🌻——これより夏——🍧
【立夏】「永観堂」ーもう一度戻れるなら
【立夏】、新緑薫る五月六日ころ。
「二十四節気」七番目の「節気」で、端午の節句の頃、旧暦では夏に入る。
京都市東山区にある「永観堂」は、秋の紅葉で有名だが、新緑の五月に青紅葉を愛でるのも隠れた一興である。
五月の爽やかな風が東山の峰々から吹き降りて来て、青紅葉を揺らし、訪れる人々の頬を涼やかに撫でて過ぎていく。
片山ミカは、黒いキャップを目深に被り、大きめのサングラスで目元を覆って、人目につかない様にして、京都に逃げてきた。
新幹線「新横浜駅」のホームから、東京方面から来た列車に、行き先もろくに見ず飛び乗った。手荷物は一泊の旅行ができるほどのボストンバック一つだけだった。
今朝、夫が仕事に出るのを見届けると、化粧もせず、ほんの少しの着替えと家にあるありったけの現金を持って家を飛び出してきた。
「新横浜駅」に着き、駅のトイレの鏡に自分を映すと、ミカは愕然とした。憔悴しきった顔に生気もなく、化粧せず彩のないカサついた肌は女としての何かを置き忘れてきたようで、慌ててファンデーションを濃いめに塗り彩薄い唇にルージュで紅色を乗せ、くっきりと眉も描いた。
何とか人前に出れるほどになったが今の自分の心の内が滲み出ている様で俯き加減で歩いて駅ビルの中の店で、キャップとサングラスを買い込み、やっと切符を買ったのだった。行き先は実家のある「新大阪」と駅員に告げて。
新幹線の車窓が真っ暗になって、「逢坂トンネル」に入ったことを知ると、ミカは網棚に乗せていた鞄を思い立ったように下ろした。
このまま実家に帰って、年老いた両親に家を出て来たことを咎められるのが嫌で、取り敢えず一呼吸置きたかったのかもしれない。
ミカは「京都駅」にふらりと、降りた。
京都駅の中央コンコースを出て、タクシーに乗ると、何とはなしに「南禅寺」と運転手に告げていた。それは「新横浜駅」のどこかに貼られていたJRの『京都に行こう!』という新幹線を使った小旅行のポスターに、「南禅寺」の塔頭が使われていたのを意識のどこかで覚えていたからだろう。
ゴールデンウィークを終えた五月の平日は、京都と言えども、人影は少なかった。「南禅寺」の裏のアーチ型の「水路閣」の下で、新緑の伊吹に触れると心が少し洗われて
———はぁ……ぁ
と、綺麗に浄化されていく胸の内から自然と命の声が漏れ出た。
夫の浮気とDVに耐えかねて、昨晩「離婚届」に判を押して欲しいと迫った。夫は悪びれることもなく一言吐いて、寝室に消えた。
———俺と別れてどうする?なんの取り柄もないくせに……
その言葉は、ミカの最後のタガを外すのに充分なものだった。
———(何の取り柄もない)
確かにそうかもしれないが、自分なりに夫には精一杯尽くして来たつもりだった。しかし、その一言はミカの人格を木っ端微塵に吹き飛ばし、人間否定とさえ思え、情けなくて涙が一晩中止まらなかった。
せっかく、洗われて綺麗になったものが、汚水の上に落ちてまた汚されていくようで、ミカは歩みを
昔の、と言ってもつい三年前のことだった。その男とは学生時代からの付き合いで達也という名前だったので「達ちゃん」とあの頃は呼んでいた。
彼は大学を卒業すると、写真家を目指しそこそこ有名なプロの写真家のスタジオにアシスタントとして入って、日々忙しく下っ端仕事をこなしていた。
そんな彼といずれは結婚すると親に告げると、猛烈な勢いで反対され、厳格な父親の一言で今の夫と結婚させられた。夫は、父親の知り合いの息子でメガバンクに勤めていて、将来の固さだけは「達ちゃん」とは比べ物にはならなかったのだ。
「達ちゃん」は笑って諦めて呉れた。
———そうだよな……、俺じゃミカを幸せにはできないよな……
「達ちゃん」のその時の悔しさと寂しさの入り混じった横顔は、今でも忘れていない。
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紅葉ではない、青紅葉が五月の風に揺れて爽やかな音を奏でている。
一本の樹齢も古い紅葉の木の下で、長い望遠レンズを装着した一眼レフのシャッターを途切れることなく切っている人影が、ミカの視界にぼーっと写った。
「永観堂」の青紅葉を東山の峰々をバックに写真を撮っているのだろう、一心不乱という言葉そのままに、右に左にカメラを振ってはシャッターを下ろしている。
カメラを構え躍動するその男から、今のミカには欠片もない、生きていることを謳歌して、青紅葉の緑のような生命の息吹を感じた。
———生きてるって……、こういうことなんだろうな
そんな風にミカは想い、羨ましさというより、悲しいほどの敗北感に包まれて目頭が熱くなり、その男の姿は焦点がボケ、滲んだ。
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男は、境内の入り口でこちらをじっと見つめている女の被写体に、レンズを合わせゆっくりとピントを合わせ絞っていく。
やがてその女の顔に
———ミカ……!?
ミカがそこに立っていた。
三年前、ミカの口から別れを切り出され、引き留めることも、拒むことも出来なかった自分の情けなさが鼻の奥にツンとした刺激と共に蘇ってきた。
彼女がお固い銀行マンと結婚して去っていったのを、一時は憎みもしたけれど、それ以上に自分はミカが大切な女だったことを、その後の三年で嫌というほど思い知らされて、それを断ち切る様に一心不乱で仕事に打ち込んだ。
何とか、プロの写真家として食べていけるようになった今でも、ミカが隣にいないことが辛く寂しくて、あの時手放してしまった自分を今でも時々責め立てていた。
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あの男が、こっちにカメラを向け構えている。
じっと動かないでいる。
遠目だけれど、男の肩が時折小刻みに動くのが見えた。
ミカは、ゆっくりと、その男に向かって歩き出した。
それは、道を間違えた旅人が、今まで来た道を戻って、きっとあそこで間違えたんだろと思える場所からもう一度歩みをやり直すために。
できれば——
願わくば——
もう一度、そこに戻って、
善良な案内
【立夏】「永観堂」ーもう一度戻れるなら 了
千葉七星
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