第7話(2/3)

 正月はさほど混まない。スタッフも少ない人数でまわせる。久しぶりの店内の大人しさに、眠気にばかり意識が向かってしまう。

「ちょっと六番」

 エプロンを外して便器の前に立つ。いつものように携帯を窓際に置くと、緑のライトが光っていた。

 手を洗ってメールの受信ボックスを開く。知らないメールアドレスだ。ジャンではなかったことに舌打ちをして、中身を見る。タイトルと本文の形式で、自分が管理するジャンのファンサイトのメールフォームから届いたものだとわかった。

 くどくどしい挨拶やファンサイトが作られたことの感動、Victimizeが好きだった頃を懐かしむ内容に、今のバンドへの愚痴。落ち着きのない文章が散り散りに書かれていて煩わしい。適当に読み進めていくと、どうやら送り主は主婦で、ジャンの家の近所に住んでいるらしかった。そして何気なく書かれた最後の一文に、俺の目の動きは停止した。


《日曜日にはよく、綺麗な奥さんと可愛いお子さんを連れて歩いていますよ!》


 は? 誰が?

 俺は頭の中で問いかけた。

 いや。問いかけなくともわかる。ジャン以外に誰がいる。俺はその場にしゃがみこんで額に手をあてた。

 どうしよう。何が。なんで。嘘だ。ジャンは子どもはいないと言った。俺が訊ねたとき、まさかとまで言っていたのだ。だが、あのときジャンは慌てていた。あれは何だったのだろう。嘘だったのか。しかし、彼が俺に嘘をつく必要があるのか。やはり、ファンには知られたくないこともあるのだろうか。家族に危険が及ぶから? 俺は信用されていないのか? いや、そんなことを危惧していたら、携帯番号など通知してくれるはずがない。ではこのメールは、一体何なんだ?

 ぐるぐると巡る、自問自答。

 待てよ。ちょっと待て。

 おかしい。

 憧れのギタリストが家庭を持つことに、そこまで抵抗があるのか。俺はなぜこんなにまで衝撃を受けている? これではまるで、好きなバンドマンが結婚して号泣する女ではないか。自分にだって可能性があると夢を見る、哀れな少女たちと一緒ではないか!

 俺は新たに衝撃を受けた。自分が怖くなった。まるで、あたかもジャンに恋愛感情を抱いているようではないか。そんなはずはない。いくらなんでも、そこまでじゃない。だがしかし、そうだ、そうだった。ギターキッズは、憧れのギタリストに対し、しばしば恋愛感情にも似た感情を抱くことがある。俺は熱狂的なファンだ。この感情は、ギタリストのファンとして正しいものなのだ。大丈夫。おかしなことじゃない。自分に言い聞かせて深い呼吸をし、幾度か頷いて、感情を飲み込む。違う違う。危なかった。まったく、未知なる世界の扉を開いてしまうところだった。

 それにしても、俺はしばらく、立ち上がることができなかった。


「店長、やっぱまずいですよね、あたしのまかない」

 ミコが悲しげな声で言う。慌てて頬杖をやめて、違う違うと手を振った。

「えー。遠慮しないでいいんですよ」

 唇をとがらせる彼女の肩を叩き、ユウタが慰める。

「店長のまかないには敵わないけど、でもミコさんのも美味しいっすよ」

「いや、そういうことじゃねえんだってば。うん、美味い美味い」

 そう言ってスプーンを頬張る。下手な演技とでも言いたげにユウタが笑った目で俺を見る。確かに俺の作る鰯の蒲焼のほうが、はるかに美味い。

「なら、また調子悪いんですか」

 ミコが俺の顔を覗きこむ。大丈夫だってと笑い、丼を抱えてかきこんだ。

 正月に暇を持て余した主婦のせいで、すっかり調子が狂ってしまった。自分でもあからさまだと思う。いつもは無駄口ばかりの俺が黙ってテーブルを拭く姿は異様だったのだろう。そのうち気を使ったのか、誰も話しかけてはこなくなった。

 帰宅しても食欲はなく、寝付けもしない。結局俺は、四六時中あのメールとジャンのことを考えていた。

 頭の下に片手を置いて、ベッドに寝そべる。壁紙の凹凸が3Dに見えてくるほど眺めて、寝返りをうった。

 たとえ男だとしても、バンドの熱狂的ファンというのはこうなのだろうか。これまでに経験がないし、そういった仲間も作らなかったからわからない。

 綺麗な奥さんか。どんな人なのだろう。ジャンが選ぶんじゃ、驚くほど美人なんだろうな。そうでなければ釣り合わない。そんなふたりから生まれた娘なんて、さぞ可愛いにきまっている。電話の向こうで聞こえた声も、可愛かったもんな。

 ぼんやりとポスターを眺めて、目を閉じる。

 一体どうしたのだろう。あれほど存在の希薄な人が人間らしい営みをしているだけで、こうまで肩透かしを食らったように消沈するものなのか。ジャンは俺だけの人形ではない。彼は生きて、呼吸し、この世に存在している。ステージを降りれば、ひとりの男なのだ。俺が勝手に憧れて、祀り上げていただけだ。

 嘘をつかれたからか? 近づいたと思っていたのに、実際は何も知らなかったからか? それとも、女がいたからなのか? わからない。

 悲しかった。事実俺は、悲しんでいた。そうでなければ、この痛みは何だというのだろう。一体この感情をどう処理すればいい。重くて重くて、どうしようもない。

「うお!」

 鳴り響いた着信音に、驚いて飛び起きる。

 瞬時に腹の奥が痛くなる。相手はよりによってジャンだった。

 俺は少し躊躇して、それから携帯を耳にあてた。

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