第5話 決闘
濃淡の混じる青い毛皮はふさふさとしている。つぶらで常に潤んでいる漆黒の瞳。口から覗く牙は小さい。とても温厚そうに見えるコボルト――それがザッシュだ。
だが、今は違う。ザッシュの漆黒の瞳は射殺さんばかりの硬質な意志を宿し、敵であるユウトを見据えている。小さな牙はかみ締められ、何時でも飛びかかれるように足に力を溜めている。
常ならふんわりとした尻尾は天に向かって屹立している。戦意は十分。殺意も上等。まさしく真剣だった。
皮の胸当てをつけ、背には身長よりも高い青色の石がアクセントになっている棍棒。
手に取り、ぶんぶんと頭上で旋回させている。
対峙するはとても大きなワシ鼻が特徴のゴブリン。
鍛え抜かれた身体はまるで鋼のよう。盛り上がった筋肉は片袖の服を着ているだけ。そんな力強い躍動を感じる肉体は力みは全くない。
敵であるザッシュを見る目には感情の色はなく、ただ静かに見つめている。武器はなく、身構えることもなく、ただ、そこに在る。
彼我の距離は数歩で詰められるほどの短さ。
場所はピクシー村の中心にある井戸の前。周囲には数々の魔物がおり、マスコットキャラ的存在のザッシュの勇姿を生温かくにこやかに見守っている。
観衆の中、この決闘を仕組んだ張本人である美少女(自称)であるユピーはとても楽しそうにしていた。
取り囲む観衆の中、一番前に座り、今から始まる戦闘に魂を躍らせる。何故なら、ユピーは祭りが大好きだ。男同士の殴り合いなど、祭り以外のナニモノでもない。
「僕はユピーちゃんが好きだ。決して君みたいな奴に渡さない」
ザッシュは頭上で振り回していた棍棒を振り下ろし、ユウトに対して突きつけて、宣言する。
「僕はユピーちゃんが好きだ。この身を捧げてもいいほどに」
チラリ、とザッシュはユピーを見る。ユピーはにこやかに微笑みながら自分の首を親指で掻っ切るジェスチャーをした。100万年早いのよ、犬の分際で。
ザッシュの屹立していたはずの尻尾はうなだれ、地面に堕ちる。それを見守っていたピクシーの女たちは笑いを堪えるのに必死だ。男たちは同情して涙を堪えている。
俯き、落ち込むザッシュの瞳からは何かが零れ落ちた。はらり。
だけど! 叫ぶ。
「僕は諦めない。諦めたらそこで僕の恋物語は終わってしまう。僕は、あの性格を含めてユピーちゃんが好きなんだ。だから、ユウト――でいいよね? 君にはこの場から退場してもらう。叩きのめして、惨めに地面に這い蹲ってもらう。そうしないと僕は先には進めない!」
「そうね。勝ったら膝枕をしてあげる」
ザッシュの表情は激変した。目は見開かれ、輝き、希望に満ち溢れている。
尻尾は折れんばかりに振られ、興奮して漏れる吐息は激しくなる。餌を差し出されて「まて」を命令されている犬そのもの。
「負けるわけにはいかないんだ!」
盛り上がるザッシュに対し、ユウトは何も変わらない。
人を馬鹿にするような意地悪に哂い、自分より背の高いザッシュを見下し、言った。
「戦う理由は膝枕か。下らない」
冷徹な声。
「なぜお前はそこまで低い志で戦える。上を目指さないのか? キスをしたくはないのか? おっぱいを揉むためとは言えないのか? 膝枕で本当に満足なのか?」
その時点でお前は負け犬なんだよ、とユウトは吐き捨てる。その言葉はとても重い。気持ちが十分に篭った蔑みだからだろうか。
ユピーからすれば異性関係に関してはどちらも同レベルにしか見えないが、そのことに関して追及するのは野暮というものだろう。
「剣を極めるその時まで、俺は女など求めはしないがな。修練の邪魔になる」
この会話。当人たちは至極真面目にしているのだが、取り囲んでいる人たちからすれば笑い話でしかない。何を言っているんだ? というくらいの内容だ。
ユピーに至っては突っ込みを入れたいけど、放って置いたらどこまで行くのかが知りたくて我慢している。
震えている。つっこみたい! でも! でも! もっと見たい!
