第4話 パーフェクト

 僕はピッチャー用のグローブを取りにベンチに走った。


「まだ投げられます。まだ投げられます」

 アイツが監督に懇願しているのが聞こえた。でも、アイツが限界なのは誰の目にも

明らかだった。それに監督は既にピッチャー交代を審判に告げている。

 僕がマウンドに向かう姿を見ながら、アイツは観念したようにベンチに腰を落とし

た。がっくりと項垂れている姿がいつもより小さく見える。


 プレートを踏んで投球練習を始めようとしたとき、タオルを目に押し当てている

アイツの姿が目に飛び込んだ。アイツが涙を流しているところを初めて見た。

 僕は自分がアイツを泣かせたような気になって、胸の辺りが冷たくなった。


「ピッチャー。早く投球練習をはじめたまえ」

 審判に促されて、僕はキャッチャーに向かって投球を始めた。

 一球二球とボールはあらぬ方向に飛んでいった。

 こんな責任重大なシーンでマウンドを任され、腕が縮み上がっている。

 それに、アイツの涙も重荷になっていた。規定の投球練習を終えて、

ストライクは一球しか入らなかった。


 僕の投球の様子を見て、相手のベンチが一挙に和やかになった。

 ブンブンと素振りをし、相手の三番バッターがにやけ顔で左の

バッターボックスに入る。

 相手ベンチから、黙っていてもフォアボールだぜ、と野次が飛ぶ。


 それに引き換え、こちらのナインはみんな青ざめていた。きっと料理される前の

七面鳥と同じ顔色に違いない。まだパーフェクト進行中で、ヒットはおろかエラーも

許されない。  

 そして、僕自身がマウンドから逃げ出したい気分になっている。

 フォアボール・デットボールでもパーフェクトが崩れてしまう。

 日が陰ったせいか、背中の辺りが妙に涼しい。


「ツーアウト・ツーアウト」

 キャッチャーのヤマちゃんが声を張り上げた。

 呼応して「ツーアウト・ツーアウト」の声がマウンドのまわりを一周する。

 審判のプレイの声がかかった。もう、やるしかないんだ。アイツのために。


 僕はありったけの力で第一球を投じた。外角低めに決まったが、判定は

ボールだった。

 二球目も内角いっぱいに決まったと思ったが、やはり判定はボール。

 くそっ。何でとってくれないんだよ。審判に対して腹がたって唇を噛んだ。

 ヤマちゃんが立ちあがって、リラックスしろとジェスチャーした。

 僕はそれに従ってマウンドで二三度肩を上下させた。

 気を取り直して投じた三球目は、一球目と同じところに決まって、今度は

ストライクの判定だった。

 バッターがボックスを外して又素振りをした。再びボックスに入ったときには、さっきの

にやけ顔は消えていた。

 次の投球で何とか平行カウントにしなくては。

 ヤマちゃんのサインも内角ストライクにストレートだった。僕はサインに頷いて、

四球目を投げた。   

 カキーン。

 痛烈な音が響いた。ライト方向に高々と打球が上がる。

 切れろ。切れろ。

 心の中で叫ぶ。

 打球はライトの頭上を越えて、ラインギリギリのところに落ちた。


 判定は?

