第10話(4/5)
*
本来、歯の浮くような台詞を言って人を照れさせるのは彼の方だったはずだ。気障なキャラクターのジャンが照れるということなど考えたこともなかった。俺は発見に大いに喜んで浮かれていた。だいぶ本音で話したせいもあり、肩の力はすっかり抜けている。
「俺のとこから取っていいよ、もう苦しくなってきたし」
ハニーレモンパンケーキが期待以上に美味い。ぺろりと平らげた俺に、雅人さんは嬉しそうに言う。
「ってか雅人さんってさ、俺って言うんだよなあ。ジャンは僕って言ってたのに。人のことも、君とは言わないし」
フォークを伸ばしながら思ったことを口にする。それから彼の皿から食べ物をもらうという事実に遅れて気づき、再び緊張が呼び起こされた。我に返れば信じられないことの連続に若干疲弊する。
「人のことを君なんて、素でそんな気持ち悪い呼び方する奴いるかよ」
「えーっ」
呆れて笑う彼に素直にショックを表した。
「だめだ、雅人さんによって俺のジャンがザクザクやられてく」
「言ってるだろ。ジャンと俺はまったくの別人」
彼の声には嫌悪も怒りも感じない。ただ事実を淡々と語るように言う。俺はパンケーキが刺さったままのフォークを置いて、ため息を漏らした。
「やっぱ淋しいな、俺。一度も生で見たことがなくて、ファンレターの宛先もわからなくて、ちっともジャンがいる実感がなくてさ。それでやっといるってわかった途端に、本人が存在を否定すんだもん。残酷だよ」
怒らないとわかったからか、つい言ってしまった。雅人さんがふと吐息で笑う。
「残酷か。そっか。否定してることになんのか」
彼は薄く切られたレモンを突いてから、ふと思い立ったように、そうだ、とフォークを置いた。椅子を離れてパーティション代わりのラックの前に立つ。まったく別のことを考えているように見えてますます淋しい。
積まれた正方形のラックにはあらゆる本が入っている。ここから見えるのは、分厚い星座占いの本と誰かの画集らしき本だ。しばらく見守っていると、あ、と声があがった。明かりが点いたような晴れた顔をして、大きな本を両手で掲げて俺を向く。
「なんすかそれ」
表紙は近代的なビルの写真だ。
「これだ、まだあった。すげえ」
「なんなんすか」
人の話など聞いていない。本当に嬉しそうだ。戻ってきた彼はページを捲り、それに合わせて首を左右に動かした。俺に何かを見せるために急いでいるに違いない。
「これだ、ほら」
逆さに差し出された本を受け取る。結構な重さだ。
誌面には全面をガラスで覆われた建物の写真が掲載されていた。森林の中にまるでプレパラートで出来たような建物がある。これはオブジェなのだろうか。美術館なのかもしれない。無機質で、これを未来的と表現するのが正しいのかはわからないが俺にはそういうものに感じられた。
「これが好きってこと?」
晴れ渡る空と緑とを映し込んで輝く姿は綺麗だが、どうやってこれだけのガラスを嵌め込むのだとか、割れたら危ないだろうだとか、ついそういった物理的な不安ばかりが頭に浮かぶ。何にせよ見せられた意図がわからずに首を傾げると、よく見てみてと言われた。
視線を走らせる。並ぶ写真の下に、モノクロのポートレートがある。その男の名を見て、俺は声をあげた。
「え、ジャンって……」
「それ」
「えっ、ジャンって、これ?」
少し声がひっくりかえってしまった。雅人さんは頬に手を当て、頬杖をつく写真の男を真似た。
「イヤイヤイヤちょっと待って意味わからん」
フランス人のスキンヘッドの建築家だ。中性的でもなければ音楽家でもない。しかし名前に続いた男のプロフィールに目を通し、俺は少し前屈みになった。
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