素晴らしい世界

「ようこそ。青羽パラグライダースクールに」

 深川と別れた後、テイクオフポイントに着いた剛司達を迎えてくれたのは、ウェーブのかかった黒髪を鎖骨の辺りまで伸ばした女性だった。美人というのはこの人の為にあるのではないかと、剛司は思わずにはいられなかった。

「どうもっす。一ノ瀬って言います」

「元気な子が来たわね」

 初対面にも関わらず、亮のチャラ男ぶりを笑顔でさらりと受け流す女性に、剛司は呆気にとられていた。

「おう。もう準備できてるか?」

「うん。キャノピーも広げてあるし、後はハーネスを装備するだけの状態ね」

「ラインの絡みも……特に問題なさそうだな」

「お姉さんはインストラクターの方なんですか?」

 気になったのか亮が女性に向け質問する。

「私は違うかな。まあ、アシスタントってとこ」

「そ、そうですか。色々とご指導受けたかったのに……」

「あいつは俺の嫁だ。なあ、友恵」

 青羽はそう告げると、友恵の肩に腕を回した。

青羽友恵あおばともえです。げんさんの妻です」

 微笑む友恵を見るなり、亮は唖然とした。

「ご、ご結婚されてたんですね」

「そうなの。ごめんね」

 そう言いつつも青羽にくっつく友恵は、亮に夫との仲の良さを見せつけていた。


「それじゃ、そろそろ始めますか。ちょっと俺の前に集まって」

 青羽の掛け声と共に剛司達は集合する。目の前には青羽夫妻以外に一人の男性が立っていた。

「今から君達にはこのテイクオフポイントから飛んでもらいます。後で注意事項言うので、よく聞いといてください。それではまず、今日君達と一緒に飛ぶインストラクターの紹介をします。新見にいみさん」

 青羽に言われ一歩前に出た男性は、サングラスをかけたおじさんだった。

「新見です。今日は君達四人のうち二人と一緒に飛ぶので、よろしくお願いします。とにかく空を飛ぶのは楽しいので、良い思い出を作ってください」

「新見さんは俺の先輩で、毎回こうしてタンデムフライトする際は手伝ってもらっています。ベテランのインストラクターなので安心してください」

 安心ってなんだよ。と新見は青羽に蹴りをいれる。パラグライダーをやる人はフランクな人が多いのかもしれないと剛司は思った。

「それと残りの二人は俺、青羽が担当するんで。よろしくお願いします」

 お辞儀をした青羽は顔を上げると、続けて話す。

「さっき車内で若干話したけど、今いるテイクオフポイントは地上からおよそ四〇〇メートルの高さがあります。そこからおよそ一〇分間かな。それくらいパラグライダーで空を飛びます」

 剛司の右手には壮大な景色が広がっている。普段見ることのない高度からの光景は、剛司の心を掴むには十分だった。

「この場所はパラグライダーをやるために作られた場所です。木を切り開いて、地面を均して。一から作った人工のテイクオフポイントなので、正直言うと狭いです。なので、一人ずつ飛んでもらうのでご了承ください」

 そう告げた青羽は少し大きめでしっかりした、バックパックみたいなものを手に取った。

「これはハーネスと言います。簡単に言えばパラグライダーで空を飛ぶときの椅子みたいな役割を持っています。これを身に着けて、君達から見て右手の崖から飛び立ちます。今回はタンデムフライト体験なので、操縦はインストラクターに任せて問題ないです。ただし、君達にもやってもらいたいことがいくつかあります」

 青羽の視線が険しくなった。

「君達の協力がないと、いくらインストラクターがいても空を飛ぶことができません。せっかくここまで来てもらったのに飛べずに帰ることになるので。必ずやってください」

「大事だぞ」

 青羽に続き、新見も声を発した。

「まず、とにかく走ってもらいます」

「走るって……まさか」

 剛司の疑問も無理はなかった。剛司の右前方には緩勾配が広がっており、ある場所を区切りに緩勾配が急勾配に変わっている。

「そう。君達にはこの傾斜を崖に向かってひたすら走ってもらう」

「どこまで走るんですか?」

 朋の質問は剛司も気になっていた。

 緩勾配かんこうばいの続く場所までなら何とか走れる気がした。しかし急勾配きゅうこうばいに差し掛かったところも走るとなると、自分の身体を制御できなくなってしまう。いわゆる走り出したら止まらない状態に陥ることになる。

 そんな剛司の不安を知らない青羽は笑みを見せ言った。


「ずっと走る。地上から足が離れても。とにかく身体が浮き上がっても、足を動かすのをやめないことが一番大事なんだ」


 青羽の発言に、剛司は足が竦んだ。

 もしも途中で転んでしまったら。もしもスピードが足りずに崖に落っこちてしまったら。そんな不安が剛司を襲う。

「でも、ただ走るだけで空を飛べると思ったら大間違い。パラグライダーをやる人にとって、味方につけなきゃいけない条件があるんだ」

「風ですね」

「正解。やはり君は頭の回転が速いね」

「自分はただ知ってただけです。知らないこともありますよ」

 光は腕組みをして当然といわんばかりに胸を張った。

「詳しい説明は省略するけど、風の条件によっては直ぐに飛ぶことができない場合がある。もし君たちが走っている途中に条件が悪いと思ったら、俺と新見さんは『ストップ』と声を掛けます。言われたら必ず走るのをやめてください。やめないと事故につながる恐れがあるので」

