第7話(1/3)
名を呼ぶナナの声で目が覚めた。ぼんやりしているうちに数人の男が現れて、いきなり肩を担がれた。ナナの「四十度もある!」という悲鳴をおぼろげに覚えている。
電話の途中で意識を失ったらしい。忘れ物を取りに戻ったナナが倒れた俺を見つけて、びっくりして救急車を呼んでしまった。ジャンは俺の返事がなくなって一度電話を切ってかけ直してくれたそうだ。あまりに何度も電話が鳴るものだから、ナナが仕事の関係かと心配して出てしまった。事情を説明してくれたのはいいが、後にナナまで興奮して大変なことになった。俺は熱にうなされている間、ジャンの名を何度も口にしたという。我ながら恥ずかしい奴である。
翌日には熱が下がり、次の日には出勤した。マネージャーは、怒るどころか十分に人を雇えないせいだと謝り、従業員も誰も俺を責めなかった。だがさすがに気まずくて俺は猛省した。よりによって店長が、クリスマス当日に穴を空けるとは。
それにしても、上がりきらなかった熱が一気に上がって解毒したからだろうか、体調はすこぶる良好で快適になった。これまでは全身にトレーニング用のウエイトをつけていたのではないかと疑ったほどだ。
またほんの少しすれば成人式と新年会ラッシュが始まる。今なら余裕で切り抜けられる。そう驕るほど俺は元気で、みのるには、なんてわかりやすい奴だと呆れられた。
*
年が明けた。店は元旦だけ休みだ。俺たちは三人で初詣に出かけることにした。近所の小さな神社は思ったより人が少ない。皆大きな神社に行くのだろう。
顎までマフラーに埋めて、スタジャンのポケットに両手を入れる。珍しく関東でも雪が降ったせいで植木や細い参道の脇に薄く氷が残っていた。隣を歩くナナが、使い捨てのカイロを揉みながら両手に息を吹きかけている。
俺が財布の小銭をすべて賽銭箱に入れ終えると、垂れ下がる麻縄を掴んだナナがこちらを見上げた。
「ね、何お願いするの」
「んー。ジャンともっと近づけますようにって」
「それ、言っちゃダメなんじゃねえの」
みのるが笑った。
「口に出したほうが願いは叶うって言うだろ」
ナナが賽銭を入れて手を合わせた。
「じゃあアタシも浩ちゃんとジャンが仲良しになれるように、お願いするね」
「お前って本当に世界一の女だな」
「だって浩ちゃんのこと大好きだもん」
ナナはにかっと笑って、それから目を閉じて俯いた。
「ナーナー!」
あまりに可愛くて抱きしめた。ナナは目を閉じて祈ったまま、ふふふっと笑った。
「じゃ、俺は世界平和を願おう。浩二のことはどうでもいいし」
そう言ってみのるも賽銭を入れた。まったく、本当に可愛い親友たちだ。俺は宣言どおりジャンとのことを、そしてふたりの一年の健康も、一緒に願った。
参拝を終えてからそれぞれ実家に帰り、俺は久しぶりに両親と弟の顔を見た。にもかかわらず、新年の挨拶もそこそこに、誰もいない二階へ上がって携帯を手にする。
やはり俺はまるで恋する中学生のようだ。高鳴る胸を感じながら、発信音を聞き、今は使われていない自室に入る。
『もしもし』
静かな声が聞こえると、顔がにやけるのがわかった。高校生の頃から貼られたままのVictimizeのポスターを見上げる。
「あけまして、おめでとうございます」
俺は開口一番にそう言った。
『おめでとう』
ジャンは笑って返してくれた。まるでポスターの中の彼が、そう言ったようだった。
あれから三度目の電話だ。二度目は心配をかけないように全快してからこちらからかけた。ジャンはガチガチに緊張する俺に、そんなにあがらなくてもいいと笑い、そしてまた電話をかけることを許してくれた。
『普段は一人暮らしなんだっけ。実家に帰ってるの?』
どうやら彼は外に居るようだ。車の過ぎる音と、遠く人の声がまばらに聞こえる。
「そうです。家族みんな、俺がジャンのこと好きなの知ってるからビックリしますよ。言いませんけどね」
『そのほうがいいね。初詣は?』
「行ってきましたよ」
『ナナちゃんと?』
「ええ。ジャンは」
俺は少し緊張し、照れながらジャンと呼んだ。彼は本当に少しも気にしないのか、変わらぬ調子で、うん、と続けた。
『今終わったところ』
そのとき電話の向こうで、「パパー!」と叫ぶ少女の声が聞こえた。俺は驚いて、目を開いた。
「あれ……、娘、さん?」
『あ、違う違う! まさか』
「なんだ」
ジャンは心なしか慌てているように思えた。俺はホッとして呟き、頷いた。
「浩二、叔父さんたち来たわよ」
階下から母の声がする。ジャンが笑ったのがわかった。二階は静かで、母の声はよく通る。電話の向こうまで聞こえたのだろう。
『じゃあ、またね』
「ええ、また」
ジャンと俺はそう言って、電話を切った。
「――また、だって、また、だってよ!」
まさに天にも昇る心持ちだ。俺は叫んで飛び跳ねた。たぶん、動くとこういう感じ。そう思いながら携帯を胸に抱きしめ、一回転してみる。
「はああ、もう死んでもいいや」
およそ年の始めには似つかわしくない台詞を口にしながらポスターにへばりつき、こちらを睨むジャンににんまりと微笑みかける。クリスマスも、正月も、めでたい日の挨拶を、ジャンにできたという喜び。幸せすぎて怖くなるとはこのことだ。壁に背を預け、詰めていた息を吐き出す。
一息ついて、汗ばんだ手のひらをデニムで拭いて階段に向かう。ふと階段を下る途中、我に返って足を止めた。なぜ俺は、あの声がジャンの子でないことにホッとしたのだろう。別に子どもがいたって構わないはずなのに。でも、まあ、ギタリストでロックスターなら、あまり所帯じみてほしくないのかもしれない。家庭を作り平和に過ごす、そういうイメージはない。ファンってものはつくづく勝手だな。そう思いながら、再び階段を下った。
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