「もしかして、バスの運転手さん? 」





 タクシーの運転手はバラストの死闘で僕達が強奪・破壊してしまった黄色いバスの運転手だった。どうやらバスからタクシーへと仕事を変えていたようだ。ここでまた再会するとは引き寄せられたかのような偶然だった。





「ああん? 」





 僕は運転手に睨みつけられ、目が合ってしまう。視線だけで小動物を心臓麻痺にさせるかと思うほどに圧倒される目つきだ。





 バスを強奪された時のことを恨んでいるのだろうか? 僕は反射的に「殺される」と身構えてしまった。……が……





「あれ? お……お前は……あの時の……? 」





 運転手は僕の姿を見るとみるみる内に浅黒い顔色が生気のない土色に変えていく。





「まさか……殺されたハズじゃ……」





 彼は、僕とドクターのペイント弾を使った小芝居を未だに真に受けていたらしく、殺されたと思われた僕がこの場にいることに驚いたようだ。





「ち、違うんですよ……あの時はすみませんでした。スグに謝ろうと思ってはいたんですけど……」





 僕は釈明しながらゆっくりと彼に近寄る。





「く、来るな! 」





「あの……」





「お化けぇぇぇぇーっ! 」





 怯えた運転手はイタズラを叱られた猫のように一瞬で僕達から逃げ去ってしまった。商売道具のタクシーを置き去りにして……。





「あちゃー……」





「でかしたぞ小僧! さあ、乗れ! 」





 さも当然のようにドクターは運転席に乗り込む。僕は不本意にもバスに続きタクシージャックにまで荷担してしまったようだ。





 罪悪感を感じながらも緊急事態だということを盾に、僕もタクシーの助手席に乗り込んだ。





「どこに行くんですか? 」





「アリーを探しにじゃ! あいつの隠れ場所にアテがある! 」





 ドクターは思いっきりアクセルを踏み込み、タイヤに悲鳴を上げさせながらタクシーを発進させた。僕は体が思いっきり引っ張られ、首がガクンと揺さぶられてしまった。





「ドクター、聞いていいですか? 」





「なんじゃ? 」





 あまりにも衝撃的な事が起こった事で危うく僕自身も忘れかけていた疑問を再び投げかけた。





「アリーさんが昔とは別人だって話です……まだ途中だったんで」





 ドクターは素早くハンドルを操作し、次々と前方の車を抜き越しながらゆっくりと口を開いた。





「そうだったな、続きを話そう。今アリーが寄生者として追われていることと大いに関係していることじゃからな」





 10年前に【カーネル】によって砲撃された【アースバウンド一号艦】その内部では地獄と形容することすら生やさしい光景が繰り広げられていた。





人々は四方八方から押し寄せる海水に飲み込まれ、崩壊する建造物に押しつぶされ、多くの命がたやすく奪われた……まるで子供が蟻の巣にいたずらするかのように。さらに駄目押しとばかりに【コブラ】は象頭兵を沈没寸前の艦内へと送り込み、生き残った住人達を徹底的に追い込んで殺戮の限りを尽くしていた。









「ワシの息子夫婦もその時に命を落としたよ……アリーも象頭兵に銃撃されて死んだ。生き残ったのはワシと生まれたばかりのリフだけだった」





「写真のアリーは……ということですよね? 」





「ああ……」





 二人のアリーが別人であることは写真を見た時に予想はしていた。だけど問題は今のアリーは一体何者なのか? という点だ。





「ワシとリフは象頭兵の襲撃からも逃げ抜き、脱出用の潜水艇で、ここ【アースバウンド二号艦】に避難出来た。本当に幸運だった……そしてここで生活を始め、ワームについての研究を重ねて探知機を作った」





「【艦境】にあるヤツですか? 」





「そう、それから5年が経った頃じゃ。運命的な出来事があった」





 ドクターは運転をしながら僕の顔をチラリと覗いた。





「ある男が【バラスト層】のダム湖から妙な物を引き揚げたと言って、ワシの所に連絡をよこした。それが全ての始まりじゃ」









 ■ ■ ■ ■ ■









 今から5年前、2030年12月10日。その当時【第一居住区】にて生活送っていたドクター・オーヤの元に、高さが2m、直径が70cmほどの大きさになる金属で出来た円筒形が運ばれたとの情報が届いた。





「ダム湖で投網してたらよぉ、なんかバカでけぇ銀光りしたモンが引っかかっててよ、こりゃマグロが掛かったか? と思って大はしゃぎでそれを引き揚げたのよ! 

