第2話(2/2)
《ありがとう。ここを作った人、そしてみんな。元気です。》
血圧が上がるような気がした。身体が熱を帯びて、口からそれが出てきそうだ。鼓動が早くなる。
名前はない。だがまるで、まるで、これはジャン本人のような言い方じゃないか。
居場所を見つけたファンたちが通っているのだ。この書き込みは、まるで腹をすかした池の鯉にとっての餌だった。その一行に返信がずらりと並んでいる。そこは沸き立っていた。明らかに興奮していた。感嘆符と疑問符が頻出する文章の数々がそれを物語っている。
でも、まさかな。みのるの声がよみがえる。ビギナーズラックだ、調子に乗るなよ。……調子に乗るな。深呼吸をする。そんなうまいことが起こるかよ。
ブラウザの更新をすると新たな返信があった。こんなものはいたずらに決まっている、という内容だ。俺はため息を漏らした。盛り上がっている連中は楽しんでいるんだ。きっと誰もがどこかで冷静に、ありえない、と思いながら。それなのに、なぜそういうつまらないことを言うんだこのバカ。
俺は幾ばくか不機嫌になってきた。彼らの気持ちを代弁している気になっていたが、それは言うまでもなく、俺自身の落胆だった。
とまれ、掲示板の責任者としてこれは良くない方向に行くのではないかと危惧を抱いた。もう一度ブラウザを更新する。案の定そこには、そういうことを言うなという興奮した返信があった。どうしたものか。みのるに電話をし、相談するべきか。彼は彼の勤める酒屋のウェブサイトの問い合わせの返信も行なっている。俺よりも対応に長けているはずだ。着信履歴からみのるの名前を選ぶ。
しかし、そこまでする必要があるのか? 別に商売じゃない。ここはただのファンサイトで、自由に語り合う場だろう。
俺は、携帯をポケットに落とした。
そしてもう一度、便器の前に立った。
あからさまに緊張している。まだ少しドキドキしている。サイトの客はみんな大人だろう。そのうちほとぼりも冷める。今は少しばかりの期待を楽しめばいい。何より、俺がそうしたい。あの書き込みが、もし本人であるとしたら……。そう思って、いたいのだ。
午前四時をまわり、閉店の準備をする。平日だ。客はすでに帰った。今日はすんなり帰れる。アルバイトの子をほとんど帰し、残っているのは俺と例の音楽好きの新人君、ユウタだけになった。彼はキッチンでグラスを拭いている。レジ閉めを終え、俺もキッチンに入った。洗いたてのグラスにチェイサーグラスから水を注ぎ、溶けかかった氷ごと口に含む。ガリガリと氷を噛み砕きながら、携帯を取り出した。掲示板はどうなっているだろう。実のところ、そわそわして、仕事どころではなかった。
「やっべ」
アクセスして目を見開いた。吹き出しかけた口元を拭うと、横でグラスを拭いていたユウタが手元を覗きこんだ。
「どしたんすか」
掲示板の返信はとんでもなく伸びていて、その長さたるや普段の何倍ものスクロールが必要だった。明らかに異様だ。かいつまんで事情を話すと、ユウタは、うわあと苦い声を出して横目で俺を見た。
「だめですよ。今時BBSなんか置いてるとこないですし、トラブルのもとだし。もう閉めちゃったほうがいいですよ。ほら、炎上してる」
液晶を指差す彼は何か得意げだ。BBSってなんだよと思う。掲示板だそうだ。聞けば随分昔からネットに親しんでいるという。はっきりいって、俺は少し引いた。
「お前、オタクだろ」
根暗で陰湿、そういう固定観念がある。これまでそういう人種は周りにいなかった。
「いやあ、まあ、いいじゃないすか。別に。じゃあ、俺帰りますよ」
ユウタは少し冷めた顔をして立ち去ろうとした。だが彼は俺の固定観念の中にあるオタクの外見とは違う。ヘアスタイルも服装も、いわゆるイマドキだ。俺は少し反省をして、慌てた素振りをした。
「いやちょっと待ってよ、で、どうすりゃいい? 俺全然わかんねえからさ、お前詳しいなら教えてよ。頼むから」
携帯を差し出すと彼は気を取りなおしたのか、眉を上げて、ため息交じりにそうですねえと覗きこんだ。得意分野のある人間というのは、こうやって頼られるほうが喜ぶ。男ならなおのことだ。
自転車を押すユウタに合わせ、バイクを押す。コンビニに立ち寄り、お礼にジュースとパン、アイスを買ってやった。ユウタは自分の知識に対価が得られたことが嬉しかったのだろう。俺、明日からも頑張ります! と胸を張って、勢い良く自転車をこいでいった。
彼のアドバイスに従って、帰宅してすぐにサイトから掲示板を外した。もちろんサイトにはひとこと、詫びることばを書き添えて。
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