第6話(2/2)

「――も、もしもし」

 俺は恐る恐る声を出した。相手は、まだ黙っている。

「あの、もしもし」

 もう一度、繰り返した。

『もしもし……コウジ君?』

 柔らかな、若い男性の声が聞こえた。そして確実に、俺の名を呼んだ。俺の心臓は壊れそうだ。あと一歩で、ゲロが出る。

「そ、そうですけど、どちらさま……」

 必死にそう言うと、男はまた少しの間黙って、こう言った。

『よかった。ジャン、だけど』

 頭が真っ白になって、俺は呆然として顔をあげた。窓に見える冬の白い空が、強い光を目に突き刺した。眩暈がする。それから、だんだん、笑えてきた。それも緊張のせいで、頬がひきつっているのがわかる。

「ジャン、て、あの、ジャン、え? 何?」

 上手く喋れない俺に、男が少しだけ笑った。

『そう。ジャンだよ。驚いた?』

 俺は絶叫した。挙句、携帯を落とした。足がもつれてベッドに倒れた。壁のポスターのジャンと目があって悲鳴を上げた。

『コウジ君、コウジ君、もしもし』

 呆然としていると、小さく声が聞こえた。慌てて携帯を拾って立ち上がり、耳に押し付ける。

「すみません!」

『あ、いや大丈夫? すごい声出してたけど……』

「すみません俺今もう吐きそうです」

 力が抜けて、その場に座り込む。

『大丈夫、体調悪いの?』

「あの、いや、そうじゃなくて、いやそうだけど、でも違うでしょ、こんな状況で、そんなの、マジで、いや、ほんと、ジャンって、あの」

『突然ごめん。よかったよ、番号変わってなくて』

 話についてゆけず、俺はますます混乱した。

「ちょっと俺今よくわかってませんが」

 ジャンと名乗る男は落ち着いていた。俺の理性の失い方に、ただただ静かに笑うだけだった。

『ははは、ごめん。実はね、君、僕がバンドを抜けたあと、何度も手紙くれてただろ。事務所を片づけに行ったときに、スタッフが困っててね』

「え」

 心臓が竦み、そして雑巾のごとく絞られるのを感じた。

『たまたま僕がいたから、貰ったんだ』

 このままでは、負担がかかりすぎて死んでしまうのではないかと怖くなる。

「それじゃあ、帰ってこなくなった手紙は……」

 呆然と呟く俺に、ジャンは、そう、と続ける。

『僕が貰ったから、送り返されなかったんだね』

 優しい声に目の奥が痛くなる。俺は狼狽えた。泣くことなんて、滅多にないのだ。

 たしか手紙には、しつこく送ることで不審がられないように、住所以外にも携帯番号を書いていた。あの手紙はジャンの元に届いていた。そして彼は、今も、その手紙を持っているということだ。

『コウジ、泣いてるの』

 ジャンは少し笑って、からかうようにそう言った。俺は否定もできず、手の甲で頬を拭った。

「なんだよ……、俺がどんだけ、あんたのファンか、あんたが好きかわかってないから笑ってんだろ、俺がどんだけ、どんだけ今嬉しいかも、ぜんぜんわかってないから、なんだよ、チクショウ……!」

 熱すぎる何かがこみ上げてやるせない。俺は感情に任せて吐き出してしまい、息を吸った。何も考えず口にしたことばに痛いほどに実感する。自分がどれほど、彼のことが好きなのか。こんなふうに誰かへの好意を叫んだことなど、一度だってなかった。

『今、ほんとによくわかったよ。ありがとう』

 ジャンは困ったような声で、それでも驚くほどの優しい声で言った。

「今さらかよ……」

 俺は笑って、泣いた。子どものように流れる涙はしばらく止まらず、何も言えずにいる間、彼もただ黙って待っていてくれた。

 少しだけ脳に酸素が戻ってきたところで、俺はようやく彼に酷い口をきいたことに我に返り、額を押さえた。

「すみません、俺超テンパってる……」

 大丈夫だよと笑う声に、目を閉じる。ジャンの話し声は滅多に聞いたことがない。でも、この声の余韻は、あの、ステージでコーラスをしていたジャンの声だ。ありがとうとだけマイクに言う、あの声だ。

「ホンモノ、なんすね」

 不躾とわかりきっていて、呟いた。それからじんわりと、実感が込みあげて、深いため息を吐いた。

『本物だよ』

 背が震えた。この人に、どれだけ憧れてきたか。その人の、正真正銘の、ひとつだけの声。それは想像以上に穏やかだった。ステージで動きまわり、明るく雑誌のインタビューに答えている彼からすると、意外としか言いようがなかった。

『メールの返事もないし、更新もないから、心配になったんだよ。君に何かあったかと思って』

 胸が痛んだ。彼が俺の心配をしてくれているなど少しも想像していなかった。ジャンはそんな奴じゃない。そう思っていても、みのるが言った都合のいい更新マシンという扱いを、どこかで覚悟していたのだ。俺は彼を好きでいながら信じられなかった自分に、悲しくなった。

『色々と、本当にありがとうね。本当はもっと早く電話するべきだったのかもしれない。ちょっと甘え過ぎたなと思って、反省してる』

「そんなこと、ないですよ。俺は、ジャンと……いや、ジャンさんの手伝いをさせてもらえるのが、一番嬉しかったんですから」

 嘘だ。俺は途中でそれだけで飽きたらなくなっていた。それなのに、今こうして口に出したことばに罪悪感はなかった。これが本心であると、不思議なほどにそう思えた。

『ジャンでいいよ、気持ち悪いから。それに変だし。昔から、そう呼ばれるの好きじゃないんだ』

 ジャンが笑っている。というか、ジャンと電話をしている。この状況を実感して、また呆ける。それを繰り返す頭が、とにかくことばの歯切れを悪くする。

「でも、なんで急に、電話なんて」

『心配だったって言ったろ。それに、甘えてたこと謝りたかったし、何より、君と、話してみたかったから』

 衝撃がきた。それはあまりに重くて、心臓だけではなく全身に響き渡った。腹に拳を食らったような気分だ。

「やべえ……」

 俺は知らずに呟いていた。よくわからない。とにかく、今のは、反則だ。

『何が』

「今のは、ダメですよ。なんかもう、俺、やべえもん」

 ひとことで、言うなれば。

「なんかもう、メロメロっす」

 俺はそう言って、アホだ、と思った。しょうがない、とも思った。そして頭の中で叫んだ。メリークリスマス! サンタさん!

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