そしたらなんだ? 見たこともねぇ金属だかプラスチックのでけぇ筒だったのよ。

何か危ないモンだったらアレだからちょっと誰か専門家に見てもらおうかと思ったワケよ」と、当時引き揚げた男は語っていた。





 一報を聞いて【バラスト層】へと出向いたドクターは、その円筒形を調査し、不発弾といったような爆発物では無いことを断定した。





 そしてさらに詳細を知る為、その円筒形を当時【第一居住区】にあった自身のラボへと持ち帰って精密に調査を行うことにした。





「おかえり、おじいちゃん何それ? 」





「リフ、危ないから自分の部屋にいなさい。じいちゃんは今からお仕事じゃ」 





「また仕事なの……? 」





 リフはこの当時5歳になっていた。物心のつく前に両親と姉を失った彼女にとってドクターだけが血を分けた家族だった。





「我慢しなさい」





「……うん……」





 ドクターはリフに父と母、そして姉がもうこの世にいないという真実を伝えることが出来ずに、両親も姉も仕事の関係でどこか遠くに住んでいる。と偽り「いつ帰ってくるの? 」と聞かれても「近いうちに」と曖昧な返事で濁してきた。





 まだリフが幼かったからということもあるが、彼女はこの頃から考え方が独特で他の子供と上手く関係が築けず、周りから浮いた存在になってしまっていたということも大きな理由だった。





 ドクターには、そんな彼女の孤独感を少しでも和らげたいという気持ちがあった。





「すまんな、リフ……」





 寂しそうに立ち去る孫娘を見届け、ドクターは円筒形の精密調査に取りかかった。





「さて、こいつは凄いな……大きさの割には軽い、材質はプラスチックのようだが表面にほとんど傷が無い……まるで象頭兵の鎧のようだな……」





 円筒形は繭の様に真っ白で継ぎ目が見あたらず、気味の悪さすら感じられた。ドクターは隅々まで見渡し、うっすらと丸くて小さなボタンのような物を発見する。





「これは? 」





 危険だとは思いつつも、考えよりも行動が先走った。





 ドクターが力を込めてそのボタンを押し込むと突然円筒形に横の継ぎ目が現れ、その隙間から透明で粘性を帯びた液体が吹きこぼれ出す。





 「なんじゃ! なんじゃ! なんじゃ! 」





 おびただしい量の液体が流れ終わり、しばしの静けさが生まれたと思った矢先、今度は円筒形の内側からガン! ガン! と打ち付けるような音が鳴り響いた。





「何か入っているのか? 」





 ドクターは護身用の拳銃を手に取って身構える。内側からの音は徐々に強くなっていき、とうとう円筒形は継ぎ目から真っ二つに割れた。緊張が走り、ドクターは引き金に指を添えた。





「まさか! 」





 そこにはあまりにも予想外な光景があった。円筒形の中からは10代くらいと思われる女性が立ち上がって現れたのだ。





 しかし、ドクターはそれを一目見た直後、その異質さと生命力を全く感じさせない姿から「人間の形をした真っ白で柔らかそうな物体が立っている」という印象しか抱けなかった。





 さらに異様な事に、女性の頭部には金色の長い髪の毛と共に、無数の細いケーブルの束が繋がれていた。





「人間……なのか? 」





 拳銃を構えながらドクターは円筒形に近づく。女性の方もこちらに気が付いたのか、ゆっくりと首を動かし、瞼を開く。深みのあるエメラルドグリーンの瞳が露わになり、ドクターと視線が交差した。





