第10話(2/5)
二階に上がると、ステンレスドアが並ぶ廊下に出た。すぐ目の前の扉に手作りと思しき木製のプレートかかっている。雅人さんはドアノブを引いて脚を差し入れた。そのくの字に曲がる長くて細い脚を見ただけで、俺は頭の中で、グラムロック! と叫んでいた。
「いらっしゃいませ」
少し低い女性の声と、静かなボサノヴァ。想像をはるかに裏切るカフェそのものが現れた。
カウンターで女性が振り返り、フルーツが沈む果実酒の瓶がきらめいている。奥には少しのテーブル席があり、壁には大きな間隔をあけてモノクロの絵画が吊るされていた。裏道を見下ろす大きな窓からは光がふんだんに溢れて、照明はそれだけで足りているようだ。ベランダにあるひとつだけのテラス席にマンションの名残を感じる。
お好きな席へどうぞという声に従い、俺たちは向かい合って奥のソファに腰を下ろした。客はほかに女性がひとりいるだけだ。
ジャケットを脱いでいると、カウンターにいた女性が水の入ったグラスと黒いアルバムを持ってやってきた。店員は彼女だけのようだ。アルバムはボア素材の表紙で、おそらくメニューだ。ドアにあったプレートといい、手作りのものがいかにも隠れ家的カフェといった感じで楽しい。しかも丁寧で、器用だ。店主の想いが伝わってきて微笑んでしまう。原宿でカフェを続けるというのは、きっと大変なことだ。
雅人さんの前にグラスを置いて、彼女がはっとした。
「あれ、こんにちは! お久しぶりですね」
大きめのリアクションと笑顔に少し驚く。
「あ、覚えてます? 嬉しいな」
雅人さんも明るい横顔で彼女を見上げた。それから彼らは少しの間談笑した。女性は口元に手をあてて時折大きく頷き、目を丸くして心底嬉しそうに笑っている。ちょっと意外だ。きつめの眸と落ち着いた声やきっちりとした団子頭という外見のせいか、さっぱりとした寡黙そうな印象を持っていたのだ。
彼女がカウンターのキッチンへ戻ると、雅人さんがもこもことしたメニューの表紙を開いた。
「バンドを辞めた日、このカフェを見つけて入ったら店長がほんと優しくてさ。必要以上には構わないんだけど、少し話したら、なんか俺泣きそうになっちゃって」
彼はページを捲りながらほんのりと微笑んだ。いきなりセンシティブな話だ。俺は乗ってもよいのか決めかねた。どうしてジャンがバンドを離れたのか、その真相は知らない。方向性の違いとだけ公表されていたが、ファンは誰も、納得などしていなかった。
「じゃあ、六年くらい前まで常連だったんすね」
俺は核心には触れずに続けた。
「店長って、あの人ですか」
カウンターの女性に顔を向ける俺に、雅人さんは頷いてメニューを見せる。
「このハニーレモンパンケーキがすげえ美味いの。あの日もこれ食って、あんまりに美味いから感動して、それで店長に思わず声かけちゃったんだよ」
「そんなに? じゃあ俺これ食います」
「あんまり美味いから、こっちのパンケーキも食べた」
雅人さんはサラダと生ハムの乗るパンケーキを指した。その細い身体にどれだけ入るんだ。
「すげえな」
言ってしまって、口に手をあてる。これでも社会人だ。中学、高校の頃にだって散々上下関係の世界で揉まれた。年上にタメ口をきくなどありえない。それなのになぜか彼と話しているとたまに出てしまう。礼儀のなっていない若者だとうんざりされるのはいやだ。
「なんだよ、気にすんなよ。別にいいよ。タメ語のほうがいい」
謝ろうとしたところで、雅人さんが察して笑みのまま言った。
「いやでもさすがに」
「俺がいいって言うんだからいいだろ」
彼は返事も待たずに店長を呼んだ。
「ビーフストロガノフ、食べるだろ」
ちらりと戻される視線に頷く。パンケーキを二種類と、ビーフストロガノフをふたつ。注文を終えると彼はグラスに口をつけた。沈黙がやってきた途端、俺は目のやり場に困った。
「なんでなんすかね。俺、ジャ……じゃなかった、雅人さんと話してると、タメ語になっちゃうんすよね。普段はそんなことないのに」
ぼそぼそと言い訳をすると、雅人さんはグラスを置いて唇を微笑ませた。手元を見ているのか、伏せられたような瞼に目がいく。ジャンよりも短い睫毛。マスカラもつけまつげもないのだから当然だ。それでもはっきりと見えるそれに俺は少しキュンとした。
「まだ実感ないんだろ。俺と話してるって実感が」
「そうなのかな」
「たぶん、雑誌だか何だかわからないけど、そういうところの俺に向かって話しかけてる感じじゃないの」
目が合って、それだけで動けなくなる。逸らせない。彼がじっとこちらを見るものだから。よく見るとほんの少しだけまなじりが下がっている。それなのに、すっきりとして、少しきつい。あの化粧ではわからなかった。好きな女の子のノーメイクを見た日の喜び。なぜだかそんなものが頭に浮かぶ。それで実際に喜んだことなど、さしてなかったくせに。
「確かに……、確かに、そうなのかもしれない」
俺は俯いた。口元が緩みそうになるのをこらえる。切なさのようなものまで沸き起こる。
「ファンと話すことって、あんまりないんだ。だけど浩二とは、そんな気がしない。ファンと話してるって感じがしない。でも、なんでだろうな。俺、ほんと初めてだよ。ファンだった子とプライベートで会うなんて」
「ちょっとそこ過去形にしないでくださいよ」
思わず勢いよく言って、面と向かって貴方のファンだと言ったことにことさら照れる。雅人さんが小さな声をたてて笑った。
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