「前口上はこの程度でいいだろう。俺はとても腹が減っている。とても、減っているんだ」
じろり、とユウトはザッシュを初めて睨んだ。
重圧。
観客すらも飲み込まんばかりの圧倒的な存在感。上位の者に殺意を持って見られている感覚。だが、これは別に特定の相手に放っているわけではない。ただ、抑え切れなかった“気”が漏れただけだ。
周囲にはグリフォンやガルムという戦闘に特化した魔獣がいる。先ほどまでのんびりと見ていたそいつらですら、怯え、身体を竦ませる。
村を囲む木に居座っていた鳥たちがざわめき、去っていく。空は何かから逃げるように飛び立つ鳥たちで埋め尽くされた。
動物たちも悲鳴とともに地を駆け、一国も早く危地から走り去っていく。
(なんて恐さ。これが本当に――ゴブリン?)
ユピーは腹に力を込めて、耐える。
本能に抗わなければならないほどのものだった。そうしなければここから飛び上がり、空に逃げそうだった。
ユピーはユウトが強いとは思っていた。けれども、ここまで圧倒的な存在感を放つほどとは思わなかった。
だって、そうでしょう? 先ほどまでただの初心な子供のようだったのだから。
「怯えないのか?」
ユウトは問う。
問われた者は敵であるザッシュ。
ん? と全く動じてないザッシュだ。ユウトから漏れ出す“気”を受けているにも関わらず、完全に平常心を保っている。
「何で怯える必要があるの?」
ユウトが好戦的に笑う。
笑みとは本来――“敵を威嚇するためのモノ”だ。正しい使い方。威嚇するだけの価値がある、とユウトはザッシュを認めた。
「乗り気ではなかったが、気が変わった。徹底的に躾けてやる」
だらりと下げられた腕を上げ、ユウトは始めて構えを取る。
右手を突き出し、左脇を締めて顔のすぐ横に左拳を置いている。足は手の真下。攻撃的な構え。
対するザッシュはより積極的な構え。今すぐ走り出しそうなほどに前屈み。
「お前を倒して、ユピーちゃんに膝枕をしてもらうんだッ!」
「人の恋路を邪魔するつもりはないが、お前は俺に負けてもらう」
叫び、ザッシュはユウトに向かって跳躍する。
棍棒に力を乗せるためにまるで弦のように上半身をしならせている。
ザッシュの速度はまさに“目には止まらない”速度。ユウトがかつて経験したことがない高次元のものだ。
ユピーにとっては見慣れた光景。
ザッシュは強い。いつもはあんなんだけど、強い。
ユピーのためにどれほどの敵を屠ってきたことか。ふふ、犬は忠実に働くからこそ可愛いのね。
「――オオオオオオォォォォ!!!」
確かな戦意を感じるザッシュの咆哮。
雄叫びとともに放たれた棍棒による突き。その速度は比喩が許されるならばまさに“雷光”。
しかし。
ゆらり、突き出していた右拳で軌道を逸らし、受け流す。
「単純すぎる」
放たれた突きはユウトには当たらず、“雷光”は空気を裂いただけ。
全身全霊の一撃を放ったザッシュは完全に無防備な状態。次の動作に移行するには時間がかかる。
それを見逃すユウトではなかった。
すぐ近くで勢いに流されたままのザッシュの腹に、たった一撃で木を粉砕してしまうゴブリンの中でも別格の怪力を持つユウトの左拳が食い込んだ。
「――ウグッ?!」
打撃。
ただの打撃。
それなのにザッシュの身体は空を舞った。
血反吐を口から撒き散らしながら、身の丈の数倍はある木々を見下ろせるほどまでの高さまで吹き飛ばされた。
歯を食い縛り、棍棒を握り締め、必死に耐えている。
ユピーにとっては初めて見る光景。
(ザッシュが最初の一撃を当てれないなんて――)
あんな攻撃は反則だ。勢いもつけずに、身体の捻りだけで生み出されたユウトによる攻撃。その一撃でザッシュは絶望的なダメージを負った。
馬鹿げてる、としか思えない。
(だけど、ザッシュはあのくらいじゃ倒れない)
ユピーは知っている。
ザッシュの強さはこの程度ではないことを。他の観客も知っている。
何故なら――ザッシュはこの村で一番強い【ビショップ】なのだから。ザッシュはまだ一度も使っていない。【祈り】を。
「お前には負けてもらう、と言ったぞ」
ユウトは呟き、右拳で地面を殴る。その衝撃でユウトは空高く飛んだ。
「――負けるわけにはいかないんだ」
ザッシュは全く諦めておらず、むしろ追いかけてきてくれたユウトには感謝すらしているような視線を向けている。
