第4話 東京への帰還、異世界への旅立ち

「アマタ! 早く起きなさい! 今日は模試でしょう?」


 扉の向こうから母の声が聞こえる。

 慌てて起きるといつもと変わらない緑色の天井。

 枕元の眼鏡ケースから眼鏡をかけて周囲を注意深く見回す。

 昔買ってもらった星模様のカーテン。ハンガーに吊るしてある青鷗高校の学ラン。机の上には参考書と赤本。ゴミ箱の中には昨日買ってきたお菓子の袋がそのまま残っている。

 間違いない。ここは俺の部屋だ。


「……なんだ、夢か」


 良かった。やっぱりすべて夢だったんだ。それはそうだ。俺は今まで剣を握って大立ち回りなんてしたことがない。

 俺は安堵のため息を漏らし、カーテンを開け、朝の平和な町並みを瞳に焼き付ける。

 ひとしきり外の風景を楽しんだ後、学ランに着替えると、階下へと降りた。


「あら、遅かったわねえ」


 母さんが朝のニュースを見ながらトーストを齧っている。

 今日は休日だというのにスーツ姿だ。そういえば土曜出勤だったっけか?


「おはよう母さん」

「おはようアマタ、ご飯作っておいたからさっさと食べなさい」

「今日はトースト?」


 食卓の上には豆腐とワカメのサラダとトースト。蜂蜜とジャムの小瓶も並んでいる。香りから推測すると、ポットの中に入っているのはジャスミンティーだろう。


「丁度良いじゃない。この時間じゃゆっくり食べている暇なんて無いでしょう?」

「まあね」


 俺は蜂蜜をたっぷりかけて熱々のトーストを齧る。

 鼻に抜ける小麦の香り。舌に溶け込む蜂蜜の甘さ。

 サラダはシソのドレッシングを使っているらしい。豆腐とシソの風味が、甘ったるくなった口の中をさっぱりさせてくれる。


「目覚ましはどうしたのよ?」

「鳴らなかったみたい」

「なにそれ、確認した?」

「ああ……あれ? そういえばスマホ何処行ったんだ?」

「充電器に繋ぎっぱなしとか? 忘れちゃ駄目よ?」

「いや、枕元に置いてて……」

「昨日寝る前にゲームしてたわね?」


 これは迂闊だった。確かに母さんの言う通りだ。

 

「スマホでゲームするのは別に構わないけど、寝る直前に暗い部屋でやるのはオススメしないわね。四六時中眼鏡はかけたくないでしょう?」

「以後気をつけます……」

「ならば良し」


 母さんは俺よりも早く朝食を食べ終わり、立ち上がる。


「じゃあ母さん、そろそろ出るわ。今晩食べたい物有る?」

「なんでもいいよ」

「あらあら、それが一番困るのよ」


 そう言って母さんは口元を左手で隠してくすりと笑う。

 

「そうね……模試お疲れ様でしたってことでお寿司でも食べに行きましょうか?」

「良いね!」

「だったら、早く帰ってきてね。お店が混むのは嫌だから」

「うん!」

「良い子ね。行ってくるわよ。模試頑張ってね」

「うん、いってらっしゃーい」

 

 母さんは鞄片手にリビングを出て行く。

 何時もと何も変わらない日常だ。

 だけど、何故だろう。夢で手にしたあの刀が此処に無いことが、とても不自然な気がして仕方なかった。


     *


「試験時間終了です。皆さん答案を回収するので据わっていて下さい」 

 