「お前は……何者じゃ? 」





 ドクターの問いかけに対し、数秒の間を置いて彼女は周囲を見渡し、次に自分の胸部から下半身へと視線を下ろす。すると彫像のように無機質な表情だった彼女の表情が徐々に崩れていった。





「ギャアアアアアっ! 」





 ボッティチェリの絵画の様な神秘性を帯びていた彼女は、一瞬でコミックのキャラクターじみたポップな変貌を遂げ、奇声を上げてドクターの鼓膜をくすぐった。





 彼女は上から下まで一糸も纏わぬ裸だったのだ。





「どうした! 」





 思わず駆け寄るドクター。しかし次の瞬間、女性は円筒形の中に残っていた粘液をすくい上げてドクターに向けて思い切り浴びせかけた。





「ぶえっ! 」





 粘液まみれになって視界を奪われたドクター。





「何? 何? なんなの! なんで裸なの? ここどこ? アンタ誰なの! どうなってんの! 」





 パニックに陥った女性。座り込んで露わになった胸部を隠しつつ、自分の頭部にケーブルが繋がれていることに気が付いた。





「何コレ? 痛っつ……」





 彼女は意味も分からずに繋がったケーブルの束を思い切り引っ張って引き抜いた。





「よせ! なんだか分からんが危険だぞ! 」





「うああああっ! 」





 ドクターの制止も虚しく、ケーブルの束を全て引き抜いた瞬間、彼女は電池の切れたオモチャのように突然動きを止め、体を円筒形からずり落としてラボの床へと倒れた。





「……大丈夫か? 」





 突然倒れた彼女ではあったが、呼吸はあり、一時的に意識を失っただけだった。





 しばらくして彼女は目を覚ますも記憶の整理が上手く行かないらしく、少し寝ぼけたように頭がとろとろになった状態だった。





 ドクターはそんな彼女の出生を探るために、ゆっくりと時間をかけてここが大型の居住潜水艦の中だということ、[二次元世界]のこと、【コブラ】や【カーネル】のこと、全てを説明した。









