第3話 ピンチ

 僕は急いでグローブを取りにベンチに戻った。ところが、いつの間に戻ってきたの

か青い顔のアイツが監督と何か話をしていた。監督は腕組みをして困った顔をして

いたが、主審に誰が投げるのかと確認されると、アイツにマウンドの方を指差した。

 また、アイツが投げるんだ。僕は、何だか安心した。僕はそのままライトの守備位置に走っていった。

 けれど、外野からアイツの投球練習を見ていて、様子が変なのは直ぐに分かった。

 投球する時の左足の上げ方が十分でない。下半身が安定していない。

 こんなんで大丈夫なのかと心配になる。


 規定の投球練習が終って、相手の七番バッターを迎えた。

 初球はど真ん中のスローボール。

 相手が見逃してくれて助かった。


 何で絶好球を見送るんだよ。

 相手の監督が怒声を飛ばす。


 二球目三球目はキャッチャーも取れないような高い球だった。

 異状は誰の目にも明らかだった。四球目をファールにされた後、五球目にようやく

アイツらしい速球がコーナーに決まって三振をとった。


 八番バッターへの初球は又もど真ん中の棒球だった。これを相手が打ち損ねて

ファーストファールフライに討ち取った。

 パーフェクトまであとアウト四つになった。

 僕は心の中で自分の所に飛んできませんようにと祈った。きっと野手全員が同じ気持ちだろう。


 九番バッターに代打が出た。お腹の突き出た巨漢の左バッターだった。

 キャッチャーのヤマちゃんがライトバックの支持を出した。僕は二メートルばかり

後退した。監督がもっとバックしろと手で合図をした。僕は更に一歩後退した。

 一球目、二球目、三球目。全部外角に外れた。ストライクを取るのに苦労している。遠目から見てもフォームの乱れが良く分かる。フォアボールでパーフェクトが崩れる。嫌な考えが頭をよぎる。


「ヘーイ。バッター打てないよ」

 内野から声が上がる。

「バッチ来―い。バッチ来―い」

 僕も大声でそれに続いた。

 アイツも覚悟を決めたようで、四球目の投球モーションに入った。

 だが、ストライクを取りにいったその球は内角高めに甘く入った。

 カキンと澄んだ金属音が響く。

 ライナーの打球がファーストの頭を越え、僕の目の前でワンバウンドした。

 僕はその球をキャッチすると全力でファーストに送球した。


―頼む。間に合え―

 ファーストの捕球と、バッターランナーが一塁を駆け抜けるのが同時だった。

 一瞬の間が空いて、一塁塁審のアウトのコール。ライトゴロに打ち取ったのだ。

 パーフェクトは続いている。


「ナイス・ライト」

 ベンチに引き上げるナインから祝福された。

「谷田部君かっこいいー」

 ベンチの後ろに控える母親応援団からも黄色い声がとんだ。

 アイツも僕に向かって笑顔を送ってくれた。その笑顔を作るのさえ辛そうに見え

て、僕は却って心配になった。


 七回表。

 先頭バッターのアイツはバッターボックスの一番端に立って、三つのストライクを

黙って見送った。打順は一番に帰ったが、続く二人もあっという間に凡退した。


 七回裏。相手は一番バッターで三回めの打席。そろそろ目が慣れてきている筈だ。

 前の回、アイツは殆ど休めなかった。こっちに不利なことばかりが頭に浮かぶ。最

後の守備位置に向かいながら、あと三つアウトを取ることが、とてつもない難題のように思えてきた。


 パーフェクト、パーフェクト。

 母親応援団から声援が上がった。

―ちぇっ。余計なこと言ってるよ―

 と思った。


 その応援で相手の監督がパーフェクト進行中であることに気がついたようだ。

 次のバッターを呼び止めると何やら作戦を伝授した。

 先頭バッターは最初からバントの構えでバッターボックスに立った。

 どうやら、これでアイツを揺さぶる作戦らしい。


―なんて姑息な手を使うんだろう―

 そう思うと相手の監督に対して腹がたった。

 アイツはキャッチャーのサインに頷くと、大きく振りかぶって一投目を投じた。

 そして投球と同時にバント処理のためマウンドを駆け下りる。

 バッターはバットを引き判定はボール。

 二球目も再生ビデオを見るように同じシーンが繰り返され、カウントは

ツーボール。

 その後、三球目四球目とバントがファールになってくれた。

 これでツーエンドツー。

 しかし、投球の度にバント処理のためにマウンドを駆け下りるのだから、アイツに

とっては相当こたえているに違いない。普段弱いところを見せないアイツなのに、

肩で息をしているのが遠くからでもよく分かる。


 バッターはバントを諦めたのか、ヒッティングの構えでボックスに入りなおした。

 ユニフォームの袖で額の汗を拭って、アイツが五球目をバッターに投じた。

 その投球をバッターはスリーバントした。三塁線に絶妙のゴロが転がった。

 マウンドを降りたアイツは、右手でボールを掴むと振り向きざまにファーストに

矢のような球を送った。間一発のタイミング。塁審がアウトのコールをした。

 アイツはフィールディングも上手いのだ。これで相手もバント作戦を止すだろう。


 ワンアウト・ワンアウト。キャッチャーが内野に声をかけた。あとアウト二つ。

 二番バッターが青ざめた顔でバッターボックスに入ってきた。

 守備側が緊張しているのと同じように、攻撃側も緊張しているのだ。

 そのせいで萎縮しているのか、一球目はボール球を空振りした。

―何とかなりそうだ―

 と思った矢先に、二球目をレフト線ギリギリに痛烈な当たりのファールを打た

れた。あと五センチ内側だったらヒットだった。僕は額の冷や汗を拭った。アイツもマウンドで同じことをしている。


 三球目。金属音が響くのと、打球の直撃を受けてアイツがマウンドで崩れ落ちるの

が同時だった。

 アイツは四つんばいで打球を拾い、膝をついた体制でファーストに送球し、その場

にへたり込んだ。塁審のアウトのコールがアイツの耳に届いたろうか。

 監督がタイムを要求してマウンドに駆け寄る。アイツはとんび座りでへたり込んだままだ。

 打球を受けたのは胸か腹なのか。胸の前で腕を組んだまま身じろぎもしない。

 監督が審判に何かを告げた。それから僕の方を向き、ピッチングのジェスチャーを

してから手招きをした。投手交代だ。

 それまで動かなかったアイツが顔を上げて監督に何か言った。監督は首を横に

振ると、コーチと一緒にアイツを抱きかかえ、自軍のベンチまで運んでいった。

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