13-5
綾は戸惑いながら電話機を見た。
「どうしてわたしが? 自分でかけたらいいのに」
「わたしが呼び出しても、絶対に来ない。でも、綾さんなら飛んでくるでしょ?」
確かに、そうかもしれない。
今まで篠沢になにかを求めて、断られたことはなかった。村の衆に威圧的な態度を取る姿をたびたび目撃していたが、綾にだけは紳士的で親切に接してくれた。そうした特別な対応を心地よく感じていたのは事実だった。もちろん、彼の自分に対する好意を感じ取っていた。
それにしても、綾に篠沢を呼び出させ、宣子はなにをするのか。
「意味が判らないわ。あなたちょっと、おかしいわよ」
苛々した気分できつく言ってから、失言だったと気づいた。「犯人を刺激してはいけない」。基本的な誘拐対策マニュアルのひとつだ。
学んでからの時間が経ちすぎ、知識が抜け落ちていることを自覚させられてしまった。だいいち実際に誘拐された経験などないのだ。幸いなことに、マニュアルを活かす機会には恵まれてこなかった。
しかし宣子は逆上もせず、薄ら笑いを浮かべた。
「真夜中のデイトに誘ってあげて。喜ぶんじゃないかな、あの男」
「……断るわ」
得体の知れない依頼だった。気安く受けられるはずがない。
綾は相手の反応を試すように言ってみた。
「篠沢さんを呼び出してどうするの? その包丁で刺すの?」
「刺さないよ。訊きたいことがあるの」
「それなら電話で訊けばい……」
宣子は手を伸ばし、綾の髪を掴んだ。包丁の切っ先が顔に向けられ、綾は反射的に目を瞑った。
耳許で、ざくりという音が聞こえた。痛みはなかった。
目を開けると、宣子が握りしめた指をことさらゆっくりと開いていた。
綾の艶やかな髪が、はらはらと床に落ちた。
「綾さん。時間がないの。わたし、本気。次は指を切るよ」
荒縄で結んだ綾の後ろ手を、包丁の柄でとんとんと叩く。執拗に、リズムを刻むようにして叩き続ける。
「血が出たら、絶対痛いし……動揺してうまく喋れなくなるかもしれないでしょ? だから、抵抗しないでほしいの。関係ないひとをこれ以上傷つけたくないから。わたしが許せないのは、あの男だけだから」
焦っている様子は伺えるが、宣子は冷静に見えた。狂っているようにも見えなかった。
……こんなケースのことは勉強していないわ。
犯人の目的がよく判らない。
ただ理解したのは、このままでは本当に指を失いかねないということだった。はじめて、綾は本物の恐怖を覚えた。
この場に現れた篠沢がどうなってしまうのか、想像するのが怖かった。
宣子は彼に訊きたいことがあると言った。それだけなら大丈夫。話をしたら、なにもせず帰してくれる。刺さないって言った。大丈夫。
——ここまで凝った真似をしておいてそれだけで済むと思っているの本当に?
混沌とする自身の思考が綾を懊悩させた。
「呼び出す場所は、この奥の温室よ。入り口を開けておくから来てと言ってね。鍵はどうしたって訊かれたら、弥絵ちゃんにこっそり借りたって言えばいい」
それ以上考える余裕を、宣子は綾に与えてくれなかった。
包丁の尖りが、彼女の指に押し当てられた。硬く冷たい感触が柔らかな手にゆっくりとめり込む。
「……あ……っ」
「判ってくれたよね。じゃ、ダイヤルするから。うまくやってね……」
「宣子さん」
「なあに?」
彼女の口調はあくまで柔らかだった。
「約束してくれる? あのひとを殺したりしないわよね?」
おそるおそる訊ねた。見ると、宣子は遠い目をして答えた。
「うん……一志くんがいないから、たぶん殺さないと思う」
台詞の意味が掴めない。けれど問い返せる雰囲気ではなかった。
「あ、でも。電話口で助けを求めたりしないでね。絶対に。それは困るよ」
言いながら包丁の刃先をさらに押しつける。
脳裏に、このあいだ料理をしたときのことが浮かんだ。包丁の刃は、押しただけではうまく切れないのだ。これを奥か手前に引かれてしまえば、鮮血が滴る。料理の素材ではない、綾自身の血が、流れる。
「いや……」
思わず悲鳴に似た声を上げる綾に向かって、宣子が優しい声音で囁きかけた。
「早く済ませてくれれば、なにも起こらない。綾さんもすぐに帰れるよ。……ね?」
生殺与奪の権はすべて宣子に握られている。
綾は理解して、目を閉じた。口の中がからからに乾いていた。
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