第12話(2/4)

 とてもかわいい子だった。軽そうには見えないし、おそらく引く手あまただろう。勝算があると思ったからこそ声をかけてきたのだ。彼女のプライドは傷ついたに違いない。

 かわいいと思ったらアドレスを教えることもあるのだが、微塵もそんな気が起こらなかった。俺はもう彼を思い出していた。俺でさえこんなことがある。彼は今頃、すれ違いざまに何人に振り向かれていることか。


《電車でナンパされた。雅人さんもされてるんじゃね?》

《さすが。持ち帰る気だろ。》

《持ちかえらねえよ! 俺ジャン一筋だし!》


 ハートの絵文字を添えると、雅人さんからは、バカというひとことと、呆れ顔の絵文字が送られた。

 俺もだいぶ浮かれすぎている。まさに虜になっている。残念なことに少しも嫌じゃないから始末が悪い。据え膳食わぬは男の恥だというのに、こうまで惑いもしない。彼のことで頭がいっぱいで少しも意識が逸らせない。まったく、やはりあの人は罪な人だ。そういえば前にも、あんなに可愛いナナを前にして男のことばかり考えている自分に悲しくなったこともあった。

 アナウンスが駅の名を繰り返す。ドアを出て寒さに肩をすくめる。

 それにしても、彼が独身だったとは。おそらく俺の浮かれ具合には、一日の幸福に加えてこの事実が大きく影響しているのだ。これまで散々かき回された感情は何だったのか。どこまでも迷惑なメールの送り主に腹が立つ。

 しかしそれよりも膨らむこの大きな安堵と湧き上がる笑み。彼は俺に嘘などついていなかった。訊けばよかっただろうとまで言っていた。暗にプライベートに踏み込むことを許してくれているようなものじゃないか。

 もう家に着いただろうか。どうしているだろう。もう話がしたい。付き合ってきた子に対してだって、これほどまでには思ったことがない。

 俺はこらえきれずにメールを送った。家に着いたという返事が来て、逸る気持ちを隠せない指先で彼の電話番号を押す。

「おかえり」

『ただいま』

 微笑んだ囁くような声音。そういえば、これまでの電話もそうだった。直に話すときよりも、静かな声になるのか。

「電話でおかえりとかいって、なんか俺ストーカーみたいじゃね」

『やめろよ』

 雅人さんは笑い声をたてた。

「ナンパされなかった? 大丈夫?」

『されないよ。ていうか大丈夫ってなんだよ』

「なんとなく」

 笑ってアパートの階段を上がる。肩に携帯を挟み、鍵を出してドアを開ける。

『今着いたの? お持ち帰りは?』

「だから、しないって。言ったじゃん、俺はジャン一筋だって」

『なあに言ってんだよ』

 左手でスイッチパネルを探り、フローリングにあがってそのままベッドへ腰を下ろす。

 壁のポスターを眺めて不可思議さを味わう。ジャンの顔に彼の顔が重なる。顔の輪郭も、身体の形も、手足の長さも、指先の形も。みんなさっきまで目の前にあったものと同じだ。毎日見ていたはずのポスターが別のもののように見える。パズルを埋めてゆくようにジャンの姿に雅人さんの片鱗を見つけてゆく。やはりどさくさに紛れてでも、手ぐらい触っておけばよかった。

「ねえねえ、また会ってくれる?」

『んー悩むなあ』

「なんで、酷い!」

 そう言うとまた彼は笑い、しょうがないなと続けた。

『可愛い浩二のお願いなら、聞いてあげるしかないだろ』

 電話口で静かに笑う明らかな芝居。電話独特のその声は吐息を含んでいる。おそらくそれは、芝居ではない。俺が黙ってしまうと、低い笑い声が聞こえた。

『まさか、ほんとに照れたのか』

「うるせえな」

『可愛い』

 彼は明らかに楽しんでいる。タチ悪ぃと呟くと、何が? ととぼけてくる。手のひらで顔を扇いでため息を漏らす。これは散々からかった仕返しなのだろうか。俺は立て直すべく早口で噛み付いた。

「さすがは百戦錬磨の女泣かせですね。子猫ちゃん今夜は寝か――」

『わかったお前とは二度と会わない』

「ちっくしょ」

 完敗だった。ベッドへ片手をついて項垂れる。顔が火で炙られているようだ。雅人さんは我慢できないというように笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る