名前
タクシーに揺られること一時間。目的の場所であるショッピングモール前に着いた。
「お客さん、着きましたよ」
「あ、ありがとうございます」
剛司は憧の手を握ったまま一緒に外に出る。
「ちょっと待っててね」
憧の手を離した剛司はポケットから財布を取りだして、タクシーの運転手にお金を支払う。
「ちょうどいただきますね」
「ありがとうございました」
剛司はお礼を言ってから、タクシーから身体を離す。タクシーはドアが閉まるのを待って、そのまま来た道を戻っていった。
「それじゃ、行こう……あれ?」
振り向いた剛司は憧がいないことに気づく。辺りを見渡すと、人々が行き交うショッピングモールの入口付近に憧を見つけた。剛司はほっと安堵して憧の元へと駆け寄る。
「一人で危ないよ」
「そうですね……でも、人がこんなにたくさんいます」
人の多さに憧は目を輝かせていた。
「怖くないの?」
「あっ……」
憧は剛司の言葉を聞いた瞬間、剛司の手をぎゅっと握ってきた。憧の手はとても温かい。人の多さに驚いて、怖さを忘れていたのかもしれない。
「それじゃ、行こうか」
「はい」
剛司と憧は手を繋ぎながら一緒に歩き出した。
ショッピングモールの入口には案内板があったので、そこで二人は立ち止まる。今日来ているショッピングモールは三階建ての構造だった。一階から三階まで有名ブランドの洋服店が軒を連ね、時折雑貨店や本屋が間に店を構えている。一階の奥の方はフードコートになっていて、三階の奥側は映画館が併設されているのか、予告ポスターが周囲に貼られていた。
「何か見たいお店ってあるかな?」
「いえ……梔子さんにお任せします」
「そ、そっか。とりあえず館内を歩こう」
「はい」
剛司の真横に憧がぴったりと身体を寄せながら歩いて行く。歩くたびに憧の髪が揺れ、剛司の鼻にフローラルな香りが入ってくる。女性特有の良い匂いに、剛司はとても心地よい気分に満たされた。
暫く歩いてみるも、お互いに入りたいお店がなく、ウィンドウショッピングをひたすら続けていた。二人の間には特に会話もなく、ただひたすら人混みで溢れる館内を歩くだけ。剛司の思い描いていたプランとはかけ離れた展開になっていた。
そんな状況の中、憧の反応だけはしっかりと読み取ることができた。剛司達の横を後ろから駆け抜けていく子供に驚いた憧が、その都度ぎゅっと手を握ってきたから。
やはり突然のことに対して憧は驚いているんだと剛司は気づいた。どうにか人混みに慣れて欲しいなと思いつつも、剛司はその都度憧の手を握り返してあげることしかできなかった。
「ちょっと休憩しようか」
「はい」
館内を歩き続けて、まだ一〇分しか経過していなかった。しかし無言のまま歩き続けるのは、剛司も限界だった。
二人は近くの空いているベンチに腰を下ろす。
「とりあえず、どんな感じかな?」
「人が……凄く多くてびっくりしています」
「そ、そうだよね。怖いとかある?」
「いえ……思っていたよりも、優しい人が多いのかなって」
「優しい人?」
「はい。無理やり話しかけてくる、危ない人がいないので」
「知らない人にいきなり話しかけようとする人は、ほとんどいないよ」
「そうなんですね。私達と同じなんですね」
憧は目の前を行き交う人達を興味深く観察していた。いろんな人を見るたびに、憧の感情が手を伝わって剛司に入ってくる。剛司にとってこの感覚は今まで経験したことがなかった。
そもそも剛司自身、コミュニケーションが得意ではない。それは今までの自分が、必要最低限の人達としか付き合ってこなかったせいもある。近くに朋や光、亮という存在がいたからこそ剛司はずっと安心感を抱いていた。皆の寛容さに甘えていた部分があった。
だから今、こんなにも憧との会話に苦しむことになっている。本当は楽しいはずなのに、憧にもっと楽しんでもらいたいのに。もっと楽しく人間の良さを伝えたいのに。ぎこちない会話しかできない剛司は、デートの難しさを実感した。
剛司は隣の憧に視線を移す。依然として目の前の喧騒に耳を傾けながら、行き交う人を憧は眺め続けている。その姿は、本当に無邪気で何にでも興味を持つ子供のようだった。
「こら、
突然一人の男の子が剛司達の目の前を駆けて行った。その後をお母さんと思われる女性が追いかけていく。先程呼んだのはおそらく男の子の下の名前だ。
憧は目の前の光景に目を丸くしていた。そして微笑ましい表情を見せた。
剛司はその光景を見てふと思いつくことがあった。これなら今のぎこちない雰囲気を払拭することができるかもしれないと。
「どうかしました?」
前方を向いていたはずの憧がいつの間にか、剛司を不思議そうに眺めていた。
「そう言えば、
「本名ですよ。でも、私はあまり好きじゃないです」
「どうして? 良い名前だと思うけどな」
「今は……好きになれないです」
憧は剛司の手を強く握ってきた。少し怒っているのかもしれない。驚いたときよりも、心なしか強く握られている気がする。
「でも、両親からもらった大切な名前なんだから」
「……そうですね」
憧は剛司に微笑むと、握っていた手の力を弱めてくれた。
憧は自分の名前が嫌いなのかもしれない。だけど剛司が思いついたことは、まさにその名前が関係していた。生まれた時から一番呼ばれている、自分にとって親しみのある言葉なのだから。嫌いなわけがないと、剛司は思っていたことを提案した。