「……信じられない……そんな低予算なB級映画みたいな話……」









 ひとまずドクターから借りた真っ赤でダボダボなシャツを纏って場違いに陽気な印象になった彼女は置かれた状況を飲み込めずに狼狽する。





「残念だが現実じゃ」





「それじゃ手の込んだドッキリとか? 」





「そんなワケあるか」





 彼女は精一杯のジョークを漏らし、なんとか気を紛らさして平静を取り繕うことに必死だった。そんな様子にドクターは哀れみすら感じた。





「これを見てくれ」





 ドクターは金属製のデスクの引き出しから一枚の写真を取り出し、彼女に見せる。





「ワシの家族の写真じゃ」





「アンタの? それが何? 」





「みんな死んだ。【コブラ】と【カーネル】によってな」





 彼女は少し表情を固くし、ドクターの手にある写真をもっと近くで見ようと前のめりになった。





「生き残ったのは、ワシと孫娘のリフだけじゃ」





「……リフ、この娘? 」





 彼女は写真に写る8歳位の女の子に指差した。





「いや、そっちはリフの姉。リフは母親に抱かれている赤ん坊の方じゃな」





「そうなんだ……」





 彼女は写真に興味を抱き、手に取ってじっくりと凝視する。





「リフのお姉ちゃんってさ、何て言う名前? 」





「アリーじゃ。アリー・ムーン。真面目で礼儀正しくて、いい子じゃった……生きていれば君と同じくらいの歳になっていたろう」





「アリーか……優しそうな顔してるなぁ……」





 彼女の言葉にドクターは少しはにかんだ。





「ああ……母親似じゃ。将来美人になったろうに」





「リフはアリーのことを知ってんの? 」





 ドクターは一瞬で苦い顔を作る。





「一応な……だが、死んだことは内緒にしとる。その写真だって見せていない」

「なんで? 」





「いつかは真実を告げなけりゃならん。

その時のショックを少しでも減らしておきたい……中途半端に情報を与えたらそこからどんどん妄想を抱くじゃろう、子供ってのはそういうもんじゃ。

そうなってから既に家族が死んでいると知ったら……」





「そっか……信じていたものに裏切られるってのはつらいからね……」





 理不尽に家族と引き裂かれたリフに対し、同じ様なシンパシーを感じた彼女は黙って写真を見続けた。こんなに可愛い姉と思い出を作ることもできなかったなんて……





「そうじゃ、君が住んでいた所はどんなところだ? 教えてくれるか? 」





 先ほどまでケーブルで繋がれていた頭頂部をポリポリと掻きながら彼女は記憶を引きだそうとした。





 円筒形から目覚めた彼女のてっぺんにはタコの吸盤のように丸形の接続端子が5つ連なっている。その異形からドクターは最初、彼女はロボットなのではないか? と推測した。





 しかし、彼女が気を失っている間にレントゲンを初め、あらゆる検査を行った結果、間違いなくタンパク質とアミノ酸で形成されている[肉体]だと断定した。





 しかし一点だけ無視できない大きな事柄があった。それは彼女の脳内には紛れもなくリモートコントロールワームが埋め込まれているということ。





 それが頭頂部の接続端子と繋がっていることから、ドクターは既に彼女の正体について一つの仮定を導き出していた。





「学校があって……友達がいて……ママがいて……空も太陽もあって、普通の生活をしてたんだ……図書館に行こうとして玄関のドアを開けたら、そこにはパパがいて……そしたらいきなり目の前の気色が歪んで気が付いたら真っ白になって……」





