第4話(1/3)
女相手にだってこんなに盛り上がったことはないんじゃないか。たぶん中学生の頃のクラスの女子を好きになったときくらいだろう。あの頃も実に楽しかった。体育祭に課外授業、修学旅行、ことあるごとに仲間同士で好きな子に接触させようと騒いでいた。ほら、行けよ。いいよ。行けよ。なんて、三年間でそんなやり取りを何度したことか。
まるで似たような浮かれ具合だ。恋愛とは違う。だけれども多くのギターキッズが憧れのギタリストを想うとき、そこには擬似恋愛級の激しい羨望と憧憬がある。だが明らかに違うのは、もっと神聖なもののように思えることだ。恋のように対等なものではない。そうだ、ちょっとした宗教に近い。もはや相手を崇めているのだから。
「きもいー」
カウンターに頬杖をついたナナが幾度となく呟く。
「ナナちゃん、妬かないの」
「浩ちゃんには妬いてるように見えるんだね」
「それ以外何があるんだよ」
できたばかりの大豆とこんにゃくの煮物を小鉢に入れてナナの前に置く。ナナはため息をつき、箸を手にした。俺以外はまだ誰も出勤していない。気分が良いのでいつもより早く出てきて仕込んでいたのだ。
「こんちはー」
みのるの声だ。黄色いケースを抱えてドアを潜って入ってきた。短く切られた襟足と前髪が汗で束になっている。
「もーみのる君、助けてよ、浩ちゃんキモいんだよー」
ナナが振り返って足をプラプラさせる。ナナや従業員から言わせると、俺は常にニヤついているように見えるらしい。
「おう、みのるも食ってくか」
俺は片手を上げてその手で手招いた。
「相変わらずか。マジ気持ち悪い」
みのるは目を細めていやな顔をし、ケースを置いた。
「結局どこにも保証なんかねえだろうが。ギターも帽子も、作ることくらいできんだし。期待するだけ悲しいことになるぞ」
「うーわ。お前って、淋しいやつだな」
「なんだその人を憐れむ目は。こっちがその顔してやりたいくらいなのに? それなのに? 俺がどうしてお前にそんな顔されるんだ、え?」
黒く汚れた軍手の手を叩き、眉を思い切り上げて心外を露骨に出される。
「まあ、聞け」
シンクに左手をつき、顎を上げてでかい声を出す。みのるは腕で額の汗を拭き、腰に手を当てて続きを促すように片眉を上げた。
「実はな。昨日、ジャンからメールが来て、添付ファイルがついてたんだ」
「はい、ジャンカッコ仮の人からね」
言い返す前に「続けて」と右手を差しだし冷静に言われて舌打ちをする。ナナが「え、マジ?」と叫んでスツールから立ち上がった。
俺は気を取り直して、わざとらしい咳払いをした。
「で。その添付ファイルには、何があったと思う」
「なんだよ」
「まさかの、まさかのMP3だよ、MP3だよ、バカヤロウ!」
俺は徐々に音量を増して叫び、両手を天高く突き上げた。
「え、それってつまり、音楽ファイル?」
少し目を丸くして首を付き出すみのるに何度も頷く。
「インディーズ時代のデモだよ。俺、持ってないって書いてただろ」
まだVictimizeが地元のライヴハウスに出始めたばかりの頃、自主制作のデモテープが作られた。それは限定三十本程度で、俺が好きになった頃にはどれほど探しても手に入らなかった。俺はサイトを作ったときにそのことを書き添えていたのだ。ジャンはそれを見たのだろう。動画の返事には、お礼のことばと、音楽ファイルが添付されていた。それこそが、あの喉から手が出るほど欲しかった、幻のデモテープの音源だったのだ。
信じられるだろうか? 俺はただのファンのひとりに過ぎない。しかもついこの間まで、ジャンなど存在しないとどこかで思っていたのにだ。ずっと欲しかったものを、まさかジャン本人からもらえるなんて。もはや別の次元を生きているような気がした。この世界は、つい数日前の俺がいた世界ではないのだ。
「浩ちゃん、メール見せて!」
エプロンから携帯を出し、興奮したナナに渡す。みのるも軍手を外しながらその手元を覗きこんだ。
《コウジ君
動画見たよ。まさか動画が来るなんて思わず、ビックリ。
楽しそうで、僕まで楽しくなったよ。
ナナちゃんとみのるくんにも、宜しくね。
お礼に、君が持っていないといっていたアレを送るよ。
またね。 ジャン》
「……だってー! やばーい!」
ナナがまるでジャンになりきって読み上げた。俺は勝ち誇った気分でみのるの顔を見た。
「それでその音源、聞いたのかよ」
「もちろん。間違いなくVictimizeだった。録音もよくないし、みんなすげえ若いのがわかんの。でも、あれは完全に、ジャンのギターだった」
耳の奥によみがえる。昨晩聞いたばかりなのに、もうずっと昔から聞いていたような音律だ。太すぎて割れるベースの音、おかずの多すぎるドラム。メランコリックで長いギターソロ。紛れもない、ジャンの泣きのギター。どれもがあからさまな、勢いを持て余したデビュー直前のバンドの青々しさ。その中に、完成される前のVictimizeが、確実ににおうのだ。
みのるが盛大にため息を吐き、ナナの背もたれから手を外した。それを腰にやり俺と向き合う。
「でも、そのデモテープだって他に持ってる奴もいるんだろ? それに大体……」
みのるはそこでことばを切り、少し息を吐いて笑った。
「まあ、いっか。色々言いたいことはあるけど、お前、びっくりするほど幸せそうだもんな」
まるでアメリカのコメディドラマを真似るように、両手を返して肩をすくめる。
「うん。浩二くんのこんな幸せそうな顔、見たことないよ」
ナナが少しだけ大人びた声で言った。頬杖をついてこちらを見上げるその微笑に、俺はなんだか気恥ずかしくなった。
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