第8話(1/2)

 現実は美容院に行く暇さえなかった。成人式と新年会のシーズンに入ってしまったからだ。

 それもようやく一段落終える頃、俺は再びジャンのメールに返信もせず、更新だけを行なうようになっていた。

 ジャンは俺の仕事を知っている。だから催促も行わないし、メールの末尾にはいつも「忙しいのにごめんね」と添えられていた。そろそろ返信しなければ。別に彼と疎遠になりたいわけではないのだ。こういうところが我侭だとは思う。

 返信を行わない理由は、忙しいというよりもジャンを意識の中に入れたくないからだ。それでも彼からのメールが来るたびにあの胸の痛みが走るのだ。しかし交流しなければ進展は起こらない。俺は極力、彼との関係を深めることを避けていた。

 一体何を怯えているのだろう。その何かに気づくのにも怯えている。あれほどまで遠かった人が、近づく恐怖か。夢が現実になる前の恐怖みたいなものか。いや、本質は、本当は、違うところにある気がする――。

 はっとして止まっていた手を動かす。考えるなと何度自分に言い聞かせれば気が済むんだ。

「ねえ浩ちゃんさあ、最近ほんと、元気ないよ」

 レジ台に頬杖をつき、間近で俺の顔を見上げていたナナが眉を寄せている。

「べつになんでもないんだけどねえ」

 努めて落ち着いているがゆえの緩さを演じる。

「じゃあさ、みのる君呼んで、飲もうか!」

 手を叩いてそう言うナナは、本当に可愛かった。フレアスカートから細いももをのぞかせて、床を蹴るようにスニーカーの分厚い底を交互に見せている。簡単にまとめた団子頭のほつれ毛が照明で金髪のように透けていた。

 ちょっと下がった太めの眉も、大きな眸を縁取る長い睫毛も。胸だってそこそこ大きい。こんなに可愛い娘が側にいるのに、俺はなぜ男のことばかり考えているのだろう。なんだか悲しくなった。

「ナナ、ふたりで飲もっか」

 ナナはぱっと微笑んで、舌を出した。

「やだー。浩ちゃんのエッチー。三人がいいー」

「あっそう」

 あっさりとフラれてしまった。

 新年会の予約も減ってきた。そろそろ遊び始めても許される頃だろう。俺は久々にその日のうちに仕事をあがり、ナナの誘いに応じることにした。

 酒はみのるの店で調達してもらい、俺とみのるとで割り勘をする。この頃はもっぱら家で飲むことが多い。よその店で飲むとそこの仕事が気になって、会話が途切れがちになるからだ。

「浩ちゃん、ジャンと仲良しになれた?」

 ビールの缶を唇にあてて、ナナは首を横に倒した。俺はスルメを齧りながら頷いた。

「そりゃもう親密よ」

 他のファンに比べたら、夢のように。

「よかった、あたしが初詣でお願いしたの、神様が叶えてくれたね」

 ナナが嬉しそうに笑って、ビールを飲んだ。もう目頭に熱ささえ感じる。

「お前ってどうしてそんな可愛いんだ」

 たまらずナナの身体を横から抱きしめた。ナナはいやだと笑い、体重をかけられるままに傾いている。

「みのる君助けて、浩二くんがキモいよ」

 みのるはテレビを見ていた視線をこちらにやって、ため息を漏らした。

「はいはい、わかったわかった。ちょっとお疲れね、浩二くん」

 初詣での俺とナナの願いは、神様がきっと聞き入れてくれた。俺たちを限界まで近づかせてくれたに違いない。感謝こそすれ、何が不満だというのだ。

「もうジャンと会った?」

 ナナが何の罪もないような顔で俺を振り返った。ことばに詰まって、ナナを開放する。

「だって、さすがにそれは、ねえよ」

「何が? 仲良しって言えないじゃん、そんなんじゃ」

 俺は極力、動揺を隠す努力をした。

「いやいやいや、そこまで望んじゃだめなんだよ。贅沢すぎるだろ。だってこれまで、ファンレターだって送れなかった相手だぞ。そう簡単にはいかないんだよ」

「でもそのファンレター、ジャンがちゃんと持っててくれたんでしょ」

「まあ、な」

「ジャン、優しそうな人だったじゃん。声でわかるよ。だからきっと会ってくれるでしょ」

 俺も随分と無茶で図々しいことをやってきた。悲観はしない性質だし、今でもある程度のことは上手くやれる自信がある。それでも、それだけは不可能だろうと思えた。彼はプライベートを明かすことはしたくないのだろう。昔から写真集でもビデオでも何でも、オフの姿は一切見せなかった。彼は彼とファンの作り上げた、ジャンという美しい形を守ろうとしていたに違いない。それはきっと今も変わらない。だから頑なに、バンドを辞めてから今日まで、中途半端な露出はしないのだ。

「ジャンはな、きっちり線、引いてんだよ。さすがにそんなこと、ただのファン相手にするわけねえだろ」

 俺は誰に言うでもなく、言い聞かせるように呟いた。

「じゃあ電話はどうなるんだよう。あ、わかった。浩ちゃん、会うのが怖いんだ。イメージ壊れちゃいそうで」

「ちげえよ。あの人、元がかっこいいのがわかるから、会ったってショックは受けない。たぶんな」

 怖いのは、確かにある。ただそれは、そんなこととはまったく別のところにある気がする。それが何かはよくわからない。

「そっかあ。なんか変な感じだね。仲良しなのに、会えないなんて」

 トンと音を立てて、ことばが鋭く刺さる。ハードダーツでも投げられたような気分だ。俺は何も返せなくなった。

 電話を交わしても、それはただ声だけの情報だ。プロフィールだって、妻子のことだって、会って事実を確かめたわけではない。俺はまだジャンの何もかもを知らない。そう思うと、俺にはすべてを疑うことができた。

 いつも俺が電話をしているあのひとは、一体誰なのだ。

 ジャンと名乗るあのひとは、ジャンなのか。

 ジャンは、本当に、存在したのか。

 そう思った途端に、寒気がした。何をしても、どこに行ってもジャンに辿りつけない。あの存在の不明瞭さが蘇り、それが目の前に迫って俺は圧倒されかけた。

 焦りがせり上がる。やっとみつけたジャンへの糸は、本当はどこにも繋がってなどいないのではないか。再びその糸を掴みなおさなければならないと思う。そして、その先を確かめたい。それなのに、それをするのにも怖さがある。

「浩二、お前もう寝れば。ナナちゃんもこれ以上、浩二をいじめない」

 みのるの声に、ナナが、はーいと言った。

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