第5話(2/2)


「店長、少しは休んでください」

 ミコとユウタがしつこい。しかし彼らの顔に浮かぶ不安が徐々に真剣なものになってゆくのを見て、俺は彼らのために甘えることにした。

「ありがと。じゃあ少しだけ。何かあったら遠慮なく呼んでくれていいから」

 俺はそう言って手を上げ、狭い更衣室に入った。

 ソファに腰を下ろすと、疲れを実感して急激に眠くなった。髪を縛っているゴムを外して、ゆっくりと背中から倒れてゆく。

 連日昼過ぎから早朝まで通しで入っている。休みはほぼない。ナナもみのるも、しょうがないこととはいえ心配してくれている。奴らと遊べないのが、何より辛いところだ。

 顔の上に置いていた腕を外して、エプロンから携帯を出す。メールの着信を知らせる緑のライト。スリープを解除すると、そこにはジャンの名前があった。

 いつものように、少しだけ胸に違和感を覚える。驚くとも高鳴るとも言いがたい、何かよくわからない刺激だ。俺はどうしてか、小さく舌打ちをした。

 今もまだLSDのウェブサイトの更新を続けている。言い出したからにはやめられない。どんなに忙しくなろうともそれだけは続けていた。ただ、いじけた感情に多忙が手伝って、俺はすっかり返信を行わなくなっていた。別にジャンを恨んでいるわけではない。嫌いになったわけでもない。興味がなくなったわけでもない。その証拠にメールの送信元に彼の名があると、このよくわからない刺激が胸に訪れる。

 こうして今もこの刺激を感じることができる自分に安心する。ジャンの存在は、今でも確実に俺の気持ちにさざなみを起こすのだ。

 あれほど好きだったからこそ、手に入れると飽きてしまう自分の性質が怖かった。その性質が今はまだ出ていない。俺はそれがほんの少しだけ意外で、それでいて、心からほっとしていた。

 天井を眺め、ゆっくりと長く息を吐き出す。帰ったら風呂に入る前に、サイトを更新しなければ。そうでないと、今日も気づかぬうちに寝てしまう。

 なんだか頭も痛い。忘年会シーズンの本番はこれからだというのに、こんなところでくたばっているわけにはいかない。

 俺は少しの間じっとして、勢いよく身体を起こして立ち上がった。ふと壁際の小さなテーブルにグラスが置かれているのに気づく。水滴が流れて、小さな水たまりができている。中身はオレンジジュースだろう。脇にハートの形をしたピンク色の付箋がある。

《店長、お疲れ様です。無理しないでくださいね。わたしたちも、頑張ります!》

 手にしてみると、丸っこい字でそう書かれていた。二年も見ているからわかる。ミコの字だ。

 頭がぼんやりする。付箋を戻し、手首からゴムを引っ張り、髪を纏めて結ぶ。こんなもの、俺が休憩に入ったときはなかったはずだ。ドアの横にかけられた時計を見る。愕いて目を開いた。そろそろ三十分が経過しようとしている。そこで俺は、自分が少しの間、眠っていたことを知った。

 頭を掻いて、ハートの付箋を再び手に取る。

「なんだよ。可愛いな」

 呟いて、濡れたグラスの中身を一気に飲み干す。よしと声に出し、俺は両肩をまわして更衣室を出て行った。


「よ。お疲れ」

「おー。お疲れ」

 店の鍵を閉めて階段を上がると、煙草を咥えたみのるが立っていた。みのるの勤める酒屋は二十四時間営業だ。彼も朝まで働くことがある。このシーズンは互いに忙しい。

 差し出された煙草を咥えて、壁に寄りかかる。

「疲れてんなあ。お前今日、すげえ顔色悪かったって?」

「なんだよそれ。誰が言ってんだよ」

 確かに気の抜けた声を出してしまった。久しぶりに親友に会えたことで脱力したのだ。

「ミコちゃんも、みんな言ってたよ」

「どこで会ったんだよ」

「配達来たら、珍しくお前休憩入ってたからさ」

「あー、そう」

 俺が寝ている間にスタッフと話をしたのだろう。

「お前、ちょーカッコよかったらしいじゃん。新しく入った子とミコちゃん、ユウタまでキャピキャピしてたぞ」

「はぁ?」

 いつでもちょーカッコいいんですけど。普段ならそう言ってやるところだが、疲れて続かない。みのるはニヤついてこちらを見る。明らかに小馬鹿にした顔だ。

「なんだ、普段はちょーチャラいのに、忙しい今の時期に余裕で、しかも皿割っても怒らないで自分たちの心配が一番だって」

「あのクソガキども、一言多いんだよなあ」

 この仕事に使命感ややりがいは感じないが、繁忙期ともなればこうして絆が深まる。それは確かに、楽しいものだ。

「あの新人の子、前のバイト先でも皿割ったことがあんだと。でもクソ叱られたって。お前が最初に、怪我はないかって言ってくれたの、ホント嬉しかったみたいよ」

「そんなん褒められても困るわ。普通だろ」

 俺とみのるは歩き出し、駅前の駐輪場に向かった。早朝の空気は身を切るほど冷たく、煙草の煙の間にそれとは違う白い息が見えた。どこかの店の出した生ゴミの匂いとカラスの羽音が薄暗い空に浮き上がる。

「お前のそういうとこ、意外なんだろうなあ。よほどろくでなしに見えんだな」

「なんだとコラ。ま、そのお陰で、普通のことやっただけでイケメン度がアップしちゃうわけね。得だなあ」

「いいなお前のそういうポジティブさ」

 みのるが横目で見るのを無視して、俺はいつもより重く感じるバイクをのんびりと押した。

 部屋に着くと、俺はあまりの怠さにすぐにベッドに倒れ込んだ。外も部屋も寒いのに、冷えた布団が心地よくて瞼を閉じる。

「おい、着替えろよ」

 俺は唸るだけの返事をした。みのるは勝手に引き出しを開けて着替えている。明日は彼も遅番だ。そのまま泊まって共に出勤することにしたらしい。

「浩二、風邪引くぞ」

 何度呼びかけてもまともに応えないことに諦めて、みのるは下敷きになった掛け布団を引っ張って俺を転がした。

「もしかして、お前、熱あるだろ」

 そう言って俺の額に手をあてる。

「あー、こりゃすでに、だな」

 みのるの困った声を最後に聞いてから、俺は眠ってしまったようだ。そのあとのことをちっとも覚えていない。

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