「了解です」

 亮が敬礼のポーズを青羽に送る。

 青羽は亮を一瞥しつつ、他の三人の様子を窺う。

「まあ、あんまり硬くならないで。インストラクターの言うことをしっかり聞けば、今日のコンディションならみんな飛べるから」

 ポンッと肩を叩かれた剛司は俯いていた顔をあげた。目の前には笑顔の青羽が立っている。

「それじゃ、飛ぶ順番を決めといて。決まったら一人目は新見さんの所に行ってください」

 そう言い残した青羽は、新見と友恵と一緒に準備に取り掛かる。

「さてと、どうしましょうか」

 光が皆に順番を促す。

「俺は最後がいいぜ」

「どうして?」

 朋の問いに亮は笑みを見せた。

「みんなが地上から俺を見てるんだ。その中で飛ぶのって最高じゃん」

「要するに目立ちたいってわけね」

「おう。それにみんなの成功フライト後に、最後の砦となる俺が華麗なるテイクオフと着陸をするはずだから、その瞬間を是非とも地上から写真に収めてほしい」

「はいはい」

 空返事で亮に対応した朋は既にあきれ顔だった。

「自分は一番がいいかな。誰よりも最初に空を味わいたい」

 未知なる体験に思いをはせる光は、臆することなく最初のフライトを選ぶ。

「剛司はどうする?」

「えっと、僕は……」

 朋に言われても剛司は直ぐに答えることができなかった。先程の青羽の説明に委縮しているのかもしれない。

「……二番目でいいかな」

 何とか気持ちの整理をつけて剛司は声を振り絞った。

 本当は飛ぶことに躊躇いがあった。今までしたことのない体験をすることは、とても怖いこと。しかも一歩間違えたら崖の下に身を投じることになる。

 でも、このままだと何も変わらないと剛司は思っていた。逃げてばかりで、楽な道を進むことでどうにかしてきた、今までの自分を変えたい。その思いが剛司を少しだけ勇気づけた。

「了解。それじゃ、俺は三番で」

 全員の順番が決まったところで、光が新見の元に向かった。剛司達は光のフライトを見守る。

「緊張してる?」

 剛司に声をかけてきたのは友恵だった。

「はい……少しだけ」

 少しどころではなかったけど、剛司は見栄を張った。

「そうだよね。初めてだもんね」

 笑みを見せる友恵につられ、剛司も笑う。

「でも、あなたと同じようにインストラクターも緊張してるんだよ」

「えっ」

 信じられなかった。今まで多くの人と一緒に空を飛んできているはずだ。パラグライダーには慣れているはずなのに。剛司には緊張する理由があるとは思えなかった。

 そんな剛司の表情を見た友恵は、準備に取り掛かっている新見と青羽の方に視線を移す。

「もしインストラクターが操縦を誤れば、一緒に乗ってる体験者まで悲惨な目に遭うかもしれない。人の命を預かってるんだから、緊張しないのは無理があるのよ」

 友恵から放たれた言葉に、剛司は言い返すことができなかった。命という一言が重くのしかかる。


 ――剛司は人に命を預ける覚悟を持たないといけない。


 ファミレスで会話した時に光の言っていた言葉が脳裏に蘇ってきた。体験する側もインストラクターも命がけ。でも、そんなことを感じさせないくらい青羽や新見は笑顔だった。

「それなら、どうしてパラグライダーの体験を開いてるんですか? 怖く……ないんですか?」

 本当のことを知りたくて、剛司は友恵に問いかけた。

「うーん。どうだろう。私はタンデムフライトをする資格を持っていないから、言っても説得力がないと思うけど」

 前置きをしてから友恵は続けた。

「怖いと思う。でも、緊張を乗り越えてフライトに成功した暁には素晴らしい世界が待ってるの。源さんや新見さんは、その先のことしか考えていないんじゃないかな。一人でも多くの人に素晴らしい世界を伝える。その世界を味わってほしいから、こうして体験コースを開いてるの」

 もちろん、私もその一人ね。そう友恵は剛司に微笑んだ。

「源さんだってそう。さっきみんなに説明してたと思うけど、ああ見えて相当緊張してたよ。敬語といつも話している言葉がごちゃ混ぜだったから」

「そ、そうだったんですね」

 友恵だからこそっていうのはあるかもしれないけど、青羽も緊張しているという事実に剛司は気づけなかった。

 怖いのは皆思っていることなのかもしれない。でも決してその姿を公にしようとしない。自分と違うところはそこだ。いつも怖いことには関わろうとせずに、剛司はその怖さを隠してきた。だからこそ、いざという時に決断が鈍くなってしまう。

 目の前には準備を終えた光が、テイクオフの瞬間を今か今かと待っている。もしかしたら光も怖いと思っているのかもしれない。それでも、その先にある楽しいことを求めて最初のフライトを光は選んだ。それに比べて自分は――。

「ありがとうございます。少し緊張がほぐれました」

「そう。なら、頑張ってね」

 友恵にお礼を言い、剛司は光の方に視線を向けた。

「それじゃ、行こうか」

「はい」

 新見の合図と共に光が斜面を駆けていく。斜面に扇状に広げられたキャノピーが風を孕み、新見と光の真上に上がっていく。

「よし、走って。もっと走る」

「は、はい!」

 新見の猛烈なプッシュに光は足の回転を速める。そして、緩勾配から急勾配に変わる位置まで走った瞬間。

 そこからはあっという間だった。

 急勾配を一気に駆け下りた光は、一度も止まることはなく一瞬のうちに空を駆けていた。

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