第9話
三月はやけにライヴが多いように思う。今年初のLSDのライヴも三月だ。その日はすでに別のライヴの予定が入っていたが、俺はLSDのために空けることにした。
一ヶ月もこんな状態でいられるか。そわそわして、鬱屈して、辛い。それなのにジャンは何事もなかったかのように更新依頼のメールをよこす。俺のこれまでの人生を否定するような台詞を吐いておいて。
ジャンはいない。そんなシンプルに、はっきりと、残酷なこと言うなよ。俺のジャンへの愛までも否定するようなものだ。胸の奥がざっくりと切られて途方に暮れる。傷がぐぢぐぢと痛む。それはもちろん、酔った勢いで酷いことを言ってしまったという悔恨も手伝っていた。
しかしこれを何と言うのだろう。確か、ひょうたんから駒だっけ。本気ではあったが、それを言ってみても叶わないと思っていたのだ。まさかジャンと会うだなんて。もっとも、彼にとってはジャンではなく、吉岡雅人という男なのだが。
彼は吉岡雅人が何者であるかは言わなかった。だがきっと、本名に間違いないだろう。ただ彼の言い方では、ジャンと雅人はまったくの別人であるということだ。あらゆる疑惑をかけることのできる俺にとっては、一瞬、ジャンになりきった吉岡雅人が偽物であることを白状したかのように感じられた。それほどにまで、明確な隔てだった。
実際にその名とジャンを結びつけるのには違和感がある。金髪碧眼で、西洋、ときには宇宙の空気さえ醸しだしていたのだ。もちろん、日本人であることはわかっている。外国人の顔ではない。しかし名前がイメージに与えるギャップよりも、もっと大きなものがあった。彼には現実味がなかった。ジャンという名は単なる愛称のように思え、それは伝承上の架空の生き物のようにさえ感じられたのだ。忽然と姿を消し、すべての気配を消した伝説のギタリスト。たとえ電話で声を聞いても、その存在はふわふわと宙に浮く、ブラックボックスのようなものだった。それが突然、吉岡雅人という、具体的な、身近な日本人名の記号を持った。はたしてその効果は、実感というものを持って、ようやくジャンの存在を俺の現実に落とし込んだのだった。
いよいよ天上に住んでいた生き物が、現世で目に見える姿を纏い、俺の目の前に気配をちらつかせはじめた。いざ願いが叶うとなれば、俺は落ち着きをなくした。もちろん緊張はするが、それはさほど嫌な類の緊張ではなかった。たぶん、当然ながら、浮かれてもいるのだ。あと一ヶ月。俺の世界と人生は、きっとまた変わる。そう思うと長いと思った一ヶ月も短く感じられ、そのために服や鞄を探すのにだって時間が足りない。
ジャンはどんな格好で現れるだろう。さすがに金髪を巻いたりはしないよな。つけまつげだってないだろう。化粧もなし。サングラスだろうか。帽子か。だが、ジャンに帽子といえばあの真っ赤な帽子しか思い浮かばない。おはようコウジ! 待ったかい? そう言ってウィンクで星を飛ばす、そんな登場か。俺はそのとき、どう返せばいいのだ。抱きついてもいいのか。
昔から想像の中で彼と会うときは、もちろん彼はいつものジャンなのだ。それ意外の姿を想像したことがないから慣れていない。俺は彼と並んで釣り合うだろうか。恥をかかせやしないだろうか。どんなに俺がイケメンでも、ジャンが隣にいれば霞むだろう。負かされるのは好きではないが、ジャンが相手ならそれで本望だ。それで彼が一緒に歩いて恥ずかしくなければ構わない。
毎日そんなことを考えているうちに、残された時間は二週間となった。俺はいつもの二人と表参道に出て新しい服を選んでいた。代官山、中目黒と辿り、鞄もアクセサリーも、何もかもを新調しようとする俺を、ナナとみのるが止める。
「新しいお前を作り上げたって、どうしようもないだろ。そんなん無駄だよ」
「そうだよ浩ちゃん。浩ちゃんいつものままでちょーイケメンだよ」
みのるはそういうことを言いたいのではないのだろうが、結局はそういうことだ。確かにと俺が頷くと、みのるはケッと吐き出した。
「まあ、好きな人に会うときに、新しい服を買いたくなる、それはわかる。浮かれていたい気持ちもわかる。でも金使いすぎ」
ニットで二万、ジャケットは四万、ボトムスは二万。確かに普段はできない買い物だ。美容院に行く予定もある。三万近くかかる。危うく今月を生きて行けなくなるところだった。ひとりで来ずによかった。
*
日曜の原宿の混雑はひどかった。美容院から駅までの道を歩いただけで疲労が募る。サングラスの黒い視界の中で、歩く人々の頭が波打つように見える。狭い駅の構内はもっとひどいことになっているに違いない。