 先生の合図でペンを置く。

 本日の模試は無事に終了だ。

 俺は眼鏡をかけて帰る準備を始める。

 すると、後ろの席から声をかけられた。


「天ヶ瀬ー! 模試終わったし、皆とマックでも寄って帰ろうぜ」


 少しくせのある髪をショートボブにした背の高い美人さん。

 クラスメイトの井上ユウナ。高校一年の時に偶々隣の席だった縁で友達になった。

 人付き合いの苦手な俺に、色々と良くしてくれた大切な友人だ。

 彼女が居なければ、帰宅部の俺はクラスに溶け込めていなかったかもしれない。


「部活は良いのかい? スポーツ推薦が決まったんだし、サボると先生に怒られるだろうに」

「んー? 今日は休みだよ休み」


 成る程、先約が無ければついていきたかった。


「そうか……ごめん井上。今日は母さんと晩飯食いに行くことになってるんだ」

「なんでい、つれねえ奴だなー! 確かに天ヶ瀬のママさんは美人だし? 二人きりで食事とかむしろオレに替われって感じだけどさー」

「すまない」

「じゃあ日曜空いてる? カラオケ行かない?」

「明日か。それは良い。どうせ家に居ても勉強くらいしかやることないし」

「よきかなよきかな……詳しいことはラインで良い?」

「ああ、ごめん井上」

「なんだ?」

「携帯失くした。パソコンのアドレスの方に連絡してくれるか?」

「おいおい、そいつぁ大変だな」

「家に帰ったらもう一度探してみるよ。それじゃおつかれ」

「おう、おつかれ!」


 さて、最初は穴子から行くか、蝦蛄しゃこから行くか。

 呑気にそんなことを考えながら俺は教室を後にした。


     *


 寿司屋から帰ると時間は七時過ぎ。寝るまでにはまだ三時間以上有る。

 模試も終わったことだし、今日ばかりは勉強を休んで、積んでいた漫画を読むことにした。 

 しばらく本を読み進めていると、母さんが風呂から上がってきた。

 セミロングの髪をタオルで巻いて、バスローブ一枚のゆったりしたご様子である。


「良い湯加減よ。さっさと入っちゃいなさいな」

「待って、今良いところなんだ」

「何の本読んでるの?」

「源氏物語の漫画」

「あら、勉強休むんじゃなかったの? 休む時に休めなきゃ仕事もできないわよ?」


 ビールのプルタブを開けるカシュという音が鳴る。

 いつの間にやらテーブルの上には枝豆の入った皿がある。

 成る程、普段良く働いている人が言うと説得力が違う。


「そう思ったんだけど、明日友達と遊ぶことになったからね。その分、今くらいは勉強っぽいことをしておこうかなと」

「楽しそうね。何処行くの?」

「カラオケ。晩ごはんは多分要らない」


 あくびが出る。

 今日は妙に疲れてしまった。

 別に緊張するような試験でもないし、問題も難しいものじゃなかったのに。


「あら大あくびだこと」

「風呂入ったら寝ることにするよ」

「それが良いわ。受験は長いもの……あ、枝豆食べる? 冷凍食品だけど」

「お腹いっぱいだから要らないよ」

「あらそう。ビールも有るのに……」

「母さん、俺は未成年です」

「分かってます。冗談よ冗談」


 そういって母さんは口を尖らせる。

 祖父母亡き後、女手一つで俺を育ててくれただけあって、家の外ではきっちりしているが、こうして家に居る時は子供っぽいところを見せてくれる。 

 

「大人になったらビールも付き合うよ」

「あらあらあら……楽しみにしてるわ」


 母さんは少女のような可憐な笑顔を見せる。

 良い大学入って、良い所に就職して、楽させてあげないとな。

 風呂に入った後、俺は急な眠気に襲われてベッドに潜り込んだ。

 疲れも有ったのだろう。すぐに俺は眠ってしまった。


     *


 翌朝。


「ん……ふぁー」


 目覚ましは鳴らない。

 今朝は日曜日だからだ。


「ダーリーン! ダーリーン! 起きてー? おーきーてー!」

 

 聞き慣れた声がする。

 今朝は日曜日だよな……!?

 そっと目を開く。着ている服がジャージではなく金魚柄の寝間着になっている。

 目に映るものは刀掛け台、籠釣瓶村正ダインスレイブ、失くしたと思ったスマートフォン、襖、布団、畳、眼鏡ケース、そして――


「あー! 起きたー!! ダーリンおはよー!」


 全長30cm程の少女だった。

 神話の女神のような白くてゆったりした服を着て、頭には蓮の華のようなデザインの髪飾りをつけている。


「……もしかして、レイちゃん?」

「はーい! ダインスレイブの精霊にして貴方だけの愛刀スイートハニーレイちゃんです! ダーリンが使ってくれたお陰でこうして姿を現すことができるようになりましたー! 愛ね!」

「そういう姿してたんだ……」

「ええ! カワイイでしょう! この姿なら普通の人にもあたしが見えるから安心してね! 妖精を連れ歩いている人は珍しいけどー、居ない訳じゃないから不審には思われないわ!」

「そ、そうなのか……」

「必要に応じて姿も消せるし、飛んでいるだけで燐光を放って灯り代わりになるから便利よ!」


 レイちゃんは自慢げに胸を張る。小さい身体なのに出る所は意外と出ていて、少しドキッとしたのは秘密だ。

 それにしてもこれはどういうことだ。

 少なくとも此処は東京台東区の住み慣れた我が家ではない。

 昨日見たのと同じ、妙な夢の中だ。

 俺は布団から上半身だけ起こす。肩も、背中も、腕も、全身が激しく痛んだ。


「分かった。とりあえず状況を説明してくれ」

「あの後大変だったんだよ? ダーリンは意識失っちゃうし、あたしも身動き取れないし。親切な人が助けてくれなかったら殺されたんだから!」

「殺されていた……?」

「そりゃそうよ。ダーリンは金山奉行大國長庵を殺したのよ? 下手すればこのままお尋ね者なんだから!」

「…………」


 物騒な夢だ。

 いや、夢か?

 やけに生々しいし……。


「夢じゃないわよ?」


 えっ。


「此処は何処だ?」

「エドよ」

「江戸? 俺、タイムスリップしてるのか!?」

「タイムスリップ? うーん……ちょっと違うわね。此処は多分、ダーリンの知っているエドじゃないもの」

「どういうことだ?」

「えっと……何処から説明したら良いのかしら……」


 訳が分からない。

 此処は一体何処なんだ。

 今は一体何時なんだ。

 俺が考え込んで何も答えられなくなっていると、部屋の襖が静かに開け放たれた。

 

「話は聞かせてもらいました。天ヶ瀬アマタ、貴方の疑問には私が答えましょう」


 其処に居たのは、狐面をつけた着流しの男だった。

 誰だ、こいつ。

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