第8話(2/2)

     *


 ベッドから這い出して、眠るふたりを踏まぬように慎重に跨ぐ。そして俺は部屋を出てアパートの階段を下りた。

 ポケットの中で小銭を掴み、道路の向こうの自販機を目指して歩く。刺すような寒さがあらゆる酔いを覚ましてくれるのを期待した。

 ホットコーヒーのボタンを押し、スウェットの袖で手を隠して缶を取り出す。冷えきった手では熱い缶に触れたくない。尻のポケットから出した煙草を一本咥えて、プルタブを起こす。会えない仲良しなんてありえない。確かにそのとおりだ。なんだかまるで、そう、悪質な出会い系サイトに引っかかるカモみたいじゃないか。ひとり苦笑いをして、コーヒーを啜る。

 俺は一体、何を見てきたのだろう。この半年は、現実だったのだろうか。

 ほっと白い息を吐いて自販機の横にしゃがみ、背を預ける。ポケットから携帯を取り出し、俺はジャン専用のメールフォルダを雑にスクロールした。

 ディスプレイの眩しさに目を細めて、コーヒーを飲んで、煙草をひとくち吸う。

 このやりとりは、本物だったのか。一体どこにそんな保証があるというのか。実は別人である可能性だって、ないとは言い切れないじゃないか。

 俺は考えることをやめ、ぼんやりした頭で指の動くまま、メールの返信ボタンを押した。


《起きてる?》


 すると、返事はすぐに返ってきた。


《起きてるよ。》


 もうすぐ朝の四時になる。双方がこんな時間に起きていて、このメールが通じた。ただそれだけで、俺は何かたまらなくなった。俺たちの間には、細くてまっすぐなパイプのようなものが通っている。しかし、そのパイプの先にいるジャンの姿はぼやけてよく見えない。俺は彼を、知らないのだ。メディアの中の彼の姿しか、知らないのだ。

 俺は酔っていた。疲れが酔いを酷くしているのだ。自覚はある。それに深酒の気もある。だからこんなにも、感傷的になっているに違いないのだ。

 いけない。そう思いながらも俺の指はジャンの名を探し、発信ボタンを押していた。

 一度目のコールで、ジャンが出た。

『どうしたの』

 ジャンは驚いていた。時間のせいだろうか声を潜めている。迷惑千万は百も承知だ。だが彼の声に怒りはない。

「いや、なんか、なんとなく」

 ぼそぼそと言う俺に、呆れるように、もうと言う。

『なんだよ、何かあった? もしかして、飲んでるの』

 時間にしろもつれるような声にしろ、そうとしか思えないのだろう。俺はそれに答えず訊ねた。

「何してんすか、こんな時間に」

『そっちこそ何してんだよ。僕はちょっと、本を読んでただけ』

「そっか」

 俺が黙ると、ジャンは笑って、どうしたんだよと言った。

「ねえ、ジャンはさ、真冬は想像できるけど、夏は薄着なんて、するの」

『なんだよ急に』

「だって、俺、私服なんか見たことないからさ。まさか、夏まであんな真っ赤なエナメルジャケットとか着ないだろ」

 こんどはジャンが黙った。突然気配が消えたように感じられた。公衆電話ボックスの中で受話器だけがぶら下がっている、そんなような絵が浮かんで、不安に駆られた。

「ねえジャン」

 確かめるように、呼びかける。

『なんだよ』

 それは心なしか、淋しそうな声に聞こえた。

 ジャンはまだそこにいた。確かにそこにいた。何かがこみ上げて、苦しい。手を伸ばしたくなる衝動。電話を鳴らせば、こんなにも簡単に繋がれるのに。

「会いてえ……」

 俺はぽつりと、口にした。

『え?』

 絞り出したような声に、自分でも辛くなった。携帯を持つ手に力が入る。

「会いたいんだよ。ジャン」

 一度口にしてしまえば止めることができなかった。絶対に、不可能だと思っていたもの。言うことさえ失礼になるだろうと思ったもの。そして拒まれることが怖くて、とてもじゃないが言えなかったこと。ずっと、願っていたこと。

『僕と君は、会えないよ』

 囁くような声で、ジャンが言った。わかっていた。わかっていたのにそのひとことが俺の感情を酷く揺さぶった。

「そんなのわかってる。わかってるけど、俺はまだわからない。あんたが本当にジャンなのか、俺は本当にジャンと話しているのか。ジャンが本当に実在しているのかも!」

『コウジ』

「俺はジャンが好きだけど、更新マシンじゃない。でもわかってるよ、それだけでも十分幸せだってことくらい! でも俺は――」

『コウジ』

 まくし立てる俺の声を、幾分強い声でジャンが遮った。

『僕は一度だって、君を更新マシンなんて思ったことなんてない』

 息を呑んだ。彼を傷つけ、そして怒らせたと思った。ジャンは深いため息をついた。その間が俺には、途方もなく長い時間に感じられた。これで終わったかもしれない。そういう悲劇の余韻に思えた。

『僕とは、会えない。ジャンはもう、いないんだ』

 静かな声が遠くに、しかしはっきりと耳に届いた。俺は俯いて、明確な夢の終わりを全身で受け止めていた。

『でも――』

 ジャンはそこで言い淀んだ。そして何か意を決するかのように、小さく短く、息を吐いた。

『俺には、会えるよ』

 俺は顔を上げ、え、と声を出した。

「どういう……」

 呟くと、固い声が言った。

『吉岡雅人となら、会えるってことだよ』

 何が何だか、さっぱりわからなくなった。長くなった煙草の灰が、小さな音を立て落ちた。

 黙ってしまった俺に、ジャンが続けた。

『君に覚悟があるのなら、こんどのLSDのライヴで会おう。ただ、これだけはわかっていてほしい。ジャンはもういない』

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