第3話(1/2)

 ジャンがVictimizeに在籍した時間はわずか五年で、辞めたあの頃がおそらく二十三だったのだから、今は二十九になっているはずだ。その五年の間に、Victimizeは三枚のアルバムを出し、三本のビデオを出し、一度だけ写真集を出した。彼は方向性の違いと言ってバンドを離れ、それから一切の活動の情報がない。掲示板に書き込まれた噂では、何度かスタジオミュージシャンとしてどこかの録音に参加したことがあるという。しかしその真相はわからない。

 彼は基本的にライヴではコーラス以外滅多に口を開かず、雑誌でも多くを語らなかった。とくにプライベートに関してはことのほか謎だった。好きなものはと訊かれれば世界中の子猫ちゃんと言い、嫌いなものはと訊かれれば、僕を否定するもの総て、と答えていた。出身はロンドンと言い張り(フランス人名のくせに)、大きな屋敷に一人の男と二人の女の下僕がいる、という。主食は、薔薇と星くず。無論本名は明かさない。年齢は噂で聞いた憶測だ。

 ジャンのすべてが謎だった。すべてが作り物のギタリストだったのだ。それが楽しかった。ジャンの創りだした世界を共有し、あたかも事実であるように予定調和で振る舞う。それがファンは楽しかったのだ。

 彼がいなくなった今となっては、それが余計に彼の存在の真実味を希薄にしてしまう。なんとなく、俺はそれがジャンの目指した最終的なものだったのかもしれないとさえ思った。君たちの夢の中に生きた人。初めからジャンなど存在しないよ。そういう儚さ、虚しさを、自分の存在そのもので表現したのではないか。ジャンの創る歌は、そういった、どこか物淋しげなものが多かったから。

 あの掲示板での出来事は、俺にとって少しの夢の具現だった。ジャンが現実に存在することを感じられた、華やかな時間だったのだ。しかしそれも、どうせかりそめだった。夢はすぐに消えてしまった。

 サイトの更新は滞りはじめた。いかんせん追加してゆく情報に限りがあるのだ。ユウタは、しばらくしたらもう一度掲示板を置いてもいいかもしれないと言う。むしろそうしなければ、このサイトの存在意義の半分以上がなくなるような気がする。

 掲示板を撤去してから一週間。みのるからの電話が鳴った。

「Victimizeの望が、ブログでなんか書いてるよ。お前のサイトのことだと思う」

「え! なんて!」

 度肝を抜かれた。望は現役のVictimizeのギタリストで、ジャンの元相方だ。俺はすぐさまパソコンの電源を入れ、望のブログを探した。

 その記事はすぐに目に飛び込んできた。


《どこかの誰かが作ってくれたジャンのファンサイトに、ジャン本人の書き込みらしきものがあったらしい。それで問い合わせが来まくった。でも、それは公式とは無関係。あんまりいたずらしちゃ駄目だし、それを真に受けちゃ駄目だよ。》


「まっじっかよ!」

 俺が叫ぶと、うるせえよ、と遠い声がする。みのるは受話器から耳を離しているのだ。

 全身に汗がにじみ出るのがわかった。梅雨の湿気に蒸す部屋で、それはすぐに粒になり胸元を流れ落ちた。俺の作った掲示板のせいで、Victimizeに迷惑をかけてしまった。申し訳ないという気まずさと、めんどくせえという気持ちと、ついにここまできたかという密かな感動とがないまぜになる。しかしその直後に湧いてきたのは、悔しさだった。俺は前髪をかきあげたまま、停止した。

 悔しさが質量を増してゆく。ジャンではなかった。あの書き込みはやはり、ジャンではなかったのだ。明確な否定は、想像以上に俺を落胆させた。やはりジャンは、どんなに手を伸ばしても、夢の中のギタリストだった。

 でももう、それでいいのかもしれない。それこそが、ジャンなのだろうから。

 俺はみのるとの電話を終えて、ベッドに寄りかかった。

「ま、しゃあねえな。別に最初から期待なんかしてなかったんだし」

 そう口にすると、諦めることができるような気がした。そのくせ舌打ちが出た。落胆と入れ替わり、次に俺の感情に生まれたのは、不愉快だった。

 俺の無垢なハートを弄んだ、ジャンになりきった大馬鹿者。池の鯉にとっての餌どころか、針のある疑似餌じゃねえか。なかなか、ざっくりと刺してくれた。

 立ち上がってのびをする。窓の外の雨は激しかった。部屋に流れているオルタナティブロックと雨音が妙に遠いものに感じられる。急激に眠気が襲ってきた。夜勤明けなのだ。このまま寝るのは気持ちが悪い。俺は風呂に入るべく、Tシャツを脱いだ。


 ドライヤーのプラグをコンセントに差し込んで胡座をかき、ベッドに背を預ける。スイッチを入れようとしたところで携帯が鳴った。メールの着信だ。眠い。とっとと髪を乾かして寝たい。無視しようかと思ったが、どうせ乾かしている間は眠れない。ベッドの上に放り投げた携帯に手を伸ばし、レザーのストラップの端をたぐり寄せる。ドライヤーのスイッチを入れて雑に髪にあてながら、メールの受信ボックスを開いた。

 見慣れないアドレスだ。タイトルに、ごめんね、とある。迷惑メールだろうか。めんどくせえな。そう思って開いた。

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