【小雪】「梨木神社」ー珈琲と柴犬、そして恋

【小雪】、「二十四節気」、二十番目の「節気」。新暦の十一月二十二日ころ。


 冷ゆるが故に雨も雪となりてくだるがゆへ也(暦便覧)

 木々の葉は落ち、冷え込みが厳しくなってくる頃。



 京都御所の東に「梨木神社」がある。


 境内の井戸の水は「染井の水」と呼ばれ、京都三名水の一つとされる。京都三名水(醒ヶ井・県井・染井)のうち、現存するのはここだけである。


 京都は地下水が豊富で、良質な「名水」スポットがあちらこちらにある。それが故だろうか、京都には美味い珈琲を出す店が多い。


 山崎 潤やまざきじゅんの店も、珈琲だけを出す店で、地元の常連客や口コミでやって来る観光客で一日中、客が絶えることはなかった。

 潤は、店の珈琲には「梨木神社」の「染井の水」を使うことにしている。


毎朝、丸太町の自宅から、京都御所の東を自転車で北上して「梨の木神社」でその日使うだろう量の「染井の水」を汲んで帰る。

 定休日の木曜日以外は、雨が降ろうが、風が吹こうが通い続けている。


 樋口瑞穂ひぐちみずほは、潤の店の常連客だ。

とは言っても一杯500円の珈琲を毎日飲みに行けるわけでもない。

大学の授業のない火曜日と土曜日の二日だけ、朝の開店直後から昼前まで、大学の授業の課題レポートを書いたり図書館で借りた本を持ち込んだりして、店の一番奥の一人がけの席で時を過ごすのが何よりの楽しみだった。


——あ、おはよう


 晩秋の十一月。土曜日のその日も瑞穂は潤の店が開くのを待っていたように一番乗りでやって来た。


——おはようございます


 潤は、瑞穂専用の大きめのマグカップに珈琲を注いで出してやる。瑞穂はその一杯で昼前まで粘るのだけど、潤は何も言わず見逃してくれている。それは瑞穂専用の一人がけの席のお陰でもあるのだけど、常連客である瑞穂への細やかなサービスだった。


 瑞穂は、潤のことについて知っているのは、この店のマスターであり、独り身で柴犬を飼っているということ以外は何も知らない。

 その柴犬の名前はといって、店の横の犬小屋で潤の仕事が終わるまで待っている。


 その日も、瑞穂の座る奥の席に、赤いマグカップに一杯の珈琲を注いで持って来てくれた。


——ありがとうございます

——ごゆっくり


 黒のパンツに白い糊の利いたシャツ。清々しいバリスタの香りを残してカウンターに消える潤の背中に、瑞穂は切ない視線を送る。


 実は——、瑞穂は潤に密かに心を寄せていた。店ではそれを気取られぬように二言、三言の言葉を交わすだけで、潤が珈琲を入れている姿を盗み見したり、時折客に見せる白い歯の笑顔を見逃さないで居るのが精一杯だったのだけど。


 潤の店には、土曜日と日曜日だけ可愛い女子大生の女の子がアルバイトでやって来る。けど、金曜日の夜に急に辞めたいといって、連絡して来たらしくて、混み合って来ると潤一人では手が回らなくなっていた。


 瑞穂は堪りかねてカウンターの中に入った。


——お手伝いさせてください

——お願いしていいかな……ちゃんとバイト代は出すから


 瑞穂はあくる日の日曜日も、開店から閉店まで店に入って、潤と一緒の時間を過ごした。


ずっと一緒に居れるなら、バイト代なんかいらない——。


日曜日の夜、最後の客を見送り行灯の燈を落とした後、瑞穂は心からそう思った。

 晩秋の京都の透き通った空気が瑞穂の頬を撫でて通り過ぎていく。霧のような薄い雲の向こうで月が青白く佇んでいた。


小さな犬小屋に繋がれたサスケが人恋しそうにつぶらな目で瑞穂を見上げている。瑞穂も犬が好きでサスケの頭をゴシゴシと撫でてやり、腕の中でしこたま抱いてやった。


——ワンコ、好きなんだね

——はい、もう……ぎゅーって、したくなっちゃいます。


 潤は、サスケが瑞穂の腕の中で抱かれて恍惚な目をしているのを見て


——こいつも、オトコなんだな……、可愛い女の子に抱かれてたら、じっとしやがって……


——(へ、いまなんて? 可愛い……って?、わたしのこと……デスカ?)


 瑞穂はサスケと同じようにウットリした目で、月を見上げた。


——瑞穂ちゃん、もし良ければ、これからも土曜と日曜だけ手伝ってくれないかな? 


瑞穂は、飛び跳ねたいくらい嬉しかったけど、サスケにぺろぺろと口を舐められてすぐに返事できないでいると


——あ、ごめん。彼氏とか、デートあったりするよね、土、日って……


 瑞穂は、即座にサスケを、ブンブン首を振って


——いえ、私、彼氏なんかいません! マスターのことをずっと……

——え?

——あ、いや……その……っ、なんでも、ない、、、デス。


ベリーショートな瑞穂のヘアでは真っ赤になった耳を隠せなくて、小さなパールのピアスが揺れる瑞穂の心みたくフルフルっと揺れていた。


潤は、サスケの頭を撫でて独りゴチる。


——サスケっ、言っとくゾ。このはオレがずーーっと好きだったなんだ。よこしまなこと考えるなよ、いいなッ! でないと、飯やんないからなッ!


サスケが、項垂うなだれてクンクンと泣く


(へいへい、わ・か・り・ま・し・た)——


そんな風にサスケが言ったのかどうかは知らないけど……


——きゃっほいッ!!


 瑞穂は月に手が届くほど——、ぴょこんと飛び跳ねた。



潤に頭を撫でナデされて大人しくなる瑞穂に、サスケは舌打ちして言ったかもしれない。




🐶——チッ 可愛いすぎるやん



【小雪】「梨木神社」ー珈琲と柴犬、そして恋   了


                    千葉 七星





 

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