第10話(5/5)


『ガラスの反射や透過によって、景色に溶け込み、そこに存在しないかのように見せる。まるで摩天楼のような彼のその建築は、しばしばVanishing Architecture(消失する建物)とも称される。』


 写真で見る男の作品は確かにそういう危うさを持っている。少し慌ててページを捲ると、異様なまでの煌めきをまとった建築物がいくつも並んでいた。どれもがガラスに覆われ、まるで近代的な新しいステンドグラスのようだ。

 冷たさと精巧。儚さと壮大。途方もなく大きな虚無。

 美術館であったりどこかの会社であったりと、そのどれも人が関わるものにもかかわらず、人の気配を一切感じさせないうら寂しさがある。

「昔たまたま美術誌のコーナーでこの本を見つけて、綺麗だなって思ってさ。俺はこの人の建築みたいに徹底した世界観を作って、人を驚かせようって思ったんだよね。それでその人の名前だけ貰ったんだけど」

 雅人さんは紅茶を啜って、続けた。

「バンドを辞めてこの店に来たとき、この本があるのを見つけて、びっくりした。泣けたよ」

 それで彼は、この店の常連になったのか。少し喉の奥が苦しくなる。

「それは……、運命的としか言いようがないね」

 平然を装って言ったつもりが若干声が詰まってしまった。雅人さんはカップを置いて、顎先に指を添えた。

「世界中の超有名なミュージシャンとかギタリストは若かった俺にとってよくわからなかったわけ。本当にこの世にいるのかよって。そういう伝説な感じ、ワクワクするだろ。実際は、みんな爺ちゃんになったり死んでたり、生きていても一体どこで何してんのかよくわかんない。でも下手に中途半端に出てこられるより、夢が壊れない。そういうの、なんかいいなあって思って。綺麗にいなくなって、綺麗なままみんなのなかにいる」

 それはまさに俺の中のジャンそのものだった。確かに、ジャンは忽然と消えたことで謎が深まり、劣化することなくファンの中に存在し続けている。果たしてジャンは本当にいたのだろうか。俺たちの見てきたものは、幻であったのか。そう思わせるほどジャンは美しく、そして跡形もなく消えてしまった。

「そこにあるのか、ないのか。本当はいるのか、いないのか……」

 写真を眺めて呟く。デパートであるとは思えないすべてガラスで出来た円筒の、吸い込まれるような吹き抜けの写真。巨大な深淵の先は見えなくて、恐怖さえ覚える。

「ジャンなんて、初めからいやしない。でも確かにそこにいる。そういう感じ」

 雅人さんは俺の手元に見たまま、頷いた。

 ジャンに対する自分の解釈が正しかったことに、俺は満足を覚えていた。そして、切なさも。ただ、俺はこの切なさが、嫌ではない。彼のきらびやかな世界の後ろに広がる影を、愛していたから。それがジャンという存在だったから。

 完成された世界。彼の美学と理想の世界をつくり上げるためにあらゆる計算がされていたのだろう。もしかすると俺が感じるこの切なさも、あらかじめ想定されていたのかもしれない。

 たぶん、今でも彼に魅了されたまま引きずっている人たちはこの感情を知っている。離れた人がいたとすれば、それはジャンの演出する表側のきらびやかな世界しか見えなかった人たちだ。

「大成功じゃん。完璧だね」

 静かに呟くと、雅人さんは笑った。

「ちょっと、やりすぎた感じはする。想定外だよ」

「どうして」

「まあ、色々ね」

 そんなことを言われて、悲しい関心が掻き立てられないはずなどないのに。彼は窓の外に視線を投げている。俺は何と言ったらいいのかわからず、少しの間沈黙した。

「でも、浩二にはもう失敗したな」

「何がですか」

「だって、会っちゃったしね。なんでだろうなあ」

 俺はジャンじゃない。そう言い切るくせにたまにジャンであるということを認める発言をする。それさえも彼にとっては失敗なのだろう。

「俺が可愛いからだ」

「忘れろよそれ」

 眉を寄せてカップを掴む。中身は入っていないのに。下手な照れ隠しに持ち上がる頬を止められない。ついさっきは素直に認めたくせに。

 俺たちの関係は数時間前とは明らかに変わっていた。それがたまらなく幸せに思えた。

「あ。そろそろ行こうか」

 雅人さんが腕時計を見て眉を上げた。俺はその瞬間になぜか胸が重苦しくなった。周りに漂う気怠いような、暖かい空気を断ち切られたからか。いや、違う。遅れて気づく。彼が妻子持ちであることを、思い出したからだ。

「ライヴ始まる前にあいつらと会わなきゃ」

「ああ、そうか」

 胸を撫で下ろす。それでも嫌な感じは拭えない。なぜ俺は今の今まで、忘れていたのだろうか。会えることになってから、あまりに緊張しすぎてすっかり忘れていたのだ。内心舌打ちをする。忘れていたなら、忘れたままでいたかった。

「どうした」

 彼を見上げて、ああ、と誤魔化す。俺は明らかに落ち込んでいたのだろう。隠せないほど嫌な気分であることに自分で驚く。俺は立ち上がってジャケットを手にし、笑顔を作った。

「なんでもないっす。行きましょ」

 会計を済まそうとする雅人さんを阻止すると、おばさんみたいな真似はよせと叱られて、俺は素直にご馳走になった。

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