第7話(3/3)
『あ、コウジ、突然ごめん。仕事終わってた?』
声を聞くと、腹の痛みを強く押されたような気がした。
「あ、うん、終わってましたけど、どうしました」
『新しいライヴが入って、その更新をお願いしようと思って、……なんか、元気ないな』
俺はすぐには返事ができず、それを笑って誤魔化した。
「いやいや」
『体調悪いの、まだ』
「大丈夫っすよ。ちょっと眠いだけで」
『そうか。ならいいんだけど。眠いならまたこんどにしよう』
「いや! 大丈夫です」
咄嗟に引き止めた自分に内心舌打ちする。本当は声を聞くことさえ嫌なのに。いや。嘘だ。ジャンとの電話を、切りたくない。ちくしょう。俺はどこの乙女だ。
ライヴの日時と場所を口頭で伝えたあと、あとでメールに書くとジャンは言った。俺は頭の半分でそれを聞いていた。もう半分は、ずっと上の空だった。
なぜジャンはわざわざ俺に連絡をよこすのだろう。少し前までLSDと直接連絡を取ってほしいと言われることに怯えていたが、今はいっそ、そのほうが気が楽なのに。
「あの……」
俺は言い出してしまってから、しまったと思った。そんなことを言っても、何の得にもならないのに。しかしもう遅い。ジャンは、ん? と不思議そうな声を出した。俺は小さく、腹を括った。
「前から思ってたんですけど、なんで、直接連絡取れって言わないのかな、って」
『ああ――』
ジャンにはそれだけで伝わったようだ。
『デビューするとね、評価や戦略に気を取られて、絶対に迷走する時期があるんだよ。好きじゃないこともやらされる。だから、音楽だけに情熱を向けられる今のうちに、思う存分集中してほしくてね』
それはなんともいえない言い方だった。親が子を思うような、そういう優しさがにじみ出ている。
「でも、なんでそこまで。下積み時代なんて、なんでも自分たちでやるもんじゃないんすか」
別に責める気はなかった。ただ、素朴に疑問に思ったのだ。
『もちろん、売り込むことも自分たちでやって当然だけど、今は昔より大変だろ。ブログだの何だの時間泥棒だからね。僕はあの子たちにものすごい力と可能性を感じている。だから彼らが音楽だけに集中できるように、僕が少しだけ力になるって感じかな』
「ふうん、そうなんですね」
『元気ないね、本当に』
「いやいや、そんなことないですよ」
『もちろん、コウジは僕のために協力してくれているのに、あとは任せた、なんて出来ないしね』
バンドのためではなくジャンのためにやっていることは、案の定見ぬかれていたということだ。そして、少しでもジャンの薄情さを疑ったことのある自分が恥ずかしかった。たが俺は今日のメールを思い出して少し暗澹とした。
彼と俺は、所詮芸能人とそのファンだ。その壁は途方もなく分厚く高い。彼はエンターテイナーだ。サービス業の最もたるものだ。やはり恩義を感じてサービスしてくれていると考えるのが自然だろう。決してプライベートで関わろうと思っているわけではないのだ。みのるも散々言っていたではないか。期待するだけ悲しいことになると。
『それに、コウジから来るメール、嬉しかったしね』
だから……。そういうこと言うなよ。どうせリップサービスのくせに。そういじけて考えても、心が温まってゆくのがよくわかる。ふと、あのカメラに向かって長い睫毛でウィンクをするジャンが浮かんだ。すると突然、顔が熱くなった。
「もう、やめてくださいよマジで、困る、そういうの」
焦って声が小さくなる自分が、バカすぎて本当に困る。
『ははは、可愛い』
ちくしょう。まるで人を子どもみたいに扱いやがって。……子どもみたいに。再び俺は、落胆した。さすが子持ちですね、そう嫌味を言いそうになったのを、こらえた。
翌日は日曜だった。ジャンからのメールは来ない。妻子ある身なら、日曜日にそんな暇はないよな。そんなことを考えて、まるで不倫をする女のようだと嫌になった。
その代わりにいらないメールが届いた。あの主婦だ。もう三日連続になる。どうってことのないジャンの情報を送ってくる。それでも十分に個人情報で、俺にとっては知りたくもない話ばかりだ。何時ごろにジャンを見かけた、お子さんはポニーテールをしていた、いつも仲良く手を繋いでいる……。彼女は良かれという態度だが、ただのひけらかしで優越感を得たいだけだろう。俺の知らないジャンを知っているという腹立たしさ。それよりも、ジャンの個人情報を流出させるそのむき出しの非常識と、余計な感情を揺さぶってくることへの強い苛立ち。パパラッチ紛いのそれに嫌悪感をこらえて二日間無視をしたが、限界というものがある。一言、迷惑だから二度と送るなという旨のメールを送信すると、また面倒臭い長文の謝罪メールが届いて、俺はどっと疲れた。
ジャンからのメールは月曜に届いた。送信したつもりが送信できていなかったという、よくある言い訳だ。俺は電話で聞いた内容を覚えていたから、先に更新を済ませていた。
仕事から帰宅してそのメールを見た俺は、なんだか無性に腹がたって携帯をベッドに投げ捨てた。家庭を隠し通すための言い訳か。いや、俺が知らないと思っているのだから取り繕うことはないのか。そもそも彼が隠し通そうとしていると思うこと自体が俺の驕りだ。俺には何の力もありはしない。どうだっていい、馬鹿々々しい。いちいちそんなことを考える自分に呆れる。俺はこのところの浮き沈みの激しさに疲れていた。
両手で髪をかきあげて、肩で壁に寄りかかる。べたんと胸を壁につけて上向き、ポスターのジャンを見上げた。
綺麗な顔。鋭い顎。高い鼻。赤く塗られた本当は薄い唇。永遠に喋ることなどないと思っていたこの唇。今は「コウジ」と俺の名を呼ぶ。
芸能人相手に何やってんだ。
なまじ現実味を帯びて、目の前に降りてきたからって。
それに今の俺は、完全におかしい。熱狂的なファンの領域を超えている。そうというより、別の場所で、別の視点が知らぬ間に育っているような気がする。それが一体何なのか、掴めない。近づいてしまったゆえの執着なのだろうか。友人にだって独占欲が生じることもある。――独占欲? 何を考えているのだろう、俺は。
「なあ」
俺はポスターのジャンを見つめて、語りかけた。
「あんたにとって、俺はやっぱり、都合のいいファンなんだろうな。俺はただの、更新マシンだよな」
虚しくて呟いたのに、どこかで自分に言い聞かせていることに気づいていた。ジャンに都合のいいファンとして見られたくない。でも、都合のいいファンのままでいなければいけない気がする。
真っ向から対立し、向かい合う感情がせめぎ合う。俺は危ない橋の上にいる気がする。
くだらない。適当に働いて、女と遊んで、それでそこそこ、人生楽しかったじゃないか。最近ご無沙汰だ。そんなことはこれまでなかった。そろそろ可愛い女の子を捕まえにいかなければ。しっかりしろ。言い聞かせて身体を起こす。そろそろパーマも緩くなってきたし、根元の黒も目立ってきた。美容院にも行かなければならない。俺は忙しいのだ。
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