4-3
宣子の住む一軒家に着いたのは七時をまわった頃だった。
ここから二十分車を走らせれば、上条兄妹の住む家に着く。さらに三十分で診療所だ。
おかしな集落だと思う。森の中に点在する家は、それぞれが離れた場所に建てられている。数軒まとまっている区域もあるものの、彼らの家は格別に離れている。
眠たげな一志の腕を引き、暗い家の中へと入る。
前の住人が亡くなってから十年近く放置されていた古い家屋だったが、彼女は充分気に入っていた。
ここは自分の城だった。
一志を居間に座らせ、いそいそと支度をはじめる。十五分ほどで夕食の準備は完了した。
皿を運んで声をかける。
「できたよ」
一志はテレビを見ながらうとうとしていた。
笑って彼の横に座る。卓袱台の素晴らしさは、好きなひとのすぐそばでごはんを食べられることだと宣子は思う。
「いただきます」
「うん。どうぞ」
自家菜園の野菜と、地区へ配給された食品による、ささやかな夕餉。
久し振りにつくったロールキャベツは、コンソメの味が染みていて美味しかった。
ごはんも上手く炊けている。白米の美味しさは、ここに来てからはじめて実感した。
十個並んでいたロールキャベツは見る見るうちに減ってゆく。
宣子がふたつめに箸を伸ばそうとしたとき、すでに大皿の上の残りは三個となっていた。
驚いて思わず口に出してしまう。
「一志くん、六個も食べちゃったの?」
「あ……ごめん」
真顔で食べかけの半分を皿に戻そうとする。慌てて止めた。
「違うよ、いいよ、たくさん食べて。ペースが早くてびっくりしただけ」
「……旨いから」
宣子の見間違いでなければ、彼はほんの少し頬を染めていた。再び取った半分をそのまま口に放り込む。
彼女は吹き出しそうになるのを堪えて、言った。
「残り全部食べていいから!」
——しあわせ。
彼といると、なんでもないことがとても幸せに思えるから不思議だった。
故郷にいた頃は、なんでもないことをひどく不幸に感じていたのに。
思い出した途端、ごはんが喉につかえる。宣子はいったん箸を置き、水滴のついた麦茶のグラスを手に取る。
茶碗を空にした一志がつぶやいた。
「弥絵にも食わせてやりたい」
こくん。
温くなった麦茶をひとくち飲み、宣子は思う。
断れるはずがないでしょ。
彼女はグラスを持ったまま微笑んだ。
「あとふたつあるの。それは食べちゃっていいから」
「そう?」
「お皿に乗りきらなかったから。あとで包むね」
本当は、弥絵の分など用意してはいない。
冷凍して、あとで食べるつもりだったから、出さずにおいただけ。
「ありがと、いつも悪い。あいつも宣子くらい、料理できるといいんだけど」
そう言うと、一志は七個目のロールキャベツを取った。
宣子はゆっくり麦茶を飲んだ。
昼間つくった指の傷。それを彼は口に含んだ。
このまま時間が止まってほしいと、一志の下で宣子は考える。
彼女は自分の身体が大嫌いだった。憎んでさえいたから、自ら傷つけたこともある。
辛い目に遭わされたのは自分が女の性を持って生まれたからだ。
家の環境が悪かったとか、父親が精神に異常をきたしていたとか、理由はいくつでも見つけられた。
けれど、もしも自分が男だったなら。
腕力で対抗できたなら結果は違っていたはずだと、彼女は信じていた。非力な自分をたまらなく憎んだ。
十代を過ごした地獄のような環境から彼女を救ってくれたのは、アルバイト先にたまたま訪れた篠沢康平だった。
村に来るなら、安定した仕事と、ついでに家もやる。そう彼は言った。
女であることへの嫌悪感で狂いそうになりながらも、肌を露出する服を着て酒を注ぐような仕事を選んだのは、すべてが家を出るためのことだ。
彼女は一も二もなく篠沢の提案を受け入れた。
利用されていることは判っている。これほど辺鄙な地域で、地味な仕事を文句ひとつ言わずに続ける若者はそういないだろう。
それでもよかった。わずかな貯金しかなかった自分に家を与えてくれ、一志に引き合わせてくれたことに至っては、心から感謝しているほどなのだから。
一志は、余計なことをなにひとつ訊かない。
悪夢に悩まされ消沈していた彼女を、黙って抱きしめてくれたこともあった。
汚れた自分の身体を、綺麗だと言ってくれたことも。
彼の体温を感じながら、涙を止めることができなかった。
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