「そしてあの円筒形から目覚めたというワケか」





「うん……」





 ラボの椅子の上で両膝を抱いてちょこんと座り込む彼女は、迷子になった子供のような力ない返事をした。





 彼女のそんな姿を見て、ドクターはこれから言い渡す残酷な仮定を説明するか否か迷ったが、ごまかしながらこの場に留ませるワケにもいかない。ドクターは腹をくくった。





「……分かったかもしれん」





「え? 」





「君の正体じゃよ」





 アリーは目を大きく開いてドクターに無言で次の言葉を促す。





「心して聞いて欲しい。これはまだ仮定の話だが……」





「お願い! 教えて! 」





 急かすアリーをなだめるかのようにドクターは大きく息を吸い込み、宣告した。









「君は、[二次元世界]の人間じゃ……」









 彼女はドクターの言葉に対し、ほんのわずか口の端を震えさせた。返事はしなかった。そうすればその言葉を受け入れてしまう。そう思ったからだ。





「話を続けるぞ……

155年前に【人類電子化計画】が行われた時、1万5千人の人間が肉体を捨てて[二次元世界]に生活を移し、彼らはサーバーの中で子孫を増やし続けた。

その内の一人がおそらく君なんじゃ」





 ドクターは子供をなだめるように、慎重な口調で彼女に説明した。





「……なんで……それじゃ、なんで私はここにいんの? 」





 彼女は腹の奥から精一杯の声を絞りだす。





「君の頭部の接続端子と円筒形カプセルの作りから察して……

おそらく君の肉体は【コブラ】によって化学的に作られたモノ。

そして[二次元世界]での記憶をリモートコントロールワームの応用で脳に移植した……

それしか考えられない」





「……何のために……? 」





「それはまだわからん……」





「私……家に帰れないの? ママに会えないの? 」





「……それもわからん……」





 突然彼女は猫のように椅子から飛び降り、部屋の傍らに放置されていた円筒形に近寄る。





「何をする気じゃ! 」





 ドクターの言葉を無視し、彼女は円筒形に繋がれたケーブルを掴んで再び頭部の穴に端子を差し込み始めた。





「やめろ! 」





「うるさい! 二次元だとか【コブラ】だとか知ったこっちゃ無い! 私、家に帰る! 」




 だだをこねる子供のように涙を流しながら次々と鈍色のジャックをねじ込もうとする。ドクターは彼女の手を握って暴走を制止させる。





「はなして! 」





「違う! 無駄なんじゃ! コレを見ろ! 」





 ドクターはポケットから一枚のプラスチックで作られたカードを取り出した。遊びのない黒色で横幅は5cm、盾幅10cm、厚さは5mmあるかないかほどの薄さだった。





「なんなの? 」





「このカプセルを調べたら出てきたモノじゃ。君の頭はコレと繋がっていた」





 彼女はドクターからカードを受け取ると数秒遅れてその意味を理解し、体を震えさせた。





「それが……おそらく君の[二次元世界]での記憶じゃ。調べたら無意味なデータで全て上書きされていたよ。多分君がカプセルから目覚めたら自動でそうなる仕組みだったんじゃろう……」





 彼女はカードを両手で掴みながら、ゆっくりと両膝をつき、額を床に押しつけて崩れ落ちた。





「こんな……こんなにちっぽけなカードが……こんなモノが私の全てなの……? ママも……学校も! 全部! 嘘って言ってよぉぉぉぉ! 」





 ついに彼女の心は破裂してしまった。喉がつぶれるかと思うほど、体の水分が全て溢れ出てしまうのかと思うほど激しい慟哭を上げた。





 ドクターはそんな彼女に対し、声を掛けることすら出来なかった。元はといえば自分が不用意に彼女を起こしてしまったことが原因だ。どんな言葉をかけようが気休め以上のモノにはならない。





 悲鳴とも思える空気の振動がラボ内に乱反射し、その音はどうやら外にまで聞こえたようだった。









「おじいちゃん? 」









 ラボを取り巻く泣き声の隙間を縫うように、よく通る高い声がドア越しに聞こえてきた。





「おじいちゃん? 誰かいるの? 」





「マズイ! 」その声の主は間違いなくリフだった。まだ円筒形のことを誰にも明かしたくなかったドクターは急いでリフを追い返そうとするが……





「何かあったの? 」





 ドクターがドアに鍵を閉めるより一瞬早く、リフはラボ内に身を差し込んだ。突然の小さな来訪者に驚いた女性は声を出せなくなり、涙でひしゃげた顔を上げ、リフと視線が合わさる。





 数秒の沈黙が続いた。二人はテリトリーを犯された野良猫のような目で見つめ合い、その気まずささえ感じる空気の中、ドクターは息をのんだ。





「おじいちゃん、その人お客さん? 」





 リフが重い空気を引き裂くように口を開いた。





「そ……それはな……」





 狼狽するドクターにお構いなく、リフはトコトコと円筒形から目覚めた彼女の元へと近寄った。





「わたし、リフって言います。よろしく」





 リフは無邪気に手を差し出した。





「え? うん……よ、よろしく……」





 彼女は躊躇しながらも差し出された小さな手を包み込むように握手を交わした。





「お姉ちゃんの名前は? 」





 リフの素朴な質問に対し、彼女は壊れたオモチャのように突然動きを止め、どこか遠くの方を見つめるような目つきになった。





「どうしたんじゃ? 」





 異変に気が付いて彼女に声を掛けるドクターだったが、その時になって彼はようやく最も大事な事柄を彼女に質問していなかったことに気が付いた。





「名前……私の……? 」





 彼女自身、この時初めて重要な記憶が抜け落ちていることが分かり、唇を震わせてしまう。





「なまえ、だね……そうだね……」





「どうしたの? お姉ちゃん」





 彼女は困り果ててドクターの方へと目を向けるも、ワシに聞かれても困る! とばかりの表情を作っていたのでパニック指数はさらに加速する。









『どうしよう……私……自分の名前が分からない! 』









 記憶のジャングルを駆けめぐるも答えは一向にに見あたらない。どうして? なんで分からないの? 





「お姉ちゃん……? どうしたのお姉ちゃん」





 残酷なまでに澄んだ瞳で詰め寄るリフ。





ああーッ! 畜生! 





 彼女は目を激しく泳がせ、見て分かるほどに汗を浮かべた。





 くそっ! 私の名前! 私の名前! 





