第10話(3/5)
「悪い悪い。確かに、今でも浩二がどんだけかって、すごい伝わったから連絡する気になったんだけどね。そんなこと、絶対にしないのに」
「俺ってやっぱ、特別?」
照れ隠しにちょっと調子に乗ってみる。怒られる覚悟だ。だが雅人さんは笑って言い切った。
「特別。なんだろ、浩二、可愛いんだよな」
ぎゃ、と本気で胸を押さえると、ジュ、と何かが焼かれる音が聞こえてきた。パンケーキか。勘弁してくれ、俺のハートも焼けちまう! って、何バカなこと考えさせるんだ、本当に勘弁してくれ!
大笑いする雅人さんから目を逸らし、息を整える。唇を合わせながら膝の上で指を組む。
「雅人さん、あのね。俺を調子に乗らせると、怖いよ」
前かがみになって睨んでも、彼は少しも怯まない。顔が熱くて仕方がない。
「だってなんかさあ、可愛い子を見ると何かあげたくなっちゃうだろ。ああいう感じ」
「それって、犬猫!」
「ああそうか、それか」
「ああそうか、じゃないでしょ!」
その会話を境に俺は普段を取り戻し始めた。それがさらにジャンと話しているという現実味を薄くする。彼とこんなに気さくに話せることなどありえないと思っていたからだ。しかし俺は、度々現実を思い直してはやわらかい幸福を噛み締めた。――俺が今普通に話している相手は誰だ。そうだ。ジャンだ。あのジャンだ。ずっと憧れた、あのジャンだ!
ようやく雑誌でもビデオでもない、生身の彼との会話ができるようになっても、あえて立ち戻って客観的になる。満たした蜜壺を幾度も覗き込むように、いちいち状況を確認し、幸福を確かめるのだ。
嬉しくて嬉しくてどうしようもない。動物のようだと言われるのもわかる。たぶん俺は今、全身から抑えきれない喜びが溢れ出ているのだ。
しかし彼はきっと、ファンの俺と話すことは望んでいない。ファンであれば、黄色い声を出し、挙動不審になり、彼と距離を置こうとするのかもしれない。下手すると会話も成立しない。確かにそれでは困るだろう。だから俺はどんなに嬉しくとも、なるべくファンである自分を心の内に押しとどめ、彼の目には隠さなければならないと思う。ジャンである彼をジャンと呼べない辛さはあれど、そんなことは今の幸福の前では何でもない。
ビーフストロガノフが運ばれてきた。米にかかった赤茶色のソースが湯気とともに甘いにおいを鼻に流してくる。腹が鳴りそうだ。緊張で朝から何も食べていない。さっそく合わせた両手の親指にスプーンを挟み、いただきますと言って大きく掬った。
「口もでかい」
頬張る俺を見て、雅人さんが呟いた。何か嬉しそうな顔をしている。俺は今、ジャンに食事を観察されている。そう思うと妙な興奮さえ覚えてしまう。
サラダと生ハムが乗ったパンケーキが運ばれてくると、雅人さんはナイフで綺麗に六等分にした。俺はここぞとばかりにその指を凝視した。つい彼の中にジャンである証を探してしまう。疑っているのではない。ただ自分の幸せのためだけに探すのだ。
死ぬほど見たジャンのギターソロ。手元が大きく映る瞬間を、何度も巻き戻しては繰り返し見たものだ。……この指。この指がギターのネックをなめらかに滑り、それぞれがぱらぱらとよく動いて、まるで柔らかいものに触れるような軽やかさで弦を押さえた。ピックを持つ二本の指と伸ばされた三本の指は長さが際立ち、動く度に照明に浮き上がる手の骨は細く繊細だった。
背を反らせ、長い髪が横顔を隠す瞬間。指先が止まり、高く上へと伸ばされる度に湧き上がる悲鳴。赤や黒のエナメルに輝く、細長い爪。
今は色はないけれど、ナイフを持つこの指は確かにあの指と同じだ。細くて、長くて、白い。その指に触れることを、その手と握手することを、俺は何度想像しただろう。
それが今、目の前に、手を伸ばせば触れられるほど近くに、ある。
まずいと思ったときにはすでに目元が熱く、視界が歪んでいた。我に返り慌てて俯いたが遅かった。雅人さんはパンケーキから視線を上げて、訝しげな顔をした。
「何、どうした」
「いやなんでもないっす」
「いやなんでもないわけないだろ」
こらえていたが瞬きをしてしまう。これはもう誤魔化しきれない。限界まで膨れた涙が目尻に広がった。少し黙って、俺は息を吸った。
「すんません、俺やっぱ無理だわ」
「え?」
「だって、あの指だって思ったら、もうだめだ」
何のことを言っているのかわからない、そういう顔をして自分の指を見た彼が思い当たったように唇を開いて、ああ、と言った。
「バカ。ほんとに泣くかよ普通。もう、ほら」
