落ちた靴
「そろそろ降りるぞ」
「はい」
どれくらい空の旅を楽しんでいたのだろう。とても長い時間フライトを楽しんだ気がする。
飛んでみて思うことがあった。
どうして飛ぶ前は不安に駆られていたのだろう。
どうしてこんなに素晴らしい空の旅を怖がっていたのだろう。
鳥のように大空に翼を広げて飛んでみた結果、何かが変わった気がした。たぶんそれは本当に小さな、周囲の人が決して気づかないようなものかもしれない。だけど剛司にとってはとてつもなく大きな一歩だった。
素晴らしい世界は人を無にしてくれる。全ての穢れを落として新たな自分に生まれ変わらせてくれる。目の前に見える景色が、風に包まれている感覚が、そう教えてくれている。
テイクオフ前と比べ、少しだけ前進できた自分がいることに剛司はどこかほっとしていた。
「そういえば、君の名前は?」
「名前ですか」
「ああ。まだ聞いてなかったからな」
青羽はそう言うと、ブレークコードを引いてキャノピーを潰しにかかる。瞬間、目まぐるしい速度で機体が降下していく。地面までもう少しだ。
「梔子です。
「剛司君か。了解。空の旅は終わるけど、また体験しに来てくれよ」
「はい」
青羽は微笑むと旋回を繰り返しつつ、ランディングゾーンとなっている開けた広場に向けアプローチをはかる。
「いいか。テイクオフの時と同じように、地面に足がつく直前から走るんだ。そうすれば上手く着陸できるから」
「は、はい」
地上四〇〇メートルからのフライトが終わってしまう。そう思うだけで、剛司は寂しさを感じるようになっていた。
徐々に地面が近づいていく。すると青羽が剛司の横にくっつくようにして身を寄せてきた。いよいよ着陸態勢に入る。
「着陸するぞ」
その掛け声と共に剛司は両足を動かした。やけに左足が軽い気がする。
「く、靴……」
剛司は靴が脱げたことを今更思い出した。しかし、時すでに遅し。
サイドバイサイドによる着陸により青羽が最初に着陸し、それに続いて剛司も地面に足をつける。広場を数歩だけ走った剛司達は、やがて完全に停止した。キャノピーが完全に潰れ、地面にぺたんと倒れる。
「お疲れ、剛司君……ってその足」
「飛ぶ前に脱げちゃいました」
剛司の左足は土まみれになっていた。昨晩の雨のせいでぬかるんだ土が靴下に染み込み、悲惨な状態になっている。
「脱げちゃったか。まあ、よくあることだ」
「よくあるんですか!」
「まあな。よくあることだから、飛ぶ前に忠告……そういえば忘れてたな」
スマンと謝罪する青羽に対し、剛司は文句を言おうとは思えなかった。元はと言えば自分の責任だ。走るのはわかっていたことだし、靴紐をきつく結んでおくべきだった。
「剛司!」
先に飛び終えていた光が駆け寄ってきた。
「お疲れ。結構長い間飛んでたな」
「うん。凄かった。青羽さんが旋回とかいろいろとしてくれてさ。そういえば、ブルーサーマルって現象と出会ったんだけど」
「ブルーサーマルだと!」
二人の会話に入り込んできたのは、剛司の知らない人だった。
「ああ。この人はランディングゾーンで、自分達を待っててくれた
「どうも。足立です……ってそれどころじゃない。今、ブルーサーマルって言ったな?」
いきなり肩を掴まれた剛司は狼狽えた。無精ひげを生やしたおじさんの顔が接近してくる。
「い、言いましたけど……」
「あまりイジメないでくださいよ。足立さん」
剛司と足立の間に割って入った青羽は、今にも顔がくっつきそうな二人を引き離す。
「まさか、青羽。タンデムのくせにサーマルを捕まえたのか?」
「ええ。コンディションそこそこよかったんで。まさかサーマルがあるとは思いませんでした。もっと
「大したやつだよお前は。どおりでいつもより長いフライトだったのか。友恵さんも『源さん遊んでる』って無線越しに言ってきたぞ」
足立は手に持っていた無線機をちらつかせた。どうやら無線機で連絡を取り合っていたらしい。
「そうですか。そりゃ良かった」
青羽は笑みを見せると、剛司が装着していたハーネスと連結しているライザーのカラビナを緩め、取り外した。剛司の身体に自由が戻る。
「そういえば、剛司君だっけ? さっき友恵さんから連絡あったんだけど」
「そうだった。剛司!」
足立の言葉に反応した光が剛司の肩に手を置く。
「な、何?」
「おまえの靴なんだけど、崖下に落ちたってよ」
「…………え?」
光の発言は、剛司の予想をはるかに上回っていた。
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