 人は追いつめられると直前に仕入れた新しい記憶を飛び出させる。





 そして何度もリフから「お姉ちゃん」と呼びかけられた事も合わさり、芋蔓式に引っ張り出された[ワード]を彼女は吐き出してしまった。









「わ……私は……アリー 」









 彼女の発言にその場は凍り付いた。目が飛び出るかと思うほどに驚くドクター。そしてスイッチが入ったかのように涙を溢れさせるリフ。





「お姉ちゃん! アリー姉ちゃんなの? 」





 リフは彼女を押し倒さんばかりに思いっきり抱きつき、その感情を爆発させた。





「帰ってきてくれたんだ! 会いたかった! 会いたかったよぉぉぉぉ! 」





「ハハ……そ、そうだよ」





「な~んちゃって」とは言い辛い状況になってしまい、困り果てた彼女はドクターへ視線を向け、助け船を求めた。





 ドクターはそのアイコンタクトを受け取り、任せろ! とばかりにリフを彼女から引き派がした。





「リフ、とりあえず離れるんじゃ」





「なんで! 離してよ! 」





 罪悪感が胸を刺激しながらも、ひとまず安堵した彼女だったが、次のドクターの言葉で再び軽はずみな発言を後悔することになる。





「アリーお姉ちゃんは今病気なんじゃ。治るまで近寄っちゃならん」





えええ!?





 ドクターはあくまでも彼女をアリー・ムーンとして押し通す事にしたようだ。





「病気! 大丈夫なの? 」





「大丈夫じゃ! ワシが治す! ワシを誰だと思っとる! 天才じゃぞ! 天才! 」





 ドクターも若干やけくそじみた行動を起こしていることが彼女にも分かった。





「さあアリー! こっちの部屋で診療の続きをしよう! さあさあ入れ入れ! 」





「ちょ! 待って」





 ドクターはテストの赤点を隠す中学生のようにアリーを別室に押し込んだ。





「おじいちゃん! 」





「なんじゃ? 」





「アリーお姉ちゃんの病気、絶対に治してね! 」





 ドクターは無言でサムズアップを決めて彼女を押し込んだ部屋に自らも押し込んだ。






 二人はリフから隔離した別室(書斎)に二人きりになるとお互いに数秒間沈黙が続け、ゆっくりと目と目を合わせた。





「まさかお前さん、自分の名前が分からなかったとはな……」





「……なんでだろ? 一生懸命思いだそうとしても、もやもやに隠れちゃう感じで……」





「それにしてもなんでアリーの名前を? 」





「わかんないよ……頭の中グワァーッて色々混乱しちゃって……ごめん」





「ワシこそすまん」





 二人はお互いに謝罪した。





 一人は勝手に人の名前を使って少女の心をもてあそんだ事に対し。もう一人はそのトラブルを上手く処理できず、かえってややこしくしてしまったことに対して。





「なぁ、お前さん、一つ頼みがある」





「何? 」





 次の瞬間、ドクターはガンマンが素早く拳銃を構えるかのようなスピードで頭を下げた。





「お願いじゃ! このままリフの姉に、アリー・ムーンになっちゃくれんか? 」





「ええ? 」





 彼女は突然の懇願に動揺する。そのドクターの口調や態度からは一切のおふざけやジョークじみた雰囲気は感じられなかったからだ。本気だった。





「急にそんなこと言われたって! 」





「勝手な事を言っているのは分かっとる! でもな、初めてだったんじゃ……リフがあんなに喜ぶ顔を見たのは……あんなに嬉しそうにはしゃいだ姿を見たのは」





 ドクターの心からの言葉を彼女も感じ取った。





 それだけこの人は孫娘の事を心配しているのだろうと、絵を見るかのように熱く伝わった。






 しかし……。





「そんな……無理だって……

私、元々二次元の人間なんだよ、この世界に来てまだ半日も経ってないし……

どこにコインランドリーがあって、どこに映画館があるのかだって分からないんだよ……それに、あの娘の事だって……」





 ドクターは大きく開いた目で彼女と向き合う。





「その辺はフォローする! 