雅人さんが乱暴にペーパーナプキンを取って差し出した。居心地が悪そうに、恥ずかしそうに眉をひそめる彼の顔を見て俺はなぜだか余計に涙が込み上げた。
「まさとさん」
「ああもう変な声出すなよ、恥ずかしい」
俺がナプキンを受け取ると、雅人さんは本当に恥ずかしそうに口元を手で覆って視線を逸らした。
「ごめんね、ヤだよね、俺もなるべくそういうミーハーな感じ、やめようって思ってんだけど」
決意はその指ひとつで脆くも崩れ去った。
「でも無理じゃね。普通に無理じゃね。俺は高校生ンときからずっとジャンが好きで、生で見るのが夢だったんだよ」
「逆ギレかよ」
口元を覆ったまま膝に頬杖をつく姿から、居た堪れないのであろう心情が如実に伝わってくる。俺は笑ってしまった。力が抜けた。禁句だったジャンの名前を出してしまって、すっきりだ。髪を両手でかきあげる。緩む頬は戻らない。
「あーなんかもう、だめだー。頑張ろうと思ったのにだめだ。死ぬほど好きな人の前でなんか無理だー」
「あのなあ、普通は、そんなファン丸出しってやられると、引くんだぞ」
そんなことは絶対にファンには言わないはずだ。それこそが俺を特別だと言っているようなものだと思う。この人は困るほどに俺を舞い上がらせる。
「でも雅人さん、引いてねえだろ」
「知らねえよ」
そう言ってそっぽを向く。耳が赤い。俺はまたキュンとした。
「なんなの、可愛いな」
おさえることができずに言ってしまうと、雅人さんはきっと俺を睨んだ。
「怒るぞ、浩二」
それしか言えない彼が余計に可愛く思えて、背もたれで首を反る。
「やーべー」
にやついてしまう顔を隠すように両手で覆い、涙を指できつく拭いた。まったく何がやべえんだよと文句を言いながら彼は再びパンケーキを切りはじめた。十分な大きさなのにさらに細かくしている。またその手元を見ていると、雅人さんはちらりとこちらを見てうんざりしたように首を振った。
「ああもう、やりにくくなった」
本当に照れているのがわかるから俺の悶えは煽られた。しかしそれで食欲を奪っては悪い。俺は努めて、何事もなかったように黙りこんだ。
「とりあえずそのナプキンは捨てて帰れ、バカ」
「バレたか!」
ポケットに忍ばせた手を抜いて、口をとがらせる。
「ンだよいいじゃん、サインねだるのだって我慢してんのに」
「サイン? ンなもの一生やらないってジャンが言ってるよ」
「なんでだよ! 俺のジャンはもっと優しくて、俺になんでもしてやりたくなっちゃうって言ってたぞ」
「人違いじゃねえの? ジャンはそんなこと言った覚えはないって言ってるよ」
確かに言ったのはジャンではなく、雅人さんだ。彼は細かくなったパンケーキを俺の皿に載せて、勝ち誇るように顎を上げた。俺はそれで黙った。細められたその目に、みのると見た雑誌のアップが頭に蘇った。あの流し目。挑戦的な、蠱惑的な微笑。悶えていたときとは違う熱が顔に上がる。
「お前、また! なんだよいきなり、どこでスイッチが入るんだ」
潤む視界で、雅人さんは慌てたように目を丸くした。彼は本当に知らないのだろう。自分の存在のすべてが、いちいちあらゆる感情を喚起させることを。
「――ほんっと、わかってないよなあ。もう罪だよ罪、そこまでくると」
両目をこすってため息混じりに言うのが、なんだかいかにも幸せそうだと我ながら思う。
「何がだよ」
「俺を喜ばせるようなことばっかして」
「知らないよ。そんなこと言われたって、意識してるわけじゃないんだから」
彼はそう呟いてパンケーキを口に運んだ。手元を見る睫毛にまた目が吸い寄せられる。不機嫌そうな顔。なんて美男子だろう。薔薇でもない、星くずでもない。パンケーキを食べている姿さえ、きれいだ。
「そりゃあ、こんな熱狂的なファンもできるわ」
ぼそりと言うと、雅人さんが上目で俺を睨む。
「お前言ってて恥ずかしくないの」
意味わかんねえし。そう付け足してまたパンケーキを口に運ぶ。目元が少し赤く見える。色が白いからわかってしまう。からかいたくなる。
「恥ずかしいのは雅人さんだけじゃん」
「何こいつ、可愛くない」
もぐもぐと口を動かしながら、目を細めてちらりと俺を見る。
「ね、俺を調子に乗らせると怖いって宣言は、本当だったっしょ」
上体を屈めてそう言うと、雅人さんは再び俺を睨んで、迷惑そうに眉を寄せた。
「ほんとだよ」
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