「ねえ、今から憧って呼んでもいいかな?」
「えっ……」
剛司の提案に、憧は驚きを隠せずにいる。そんな憧に自分の考えを伝える為に、剛司は憧の方に身体を向けた。
「嫌……かな?」
剛司は憧から視線を逸らさなかった。それに耐えられなかった憧が、剛司から視線を逸らす。
「い、嫌じゃないですけど……」
憧が何か躊躇う要素があるのかもしれない。だけど剛司は名前で呼ぶことこそ、本当に心を開く要因になるのではないかと思った。先程の男の子と母親の関係のように。親密になるには名前で呼び合うことが、一番良いのではないかと。
「実はこうして異性とショッピングに行くのって、僕にとって初めてのことだったんだ」
憧が顔を上げる。剛司と目が合う。憧は剛司から視線を逸らさなかった。そのまま剛司が話を続ける。
「だから色々とぎこちなくなっちゃて。僕自身、今も緊張していて。しっかりとサポートできるかなって」
本当は言うべきことではないのに、剛司は止めることができなかった。弱音を憧に向かって吐いてしまう。
「……わかります」
「えっ?」
「梔子さんが、緊張しているって」
憧は握っている手を見ながら続けた。
「梔子さんの手、ずっと冷たいままなので」
相手の気持ちは手を握るだけでもわかるのかもしれない。ぎこちないと思っていた関係も、隠せていたと思っていた緊張も不安も。今は全部こうして手を繋ぐだけでわかってしまうし、伝わってしまう。
「ごめん。人に慣れようって言い出したのは僕なのに。今日、何も力になれていない」
「そ、そんなことないです。ずっと私に力をくれています」
憧は手に力を入れた。
「こうして梔子さんと手を繋いでいるので、今の私には恐怖がないんです」
憧は剛司のお蔭と言ってくれる。そんな憧の手は今もずっと温かかった。
手を通して憧の気持ちが伝わってくる。嘘ではないとはっきりとわかる。少しでも自分が力になれていることに、剛司は救われた気がした。
憧は笑顔のまま剛司を見ていた。
でも、救われるのが剛司では意味がない。今日は憧が主役。人に慣れてもらうことが目標なのだから。次につなげる一歩を作るために。憧の為に今の剛司ができること。
「あのさ、友達ってお互いのことを名前で呼び合うと僕は思うんだ」
今度は剛司から憧の手を握った。思いが伝わるように、今まで憧がくれた気持ちに応えるために。
「だから僕は憧って呼びたい。憧は僕のことを剛司って呼んでよ」
まずはここから始めようと剛司は思った。剛司は亮みたいに、いろんな人との関わりを積極的に作れるわけではない。それなら剛司自身ができるやり方で進めればと。たとえスタートが遅くても、最終目標に向かっていける道筋を描けるのなら、剛司は自分のやり方を貫こうと思った。
「私に、そんな権利あるでしょうか?」
「権利?」
「はい……だって私は……魔法使いです」
きゅっと唇を結んだ憧は、自らの種族の違いに苛んでいた。もしここが人間界ではなく魔法界ならば、少しはその気持ちも和らぐのかもしれない。
でも種族の違いなんて、剛司にとってどうでもよかった。
「関係ないよ」
「えっ?」
「たとえ魔法使いでも、人間との違いなんてどこにもない。こうして会話できるし、触れ合うことだってできる。それに魔法使いとか人間とか関係なく、僕は目の前の憧と友達になりたい。力になりたいんだ」
同じ変わりたいという気持ちを抱いている憧の姿に、剛司は心を動かされている。この気持ちは偽りではない。真剣に力になれたらと思っている。だからこそ、剛司は憧と友達になることを切に願う。
「……ありがとう、剛司……君」
憧の笑顔に剛司はほっと息を吐く。
剛司は憧からたくさんの気づきを与えてもらっている。どうしてこんなに憧と友達になりたかったのか、どうして自分が憧のことを下の名前で呼びたかったのか。
剛司はようやく自分の提案したことの本当の意味に気づいた。
そして、再度実感させられる。
まだ自分は変われていない。
今も自分はずっと逃げてばかりだと。
それは新しいことだけではなく、既に友達と思っている友人達に対しても、剛司は未だに逃げ続けていた。
剛司は亮や光を名前で呼んだことがなかった。唯一名前で呼んでいたのは、一番の親友だと思っている朋だけ。二人のことは未だに苗字で呼んでいる。
それに比べ、二人とも剛司のことを名前で呼んでくれる。
友達はお互いのことを名前で呼び合う。
自ら言った言葉が一番できていないのは自分だった。
どこかで二人の間に大きな壁を剛司は作っていた。
見えない恐怖から逃げていた。
歩み寄ってくれようとしている人を、自分で遠ざけていた行為に剛司は酷く辟易した。
憧のために動いたことは、自分ができていないこと。本来なら憧に決して言えることではない。今のままだと、自分は口だけの人間になってしまう。
だからこそ変わらないといけない。
人は失敗を繰り返して成長する。
自分の過ちに気づいたなら、それを認めて変わらないといけない。
剛司は変わろうと思った。
そして目の前にいる憧も変わりたいと強く願っている。
自分が変わることで、憧も変わることができるなら。
二人の思いが交差して、相乗効果を生むなら。
剛司は自分をもっと誇れるのかもしれない。
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