【雨水】「鴨川」ーRuri from Shun

  二月の鴨川の水量は冬枯れで少ない。


【雨水】と言って、「二十四節気」二番目の節気は現在の二月十九日頃を指し、雪解け水が川に流れ出すと言うけれど、洛北ではまだしんしんと雪が降っている。

 

 「京阪四条駅」から、ダークグレーのコートにタータン柄のストールを巻いた女が出てきた。そのまま、四条大橋を西に向かって渡り、途中橋の欄干にもたれ掛かるようにして、冬の鴨川の流れを見ている。洛北の山は白いままで雪解けはまだ遠いんだなと、その女は思った。


 橋の横の階段から、鴨川の遊歩道に降り何組かのカップルが並んで座っているのを横目にゆっくり北に歩いた。

 この女の名前は宮下ルリ。小説家志望の大学院生で、大学が休みに入ったので思い立ったように京都にやって来た。


 ルリは、小説家になるのを志し就職もせず、アルバイトを掛け持ちしながら大学院に通っている。もうそろそろ親の仕送りはアテには出来ないと思っていた。

 高校の頃から、何度か純文学系の「公募小説コンテスト」に挑戦して来たものの、佳作が一番の結果だった。それゆえにお金を貰って小説を書けるという身分にはほど遠かった。


 遊歩道に、魚釣りをする人が使うような折り畳みできる椅子に座って、若い男が水彩画を描いているのを、ルリは興味深く後ろから覗き込んだ。そっと気配を感じられないように、息を止めるようにして。


 ふいに、その男が振り返って、ルリに視線を寄越したけれど、それ以上の頓着もなくまた向き直って黙々と筆を動かしはじめたので、「見てていいんだ」とルリは都合のいい解釈をして今度はもう二歩ほど男の背中に近寄って眺めた。


 男の描く水彩画の色使いは、殺風景な色しか必要のない冬の景色なのに、オレンジ色や黄色やピンク色まで重ねられていて、頬の冷たさを感じさせない温もりをくれる。そして鴨川に反射する陽の光がもう春が近来たんだと思わせるような穏やかさに満ちていて、それを見ているだけでちょっとマンネリ気味な自分の感性が再生されていく気がした。


 ルリはその優しい色使いのできるこの男の背中に自分でもびっくりするくらい唐突に声をかけてしまった。


——画家さん、ですか?


 男は、ピクリとして運ぶ筆を止めた。さっきよりは訝しげにその視線をルリに寄越した。

 ルリは少したじろいだけれど、すぐに男の目に優しい色が宿ったのを見て小首を傾げ微笑んだ。


——いやぁー、学生の時はそういうのもあったけど、今はもう趣味程度です


——あ、そうなんですか……、夢……、諦めたんですね

あぁ、ごめんなさい。余計なお節介ですよね、ホントごめんなさい!


ルリは言ってしまってから慌てて両手を男の前で振ってペコリペコリと頭を下げた。

 今日の自分は可笑しいくらい唐突でまっすぐなのを、気恥ずかしく思った。


——そうなんですよ。諦めたんです……、普通に働かなきゃ食えないだろ!?って自分をゴマカシたんです


 男がサラッと言った「ゴマカシた」という言葉がルリの胸に刺さった。

ルリもここの所ずっと自分をゴマカシてきた。書けないことを才能が無いとか、良い結果を得られないことを自分には運が無いとか言って、そうやって伏線引いとけば、夢を諦めた時の痛みを少しでも緩和できると小狡い計算をしていたのかもしれない。


——でも、描いてるんですよね?今もこうして……、描くのが好きだから止められないんでしょ?


 ルリは自分に言い聞かせるように男にテンション高く言葉をぶつけた。


——ええ、そうですよ。止めようと思っても出来ませんでした


 男の眼差しは静かな悟った目で何よりも強かった。ルリはその静かな目が熱く滾った自分へのコンプレックスの炎を消し止めてくれそうで、もう少しこの男と一緒に居たいと思った。


——アナタも今、夢を追いかけてるんですね?


 男はルリを包み込む優しい目で問いかけた。きっと昔自分が苦しんだ二者択一の選択を迫られて苦しんでるんだろうと思ったから。


——はい、小説家目指してます。けど……もう、やっぱ限界かな?って


——そうですか……、僕には何も言う権利も資格もないですけど、頑張って欲しいです、可能な限り。好きなことできて、好きなことで苦しんで、それで生活できる、生きていける、ってすっごいことですもん。出来るとこまで、頑張れるとこまででいいから、諦めないで証明して欲しいです、「夢は叶う」ことを。


 ルリは男の一言一句が重くてズシズシと胸に響いたけれど、それはネガティブなものじゃなく、マットに倒れ伏したボクサーに、立て!、立つんだ!と言ってるようで自分の小さい拳に満タンの力を呉れるものに聞こえた。


——あのぉー、この絵、売ってもらえませんか?

——え? 

——今度、大きな公募小説に挑戦します。もし、それで認められ、私の小説が本になったら、この絵を表紙に使いたいんです


——いやぁ、これは売れるもんじゃないです、とてもとても……ただ、もう少しで完成しますから、差し上げます、貴女へのエール代わりに。いや、そんな大したものでもないですけど……


——ほんとうですか? えっ、ほんとに? 


 男はルリの弾けるような笑顔が眩しくて、いつか自分が失くしてしまったものを見た気がした。


ーーーーーーーーーーーーー


 白い額縁に収まったその絵は、いつだって作家「加茂瑠璃子」に力をくれる。

鴨川の冬のせせらぎの下に”Ruri from Shun"とサインが入っている。ルリの宝物だ。


 遠くで、どこかの塔頭たっちゅうの鐘の音が聞こえる。

五月の日曜、昼下がり。

 熱い珈琲をゆっくり息をふきかけ飲みながら、窓の向こうの東山の峰々の青さに心が踊ると、散歩に出かけたくなった。



——Shun、さんぽ、いこっか


——うん,いいねー


 スケッチブックと2Bの鉛筆、それと文庫本一冊。

 それが二人の散歩アイテム。 



【雨水】「鴨川」ー(Ruri from Shun) 了

                    千葉七星








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