既に落下しはじめているザッシュとそれを追って駆け上がるユウト。
交錯するのまであと僅か。
ぎゅっ、とユピーは両掌を合わせて、目を大きく見開いて刮目して見た。
交わるのは一瞬。
その刹那、それは起こった。
「すごい」
思わず口から漏れるのは感嘆の吐息。
両者がぶつかったのだ。
その瞬間をユピーは眼に焼き付けた。
「喰らえッッ!」
繰り出されたのは右拳。
飛翔しながらの全ての勢いを乗せた――まさに必殺と言っていい打撃。
既に致命傷に近いダメージを受けているザッシュがそれを喰らえばもはや戦闘どころではないだろう。
空気を揺さぶる炸裂。
奏でたのはユウトの拳。それと、きっちりとユウトの拳を受け止めたザッシュの右手だ。
ザッシュは苦悶に顔を歪める。
が。
「――僕の身体に癒しの生命を 【ダークヒール】」
呟く。
ザッシュの手は暗鬱な光が包まれる。
「――ぐあぁぁぁぁぁッッ?!」
ユウトは受け止められた拳に激痛が走る。
そこから何もかもが吸い尽くされていくような不思議な感覚。
にやり、と牙を覗かせながらザッシュは笑っている。
「チィッ!」
握りとめられたままの拳を起点にユウトはザッシュの腹に足を当てて、跳躍。
理解不能の激痛を喰らったままではまずい、と判断し、遠のくことを選んだのだ。
ストン、とお互いに無事落下。その距離は戦闘が始まったときよりも、長い。
「何だってんだ。いったい……」
答えをユピーは知っている。
【ダークヒール】。相手に激痛を与えながら生命力を奪う【ビショップ】しか覚えられない魔法。
特徴はむちゃくちゃ痛いということ。
ユピーは喰らったとき痛みのあまり泣いたことがある。
それは置いておいて。
地面に降り立った瞬間、ユウトは激痛を感じた握り締められていた右拳を見た。
激痛を発した右手には異変が起こっていた。
腕が痩せ細っている。左上の半分ほどにだ。血色も悪くなり、まるで力を入れれない。ユウトの理解の外だ。
ユウトはザッシュのほうを見た。
疑問符に満ちた表情。
確かに会心の一撃を放ったはずなのに、その腹をユウトの拳で破壊したはずなのに、まったくの無傷。
ユウトはザッシュに打撃を与えたとき、確かに骨が折れる感触があった。そのはずなのに、ピンピンしている。
それを見て――
「ククク」
くぐもった笑い声。
気でも狂ったのかしら、とユピーは思う。ザッシュも同様に不思議そうにユウトを見ている。
それはユウトのことを理解できていない証。これまでのユウトは抜け殻だった。目的のない、哀れなゴブリンでしかなかった。
取り戻した。
「ク、ハハハハハ! 楽しくなってきやがった。こんなわけわかんねぇ場所で生を受けて、喋れる相手もほとんどおらず、孤独に過ごしてきた。することもなく、意味もわからず、ただただ鍛えてきたことが報われやがった!」
歓喜。
「いいぜ。お前、いいぜ。最高だ。犬なんて言って悪かった。志が低いなんて言って悪かった。大丈夫だ。お前は強い」
ユウトは言う。己を試せるという絶好の機会を与えてくれた敵であるザッシュに惜しみない賛美。
「だからさ」
ぞわり。総毛立つ。
先ほどまでの漏れ出す“気”などというものではない。
今度は指向性を持った――別のもの。
ユピーは恐怖した。“気”を向けられているのはザッシュであり、自分ではないのに、考えてしまったのだ。
殺されてしまう、と。
あぁ、なんということか。
ユピーは見落としていた。
ユウトはゴブリンだ。ゴブリンなら誰でも持っている――破壊衝動。それがユウトにないはずがない。先ほどまでの“気”に意志が混じる。それは“殺気”。
気でも狂ったのかしら、と先ほどユピーは考えた。それは正解だ。
ユウトの眼は悠然と語っている。殺したい、殺されたい、殺しあいたい。そんな退廃的な欲望に彩られている。
一匹の魔獣が凄絶な笑みを浮かべた。
「――ルオオォォォォォォ!」
ザッシュの雄叫び。
ここでユピーは気づく。
ザッシュも口角を吊り上げながら、笑っている。
毛を逆立てながら、尻尾を大きく揺らしている。喜んでいるのか。
舌なめずりをしながら、ユウトを見ている。
「――もっと戦ろうぜ」
さっきまでは怖かった。けど、楽しそうにしている二人を見て感化されたのか。
楽しくなってきた、とユピーは思った。
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