それに、ずっとってワケじゃない……

ワシはお前さんが二次元の世界に戻る為の方法を考える! 

それまでの間でいいんじゃ! 」





 彼女は少し思案する表情を作った。





 どんな形であれ、[二次元世界]は彼女の故郷。それに、置き去りにしてしまった家族の事も未だに気がかりだった。





 戻る事が出来るのであれば、やはり戻りたかった。





 元々は0と1の集合体で出来た彼女も、生まれた場所に未練を抱く平凡な人間であることに変わりはなかった。









「…………分かったよ……」









 彼女は笑顔で決断した。





「少しの間、アリー・ムーンになってあげる」





 その言葉に思わず顔を綻ばせるドクター。





「ホントか? 」





「まあ、他に行くアテもないしね……住めば都っていうし? ここも悪くないかもね」





 ドクターはその言葉を聞き、満面の笑みで彼女の右手を両手で力強く握り包んだ。





「ありがとう! ありがとう! 」





「ちょ、ちょっと」





 彼女はオーヤ・ムーンが[ドクター]であることから、元二次元の住人という貴重な実験サンプルを手に入れた事に喜んでいるのでは? という危惧もあった。





 でもそんなことはとりあえずはどうでも良かった。ひとまず落ち着いて明日について少しは前向きな展望が出来た事に安堵し、今はその気分を大事にしたかった。





「よろしく頼むぞ! アリー! 」





「まぁ、こっちこそね……ええっと、おじい……ちゃん……? 」





 彼女はオーヤが両手で包んだ右手を握り返し、承諾のサインを送った。





 ドクターは顔がひしゃげるかと思うほどに笑顔を作っていた。リフにそっくりな人なつっこい表情を見た彼女……いや、新アリー・ムーンもまんざらではない気持ちになった。





「ちなみにアリー、コインランドリーはこのラボの隣、映画館は斜向かいにあるぞ」





「…………あるとは思わなかったよ」









 こうして[二次元世界]からの少女はアリー・ムーンとなった。









 ■ ■ ■ ■ ■ 









「アリーさんは……僕と同じくコールドスリープされていたんですか……? 」





 アリーさんの衝撃的な過去を知り、僕は乾ききった喉に唾を飲み込んで潤いを与えてから、精一杯の声でドクターに尋ねた。





「いや、違う。

お前の場合は元々現実世界で普通に生まれた肉体を冷凍保存したという感じじゃ。

アリーの円筒形カプセルにはそのような機能は搭載されていなかった……

多分、あのカプセルは人間を作る卵のようなモノじゃ」





「卵? 」





「そう、カプセルの中で肉体を化学的に培養して0から人間を作り出し、記憶と魂は[二次元世界]から持ってくるという装置じゃ。

ワシはそれに[エッグ・シリンダー]と名前を付けた」





「【コブラ】は、一体何の為にそれを作ったんでしょうか? 」





 僕の問いに対しドクターは少しの間、沈黙を作り車を運転させ続けた。





 僕は少し気まずくなった雰囲気をごまかす為にふと車窓から外の様子をおのぞき込んだ。多くの自動車が道路を行き交い、光線が幾重にも横切っていく。





 躊躇した末に腹をくくっったドクターは再びしゃべり始めた。





「あのエッグ・シリンダーには【人類電子化計画】の真実が隠されているとワシは読んどる」





「……それは? 」





 僕の質問に答える間もなく、車は大げさな悲鳴のようなブレーキ音をたてて急停止した。





「着いたぞ。降りるんじゃ」





 ドクターに言われるがまま僕は車内から外へと降り立った。





「ここは……! 」





 この場所には覚えがあった。いや、僕にとってはこの【アースバウンド】での数少ない思い出の場所の一つだと言えた。





「アリーのヤツはきっとここにいる」





 鉄骨を組み合わせて作られた四本の柱からなる簡素で巨大エレベーター。それは僕がアリー、コーディと共に訪れた艦橋公園への入口。





 僕が【アースバウンド】という巨大潜水艦の実在を知った場所だった。








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