外はまだ寒くレザージャケットが役に立っていた。オレンジベージュにするか黒にするかで随分と悩んだのだが、前者で正解だった。この人混みの中でも多少は見つけやすいかもしれない。それに二度表参道でスナップ撮影に捕まってホッとした。今日に限って声をかけられなかったらどうしようかと思っていたのだ。これである程度は保証された。とりあえず失敗ではないだろう。ジャンの好みにあえば、の話だが。
二時五十五分。約束の時間の五分前だ。待ち合わせのために教えてくれた携帯アドレスからメールが届いた。改札を出た先のATMの横にいるという。大量の人を吐き出す改札の前にたどり着き、俺はいよいよ心臓が壊れるかと思うほど緊張を高めた。
恐る恐るの心情を隠すために大股で歩く。徐々に近づくATMに、握りしめた携帯が汗で滑り落ちるのではないかと心配する。
期待と不安がないまぜになり、胃のあたりが爆発しそうだ。俺は失礼にならないようにサングラスを外して胸元にかけた。本当は格好悪いから、緊張が出ているに違いない目を隠していたかったのだが。
ATMの四角いガラスボックスには四人の男女が寄りかかっていた。金の髪を探して目を動かす。しかしそれらしき男はいない。
茶色いロングヘアーの女の子と、短髪オレンジの男の子。小綺麗な黒髪のショートミディアムの男、そして最後の男に、はっとする。
全身を黒に染める綺麗な顔の男。胸まで伸びた黒く長いストレートヘア。
ごくりと喉を鳴らす。これがまさか、今のジャンなのか。グラムロックではなく、随分ロックらしくなっているじゃないか。それにしても、生で見る彼の顎はさほど尖っていない。実際はあんなものだったのか。それとも多少年齢を重ねたからだろうか。驚きながらも、しかし俺の視線は無意識に戻っていた。ジャンには何の接点もない、黒髪ショートミディアムの男に。男はまるで二枚目俳優のようで清潔感がある。色は白く、手足も長い。紫のVネックの上にスモーキーブラウンのテーラードジャケットを着て、細い足をスキニーデニムに包んでいる。携帯を見ているせいで、斜めに流した長い前髪が眸を隠していた。もう少しで細く高い鼻頭につきそうだ。小さな口元は引き締まっていて、俯いた角度のせいだろうか、口角の窪みが少しばかり微笑んだように見える。
その薄い唇をみとめて、俺は固まった。そして顎の細さを見て、胸が強く脈打った。
――違う。隣の黒い男ではない。
この人こそが、ジャンだ。
男がふと顔をあげた。何かを探すように左を見る。そして眸が俺を見て、それから追いつくように顔が向けられた。
唇が「あ」と言うように、わずかな隙間を生んだ。俺を見つけたその眸はすぐに笑んだ。頬が緩く持ち上がり、下まぶたが押し上げられた。眸は黒々として輝いている。俺のような重たい二重ではない。薄くて、すっきりとした二重だ。
何も言えない俺は、馬鹿みたいに動けず、立ち尽くしていた。本当に、何と言っていいのかわからなかったのだ。彼は、俺のジャンとはまったくの別人だった。だが彼の美しさが強く胸を打ち、それに圧倒され、心地よい敗北感が身体中を満たしてゆくのを感じていた。
黒いタイにサングラス、シルバーのウォレットチェーンにブレスレット、あらゆる装飾品で飾り立てた抜かりない自分の派手さなど滑稽になる、彼の純粋な格好良さ。それでも手抜きには見えず、素材の良さを際立たせる計算が随所にし尽くされているように思えた。どんなにシンプルな服に身を包んでいても、彼は静かに、華やかだった。
「本物の浩二は、さらに格好良いね」
それなのに、俺の前に進んだジャンはそう言って笑い、少しだけ高い位置にある俺の目を見上げた。大人の声だ、と思った。他人をまっすぐに認める優しい声だ。たぶん、俺はそれでようやく表情を動かし、笑えたのだと思う。瞬きをして、目が乾いていたことを知った。
「はじめまして、ですね」
なんとかそう言うと、ジャンは、そうだねと言った。
間近で見る彼の顔は、化粧こそしていないが、明らかにジャンのそれだった。眉の形も、唇の色も、そして、眸の色も違う。それなのに、泣けるほどに、ジャンの形をしている。
「な、ジャンはいなかっただろ」
笑う彼に、俺は何度も首を横にしていた。はじめましてなんて、そんな挨拶はおかしいと思った。こんなによく知った顔なのに、十代だったあの頃から毎日見ている顔なのに。
「もうなんか、たまんないっす、俺」
呟くと、彼は眉を寄せて不思議そうな顔をした。
「泣いていいっすか?」
早くも鼻の奥が痛くなるのを誤魔化して笑う俺に、ジャンはやめろよと右手を顔の前で振り下ろして笑う。
「さ、行こうか。ちょっとお茶しよう」
彼は携帯を尻のポケットに入れると、駅の外へと歩き出した。
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