5-1

 弥絵は不貞腐れながら掃除をしていた。

 薬品棚を拭く手に思わず力が入り、古いガラスが軋む。

 いけない。あわてて雑巾を引っ込める。

 弥絵は頭を垂れて、ため息をついた。

 あの女のひとが来てから勉強のペースが狂いっぱなしだ。

 ドリルは苦手な二次関数の分野に突入していた。すぐに考えがつまづくから、質問を受けてくれる医師が手近にいないと困るのだ。

 綾は杉本を伴って散歩に出かけていた。

 急患が来たらどうするのだろうと僻みっぽく考え、すぐに肩を落とした。

 急患なんて五年にひとりくらいだ。

 最近はペインの犠牲者も少ないようだし。

 安定期に変化しつつあるのかも、しれない。……そう願わずにはいられない。



 ——ちょうど一週間前の朝。

 弥絵は、いつもより少し早い時刻に診療所を訪れた。

 まだ医師は寝てるかな。思いながら靴を脱ぎ、広間へ向かう。そのとき患者用のベッドから苦し気な呻き声が聞こえた。

 驚いて、おそるおそる仕切りのカーテンを開けるとベッドには杉本が横たわっていた。

 一瞬、心臓が冷たくなる。

 医師? まさか……病に冒されてしまった?

 「医師? 医師?」

 駆け寄って揺り起こすと、彼は眉間に皺を寄せつつ薄くまぶたを開いた。

 弥絵は安堵する。目を開けてくれれば、ひとまずは大丈夫だ。

 手探りで眼鏡を探る杉本に、テーブルに置いてあったそれを手渡す。

 彼は眼鏡をかけてようやく、弥絵の神妙な顔を認識したようだった。

 「弥絵ちゃん……。おはよ」

 寝ぼけた声で言う。

 「おはよ……って……うなされてたけど、大丈夫なの」

 「え?」

 意外なことを聞いたようにきょとんとする。

 悪い夢でも見ていたのだろうか。

 なんにせよ、何事もなくてよかった。ほっとすると同時に疑問が湧き起こる。

 「なんで、ここで寝てるの?」

 彼の寝床はロフトのはずなのに。

 「綾さんだ……。ああ、思い出したよ」

 「あやさん?」

 首をかしげる弥絵に苦く微笑むと、彼は言った。

 「綾さんに苛められる夢見てたよ……子供の頃のことなのに、相当ひきずってるなあ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る