 一塁の塁審がファールのジェスチャーをした。


「入ってるじゃないか」

 相手の監督が抗議したが聞き入れられなかった。

 助かった。これでツー・エンド・ツー。

 そこで一安心したのが不味かった。

 次の投球は明らかにボールと分かる球で、フルカウントになってしまった。

 六球目と七球目はキャッチャー後方のファールフライ。段々とタイミングが合って

きた気がする。

 さてどうしようか、ストライクを投げて討ち取る自信は全くなかった。

 さりとてボール球を振ってくれそうもないし。

 と、そのとき。ヤマちゃんが今まで見たことの無いサインをだした。ミットの下で

OKマークを出しているのだ。

 僕は直ぐにピンと来た。でも、あの球はまだ試合で投げたことがない。

 僕が首を横に振ると、ヤマちゃんはもう一度OKマークを出して、バンバンと

ミットを叩いてみせた。僕も、ここで投げなきゃいつ投げるんだと観念した。

 首を立てに振ると、僕もグローブの中でOKマークを作った。


 ぼくはモーションを起こすと、思い切りよく最後の球を投じた。

 もらった。とばかりにバッターがスイングを始める。

 けれど、ボールのスピードは今までとはほんの少しばかり違う。

 僕が投げたのはチェンジアップだったのだ。

 そして、その少しのタイミングのずれがバッターの体勢を崩した。

 ボテボテのゴロが一塁方向に転がり、ファーストがキャッチして、カバーに

入った僕にボールをトスした。

 アウトのコールで、野手全員が踊り上がって喜んだ。まるで優勝したような

騒ぎだ。


 審判団に促されて整列。その列の中に帽子を目深に被ったアイツの姿があった。

 相手チームへの挨拶、審判団への挨拶、エールの交換の間、アイツは俯いた

ままだった。

 ベンチ前で、選手同士がパーフェクト達成を称えあっているときも、それが

自分とは無関係なことのように、椅子に座ってじっとしていた。


 監督コーチから

「お前がやったパーフェクトじゃないか」

 と肩を叩かれたが、アイツは何も答えようともしない。


 僕にはアイツの気持ちが分かるような気がする。

 一人でパーフェクトを達成したかったんだ。アイツならそれが出来る筈だった。

 それなのに最後の一人になってマウンドを降りなくちゃならない悔しさ。そして

パーフェクト完成の瞬間を僕に横取りされてしまった口惜しさ。


 芝生の上に移動して、監督コーチが今の試合を振り返って解説する。

 アイツは一人だけ離れた場所にいた。体育座りした自分の膝に顔を押し当てて、

動こうともしなかった。アイツの周りだけ暗い空気が漂っているようだった。

 その暗さが全員に伝染し、まるで自分たちがパーフェクトを食らったような気分だ。


 その時になって、僕はグローブの中にボールが入っていることを思い出した。

 ゲームセットのプレイで、ファーストからトスされたボールを審判に返さずに隠し持ってきたのだ。


―そうだ、このボールを―

 監督たちの話が終って、短い自由時間が与えられた。

 ぼくはボールを持ってアイツに近づくと、直ぐ側に膝立ちした。

 アイツが僕に気がついて顔を上げる。

 僕は手に乗せたボールをアイツの前に差し出した。

 アイツはキョトンとした顔でしばらくボールを見ていたが、いきなり右手で

それを払いのけ、再び膝に顔を埋めた。ボールは芝生の上を点々と転がった。

 一瞬頭に血が昇った。

 だけど、僕でも同じことをしたかもしれない。そうと思うと、暫くそっとしておこうと考えた。

 僕は転がったボールを拾い上げ、自分のバッグの中にコッソリとしまいこんだ。


 第二試合はそれから一時間半後に始まった。

 アイツは具合が悪いからとの理由で先発メンバーから外れた。

 それどころか、アイツはベンチにすら入らずに、自分の母親と一緒に応援席の

椅子に腰掛けていた。黒いウィンドブレーカを腰に巻き、お腹を押さえて青い顔

でグラウンドの僕たちを見下ろしている。


「勝てば明日は準々決勝だぞ。アイツのためにも、この試合絶対に勝つぞ」

 監督がナインに発破をかけた。


―そうなんだ。アイツが又投げられるように頑張らなくちゃ―

 と僕も気合を入れた。

 …だけど、意気込みだけじゃどうにもならない時もある。

 僕が先発した第二試合は三回まで二対二の均衡した展開だったが、四回に僕が相手

打線に捕まった。

 ホームランを二本打たれて七対二の五点差になった。五年生の控えピッチャーに

マウンドを譲ってからも、詰まらないエラーが重なって、終ってみれば十三対四の

大敗だった。ゲームセットの声をベンチで聞いて、観客席を見上げるとアイツの姿は

見えなくなっていた。


 翌日の日曜日。

 準々決勝が無くなったので、ブレーブスはいつも通りの練習日となった。

 前日に気合が入りすぎたせいか、何となく気の抜けた練習だった。アイツは具合が

悪いという理由でその日の練習にも来なかった。試合で打球を受けたのが実は

すごい大怪我なのかと心配になった。


 月曜。アイツはいつもと変わらぬ様子で登校してきた。

 なんだ元気なんじゃないかと思った。

 僕はアイツに

「どこが具合悪いんだ」

 と聴いてみた。

「なんでもない」

 とアイツは答えた。僕は納得できなくて、

「何があったんだ」

と更に幾度も問いただした。

 そのしつこさに怒ったのか、アイツは顔を赤らめ

「うるさい」

 といって走り去った。


 それ以来、僕とアイツは何となくシックリいかなくなった。練習中も用事があれば

声をかけるが、それ以外ではお互いを敬遠するようになっていた。

 何故かと言われても上手く説明できないが、アイツにとっては記録を横取りされた

悔しさが、僕にとっては記録を横取りした負い目があったのだろう。

 そんな訳で僕は記念ボールを渡すタイミングをなくしてしまった。


 冬になった。一月はブレーブスの練習はお休みだ。

 二月から練習再開なのだが、来シーズンに備えて五年生がAチームの主力に

なるため、六年生は自由参加ということになる。とはいっても皆野球が好きだから、

六年も全員参加するのが常だった。

 ところがアイツだけは顔を見せなかった。授業にはちゃんと出席している

のだから、病気ということではないらしい。


 三月に六年生追い出し大会というのがある。

 この大会は公式戦というものではない。町内にあるチームから六年生だけ集まり、

混成チームを作って試合をするのだ。

 外野しかやった事がない選手がピッチャーを買って出たり、右打ちのバッターが

左打席に立ったりで、とんでもない珍プレーが続出して結構笑えた。

 アイツはその最後の大会にも参加しなかった。何か別の用事と重なったとの

ことだった。

 アイツの華麗なピッチングフォームが見られなくて僕も少し残念だった。


 卒業式があって僕の小学生生活は終った。中学生になることに何となく不安は

あったけど、ブレーブスの仲間たちも同じ中学校に進むんだと考えると、その

不安もやわらいだ。

 だから、春休みの間にアイツが私立の中学に進学すると聞いたときは、正直いってショックだった。

 アイツが冬の練習を休んだのも、追い出し大会を欠席したのも、進学準備のため

だったらしい。これでアイツに記念ボールを渡すチャンスが完全に無くなった。

 僕の胸にボール一個分の穴が開いた。

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