5-5
篠沢が戻ってきたのかと、緊張して振り返る。
宣子が一志の肩を抱くようにして入ってくるのが見えた。
「お兄ちゃん」
弥絵の目には白い顔をした一志の姿しか映らなくなった。
急いで、跳ぶようにしてほんの数歩で入口へ到達した。兄のシャツを掴んで揺さぶる。
「お兄ちゃん、どうしたの、お兄ちゃん」
「弥絵ちゃん、大丈夫だから、離して」
宣子の諌める声も耳に入らない。
「……弥絵」
一志は宣子から身を離すと、しがみついてくる弥絵を抱きとめた。
「心配するな。ただの貧血」
「お兄ちゃん」
頭が混乱して、名を呼ぶことしかできなくなった。
弥絵は兄の身体に手を回し、力の限り抱きしめた。体温が伝わる。
大きな手が、頭を撫でてくれる。
「温室で倒れたので……。意識はあります、本人は貧血って言ってます……」
医師への説明をする宣子の声が遠くで聞こえた。
「大丈夫? 本当に、大丈夫」
「大丈夫だよ。食欲なくて朝飯抜いたから、そのせいだと思う」
「食べなきゃだめだよ……」
「明日から、そうする」
「本当に、だめだよ……」
こちらの心臓が止まりそうだ。
杉本がやってきて、一志を診察室へと誘導した。弥絵もついていった。
倒れたときの状況を聞き、軽く診察をする。作成したカルテが机の上に置かれた。ちらりと視線を走らせても筆記体で記された内容は読み取れない。実際の容態が気にかかり、いてもたってもいられない気分になる。
杉本が、やっぱり貧血みたいだね、と診断を下した。
「すこし寝たほうがいいよ。きょうは仕事終わりでしょ?」
「はい」
「あ、わたし、送りますから……弥絵ちゃんも一緒に帰る?」
カーテンを開けて診察室を覗き込んでいた宣子が声をかける。
きょうの勉強のノルマは終わっていないし、闖入してきた篠沢のせいで掃除も中途半端になっている。
医師たちの夕食の準備もできていない。
途方に暮れる弥絵に、杉本は微笑んだ。
「きょうはもう、帰っておやすみ。食事ならなんとかするから」
「でも……でも」
「そんな顔しなくていいよ。色々あったから、疲れたでしょう。また明日おいで」
きっと相当情けない顔をしているのだろうと思う。けれど今はとても強がれる気分ではない。
宣子が一志に手を貸そうとしたが、彼はそれを優しく拒んだ。
医師に話があるから先に出ててくれ、と白い顔のまま告げる。
宣子は心配そうに何度か振り向きながら、先に診療所を出ていった。
一志は、弥絵の視線にも同じように応えた。理由は気にかかるが、兄が彼女たちに聞かれたくないと望む話ならば、出ていくのが道理なのだろう。弥絵も玄関へと向かった。
夕暮れて、暑さの残る外に出る。乗ってきた自転車を積むために、宣子の車のトランクを開けてもらった。
トランクが開くと車体が大きく揺れた。
ふたりで自転車を持ち上げ、狭いスペースに積み込んだ。全部は収まらず、車体がはみ出て扉が閉められない。仕方なくそのままにして、車内の座席に移動した。
当然、助手席には一志が座るだろうと思ったから、弥絵は後部座席に回った。
シートに腰を下ろし、顔を両手で覆い隠した。
兄のことが心配でたまらなかった。
篠沢に見下されたことが悔しかった。
言いしれない大きな不安に包まれる。微かな恐怖さえ感じた。
——どうしてこんなに、あたしは無力なの。
空虚な気持ちに襲われ、弥絵は顔を隠したまま、深くうなだれた。
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