【春分】「伏見稲荷」ー女狐の情念
【春分】ともなると、めっきり春めいて京都でも桜が開き見る景色も彩りを増してくる。
京都伏見は古来よりその名水を使った酒造りで栄え、今現在も十九あまりの造酒屋の蔵元がある。街中を流れる「濠川」には十石船と呼ばれる小さな屋形船が運行されていて桜の時期には川沿いの桜を愛でながら優雅な時間を過ごすごすことができる。
秋川あゆみは、粋な柄の着物姿で十石船に腰掛け妖艶な笑みを向かいに座る広田圭吾に寄越し誘っている。あの時とは真逆だ。
あゆみは、若くして伏見の造り酒屋に嫁いだが、昨年旦那を失くし三十八歳という女盛りで後家となった女だった。
そのあゆみと、もう十年近くも「不倫」の逢瀬を重ねてきたのが、圭吾だった。圭吾は京都の大学で教鞭をとる教授で、東山に一人住まいを愉しむ変わり者だった。何度聞いても、圭吾は過去の恋愛話は口にせず、結婚しているのか否かも分からない。ただ、東山の住まいを見れば、どうやら
そんな圭吾とあゆみが、男と女の関係になったのは十年前の桜の時期に、十石船に乗り合わせた時からだった。あゆみは夫と一緒だったが、圭吾があゆみに寄越す甘美な視線はあっという間にあゆみの女芯を熱くしてしまうくらい女には危険なものだった。着物の裾から垣間見える白い踝からゆっくり舐めるように視線を絡ませ、奥襟には本当にあの舌で舐められてるのではないか、と思うほど熱い執拗な眼差しを置いてくるのだ。そうなればもう火照った耳は、その舌の甘美な誘惑に負け、舐め尽くされれたいと待っていた。
夫が急用が出来たと先に帰った後、その日のうちに何の疑いも躊躇もなく圭吾に抱かれてしまった。
老舗の造り酒屋の若女将として毎日気を張ってやってきたあゆみには、圭吾の手抜きのない愛撫は、結婚以来感じたことのない悦びを教え込まれ、恥ずかしくも出したことのない歓喜の声をあげてしまったのだ。
夫の儀礼的なセックスしか知らないあゆみには、それは危険な麻薬だった。
麻薬に一度犯された女の身体は、ただただ、圭吾に抱かれまたあの甘美な快感に浸りたいと願い、危険な遊びだと知りつつ圭吾の住む「東山」に出かけていくようになった。
そんな逢瀬が十年近く経った時、あゆみの旦那が癌で失くなり、独り身になったあゆみは、いよいよ圭吾との情事に身を焦がすようになった。あゆみの身体は女盛りを迎え、圭吾も何度抱いても飽かず、五十八歳という齢にして初めて女の身体に溺れていた。
——キミはどんどん、よくなるね……
圭吾はあゆみの中で果て息もまだ荒いのに、あゆみの耳元で囁くのだった。
——あゆみの身体は圭吾さんに開発されて、どんどん進化してるの。圭吾さんのセックスはどんどん、いやらしくなっていくよ
そう言って、まだ自分の中にある男根を妖艶な女狐はニヤリと締め上げた。
ーーーーーーーーーーーー
——あのね、この秋に私、再婚するの。うちの酒蔵潰すわけにはいかないのよ。あのヒトの親に泣いて頼まれたら、断れなかった
——もう、出ておいでよ、うちに来ればいいじゃないか
——だーめ。先生(あゆみは時々圭吾をそう呼ぶ)とはこれからもずっと、いけない、いやらしい関係で居たいの。それの方が燃えるし、先生の浮気を知らないで済むし
——そうなの?あゆみが、それでいいなら僕は構わないよ
圭吾はベッド脇で煙草に火を点けあゆみに背を向けた。
——拗ねた?
——別に
——私が他の男に抱かれるの、嫌っ?
圭吾は押し黙って煙草の紫煙を吐いている。
——ねぇーったらー どう?
——あゆみの身体は俺しか反応しなくなってんだよ、俺以外の男とは不感症ってわけだ。
——ふぅーん、すっごい自信ね。でもあゆみも女よ?先生に会えない時、我慢できなくなったら、新しい旦那にネダルかもよ?
圭吾は、少しばかり不機嫌になって
——“嫌だね、絶対。他の男になんか抱かれるな” これでいいのか?
あゆみの白く細い指が、圭吾の萎えたペニスに絡みついてくる。圭吾のそれのどこが敏感なのかも知り尽くしている。たちまち息を吹き返し、熱く逞しくなったものを口に含み愛しい男の分身を弄ぶ。
いくら圭吾でもその巧みな舌の術には
あゆみは、歓喜の絶叫を発し、腰を振った。
身体がふわふわして空を飛んでいるようだった。
あゆみの歓喜の「情念」は火弾となって際どい朱色の「千本鳥居」をくぐり抜け、どんどん頂上目指して飛んでいく。そこは女にしか分からない「情念」の行き着く場所。
対の雄狐が果てて、真っ逆さまに堕ちていくのを横目に全身を朱に染め深淵な「情念」の世界にしばし浸れるのは、女狐だけだった。
女狐は雄狐を化かし生きながらえる。
あゆみは、自分の身体の上で尽き果てた圭吾が愛しくてその背中に爪を立て抱きしめた。
【春分】「伏見稲荷」ー女狐の情念 了
千葉七星
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