第10話(1/5)

 隣を歩くことに躊躇いがあったが、後ろを歩くのはおかしい。だから俺は勇気を持って隣を歩いた。こんなことにさえ悩む俺を、彼は少しも知らないのだろう。涼しげな横顔がまっすぐに前を見ている。胸を押さえていたくなるほど、鼓動が激しい。

「どこに行くんですか、ジャ――」

「雅人」

 彼はこちらを睨んで、強い口調で遮った。

「ま、雅人さん」

 言いなおすと彼は再び前を向いた。怒ってはいないようだ。

 ジャンである人をジャンと呼べないことはもどかしかった。どんなに格好も雰囲気も違うとしても、彼の形はジャンそのものなのだ。強い原色を剥いだだけの、ジャンなのだ。名を呼びかけることがその存在の確証を与えてくれるはずなのに。

 だがもちろん歓喜もある。本名という特別な名を呼ぶことで、他のファンが拝めない彼の内部に触れている気分を味わえる。

 淋しさと歓喜。このまったく異なるところに存在する感情が同時に沸き上がり、俺は自分が一体どういう状態であるのかがわからずに戸惑った。こんなに複雑な心境で、人と関わることなどなかったのだ。

「前によく行ってたカフェ、まだあるといいんだけど。ビーフストロガノフとかパンケーキとか、美味いんだよ」

「あれ、そんなの食べるんだ」

 ついそう言うと、彼はポケットに片手を入れて笑った。

「薔薇なんて食わないよ。星くずもね」

「がーん」

 思わず口に出てしまう。おかしそうに笑われて、唇から微かに白い歯がこぼれるのを見た。

「だって俺、ジャンじゃねえし」

 驚いた。彼のそんな口調はいまだかつて聞いたことがない。あまりにも自分と同じ世界の人間のようだ。だからだろうか、ジャンの存在を否定されたにもかかわらず、俺はさして気にもならなかったし、傷つきもしなかった。

 しかし、僕の可愛い子猫ちゃんたち、なんて、この人が言うとは思えない。美男子、好青年、正統派二枚目俳優。そういう印象のこの人が、あんなに派手な格好で破壊力のあるギターを弾いていたなどとどうして思えるだろう。それにしても、白い首筋に細いシルバーのチェーンがかかっているのは綺麗だ。歩くたびに動く鎖骨にあわせて、微かにねじれて、艶のない繊細な十字架のトップが揺れている――。

 じっと横顔を見つめていたことに気づいて、慌てて顔を戻す。もしもジャンに会ったなら、その美しさに目を奪われやしないだろうか。そんな危惧は当たっていた。いわゆるステージに立つジャンのあの中性的な美しさとは異なったが、これは十分に気をつけなければならない。同性からも目をひく格好良さだ。ライバルにはご遠慮願いたいタイプの相手である。注意していなければ、俺はまた彼を凝視してしまうだろう。

 ふいに雅人さんが、ん? と喉の奥で声を出して眉をひそめた。こちらを見るその表情はどこかからかうような色をのせている。

「浩二、美容院行って来ただろ」

「えっ! うわ、そっか、パーマ液の匂いか、考えてなかったちくしょう!」

「やっぱり」

 焦って両手を髪に差し入れると大笑いされた。臭いなんて大失態じゃないか。しかも、彼に会うために美容院に行ったなどバレたら恥ずかしすぎる。いやきっとすでにバレている。からかうような顔は、それだ。

「それにしてもデカいなあ」

 さほど変わらないのだろうが、俺を見上げる目は興味深そうだ。

「百八十、何センチ?」

「さん、です」

 答えると彼は目を丸くして笑った。

「でけー。いいね。俺も小さい方じゃないのにな」

「いや、雅人さん十分っしょ。ていうかそれくらいでいいですよ、そのほうが高いブーツ履いてもちょうどいいし」

 はあ? と笑われてしまう。確かに、意味のわからないことを言ったと思う。ジャンといえば高いヒールのブーツを履いていたから、俺はそれを頭に浮かべていたのだ。ただそう言い訳するとまた怒られそうで、曖昧に笑って誤魔化した。

 彼といると自分の幼さが際立った。ダサい姿は見せたくないが、上手くはいかない。年下というだけでなく彼にベタ惚れしているというハンデがあるのだ。それで上手く立ち回れるほど俺は大人じゃない。女の子相手ならともかく、大人の男だ。それも心から憧れた、ギタリスト。不器用にならない人間がどこにいる。しかしそんなことを気にもとめないような彼の気さくさは、これでも俺の緊張をだいぶ緩めてくれているのだと思う。

 表参道を少し歩き、ハイブランドの手前で道を折れる。キャットストリートに入った。早速スナップ撮影に声をかけられたが、雅人さんは腹のあたりで手を上げてさらりとかわした。慣れているのだろう。胸がすくような思いに思わず微笑んでしまう。彼のヴィジュアルはタダで撮らせる価値ではない。俺などほいほい撮らせてはその日の出来栄えを確認する。彼にはそんな必要がまったくないのだ。

 しばらく歩くと、普段なら通り過ぎるような狭い路地の前で彼の足が止まった。十段程度の階段に、小ぶりな看板が立っている。

「よかった、あったあった」

 小さなマンションの脇を抜けて裏道に出ることができるようだ。独り言をする彼の後ろについてゆくと、マンションの螺旋階段を登りはじめるので驚いた。店はマンションの中にあるということか。

 前をゆく彼の尻ポケットには、財布や携帯とともに煙草の箱が入っている。瞬時にジャンと彼が煙草を吸う姿を想像して頬がにやけた。どちらが吸っても、きっとアンニュイで綺麗だろう。もしかすると、片方は今日のうちに見られるかもしれない。つい階段を三段ずつ飛ばしていることに気がついて、俺はひとりで照れ笑いを浮かべた。

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