【寒露】「錦市場」ー木胡椒は苦いけど

【寒露】、「二十四節気」、十七番目の「節気」で新暦の十月八日ころ。


    陰寒の気に合って、露むすび凝らんとすれば也(暦便覧)

   秋もいよいよ、本番で、冷たい露が結ぶ頃。菊の季節である。


「錦市場」は京都の台所——。


 京都を南北に走る「高倉通り」と「寺町通り」の間にある商店街で、京都独特の食材はほぼ此処で揃う。東西390m、商店の数は130軒を超える。

 京都は、地下水が豊富で、平安の昔、御所に新鮮な魚を納める商店がこの辺りに集まってきたのが始まり。


 この「錦市場」を挟んで西に「寺町通り」があるが、豊臣秀吉による京都改造で京都の仏閣がこの通り沿に集められたことから、その名前が付くが、「本能寺」も秀吉によって此処に移された。


 ........................


 加賀珠美かがたまみは、「錦市場」でを扱う店の一人娘で、短大を卒業してからは京都の服飾関係の会社に一度就職したが、父親が一年前に癌を患い入院し治療をしなければならなくなって、母親一人では店は立ち行かないので、止む得ず退職して店を手伝うようになっていた。


 珠美には大学時代から付き合っていた彼氏が居て、だが、いずれは結婚するんだろうな、と思っていた。


 珠美の相手は、山下一史やましたかずしで、「同志社大学」を卒業し、今は大阪に本社を置く商社に勤めている。

 珠美が会社勤めをしていた頃は、土曜、日曜のいずれかは大阪か京都で会えた。しかし、珠美が店を手伝うようになって、土、日のには休めず、少しずつすれ違いが広がっていった。


 そんな時、ふらっと一史がスーツ姿で店にやってきた。


 ——お店、終わるまで待ってるわ


 しばらく会ってなかったが一史が何かを伝えに来たというのはすぐに分かった。


 ——うん。八時には上がれると思う。そこのカフェで待ってて


 海外からの観光客が「錦市場」を訪れるようになって、通りから一歩右や左に入るとイタリア料理の店や小洒落たCafeが次々とオープンしていた。


 珠美は八時前になると、まだ客足が遠のくには時間があったが、母親に一史が来ているのだと言って店の奥で口紅だけ引いて小走りに一史の待つCafeに向かった。


 ——ごめん、待たせて

 ——かまへん、事情はわかってるし


 珠美はカフェオレをオーダーすると、じっと一史の口元に視線を置いて待った。


 ——あのなー……おれ、インド行くことになってん

 ——インド?


 商社勤めならいずれは海外勤務もあると、珠美は覚悟していた。でもそれは一史に付いていく——、という前提であった。今はそれはできない。


 ——そっか……


 珠美にはその一言しか言葉が見つからなかった。


 ——ほんでさー、珠美、一緒に来てくれへんか? インドに


 その言葉をずっと待っていた珠美には、二つ返事で応えられたはずだったけど、今は出来ない話だった。


 ——(………)

 ——って、一応言いに来た。無理なんはわかってるし……

 ——ごめん、一史……


 涙が堪えきれず零れ落ちた。ぼろぼろ、と止めどなく溢れ出た涙の理由は、悲しさというより悔しさ——、だったかもしれない。


 別れ際に、珠美が一史にかけることのできる言葉は少なかった


 ——体だけは気つけてな、 お願いやし……


 お願いだから、元気で帰ってきて、待ってるから——。そんな風に全部言えなかった。一史の海外赴任を支えるのは自分だったはずなのだから。


 ——待っててくれ、とは言えんのが辛いなー 何年かわからんし

 ——うん……。う……ん

 

 珠美は手の甲で何度も涙を拭って、小さく頷いて一史の背中を見送った。

待ってるから——、とかそんな厚かましいこと言えなかった。



 一史と別れて、三年が過ぎようとしていた。店に並ぶ野菜が京都に秋が来たことを教えている。


 一史が日本を立ってから、インドから何度か絵葉書が届いたけれど、珠美は返事を書かなかった。いや、書けなかった、と言うのが正直なところかもしれない。

 やがて、一史からの葉書も途切れた。それは、一史の中から自分が消えたことを意味する——、そう思って珠美も一史への想いを断ち切ろうとした。


 父親が、二年前に他界した時、その珠美の気持ちははっきりした。


 ——自分が、この店を守っていくしかない


 それからは、店に力を入れて働くようになった

「錦市場」の人々にも溶け込み「錦こまち」とか持て囃されて、穏やかな時間が過ぎていった。




——いま、なにが、おいしいのかな? 京野菜……



 珠美は背中に受けたその声に胸が踊った。一瞬耳を疑ったけれど、間違いない——、それは一史の声だった。

 振り返ると、そこに真っ黒に日焼けした一史が立って居た。三年前に比べると逞しい大人の男になっていた。



——お店、終わるまで待ってるわ



🍂———————————————



——これ、どんな風にして食べると美味しいんですか?


 観光客らしき女性が「木胡椒」を指差して訊いている


——炒めても炊いても、美味しいよッ! 麦酒ビールのアテにも最高やしッ!


珠美は店の奥で一史の接客ぶりにクスッっと笑った。


最近、「錦こまち」とは呼ばれなくなったのはちょっぴり寂しいけれど、その代わり珠美は市場の他の店主に言って廻った。



——の大好きな人、帰ってきてんでッ! 

       うちと一緒に店やるためにな、インドからな……



京都の台所、「錦市場」には、秋の旬のものが並び始めていた——。




【寒露】「錦市場」ー木胡椒は苦いけど  了


                  千葉 七星  


*「木胡椒きごしょ


別名葉とうがらしとも呼ばれている京野菜で、 硬そうな見た目とは裏腹に程よい歯ざわりで、みずみずしいとうがらしの香りに、辛みはなく、少し苦目の大人の味。炒めても、炊いても、ご飯やビールのアテになる。

 

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