4-2

 夕刻になり、温室で作業をしていた男たちが戻ってきた。きょうはいつもよりも早い時間の終業だ。

 ペインの咲く温室に入れるのは、特権を持つ篠沢を除くと、現在は三人のみとなっていた。十年ほど前から大量生産に取り組んでいるものの、様々な問題が多く経過は順調とは言えないらしい。

 一志の姿を確認すると、宣子は慌てて仕事を片づけはじめた。

 先程の考えを思い起こす。医師が弥絵ちゃんの恋人になるなんて、絶対に彼が許さないか、と、こっそり苦笑した。

 終業時間が合うきょうは、一緒に帰る約束をしていた。

 今朝つくったロールキャベツは自信作だったから、一志に食べてもらいたかった。

 周囲にお疲れさまでしたと声をかけ、灰色の作業着を着た一志の許へ駆け寄る。

 「お疲れさま、一志くん」

 「うん」

 彼が薄く微笑む。

 ふたり揃って選花場の農舎を出た。

 駐車場までの道を並んで歩く。

 木々から見える頭上の空は夕暮れて、紅と蒼のグラデーションを描いていた。

 穏やかな幸せに、胸が締めつけられた。五分間、黙ったまま歩いた。

 砂利石を敷き詰めた駐車場に到着すると、宣子の赤い車にふたりで乗り込む。

 一志は助手席に座り、口を開いた。

 「今朝は早くて悪かったな。眠くないか?」

 一緒に帰るため、きょうの送迎を申し出たのは自分だ。文句を言う筋合いではない。

 「大丈夫だよ。一志くんこそ、毎日あの時間に起きて運転するんじゃ大変ね」

 「うん……まあ、いつものことだから」

 エンジンをかける。森の中の運転は慣れないうちは危険だったが、もうすっかりこつを覚えた。

 「寝ぼけて事故らないように、気をつけてね」

 「弥絵にもよく言われる」

 妹の名前を出すとき、彼は無性に優しい顔をする。

 その表情を横目で見てとると、宣子はあえて明るい調子で言った。

 「ロールキャベツつくったの。自信作だから、たくさん食べてってね」

 「へえ……そんなの、久し振りだ。楽しみだな」

 一志の声が弾むのを聞いて嬉しくなった。なんの取り柄もないが、料理だけは好きだ。美味しいと食べてもらえるのなら尚更。

 「最後に食べたの、たしか、母さんがつくってくれたやつだ……もう、十年も前かな……」

 小声になる彼は車に揺られて眠りかけていた。

 「寝てていいよ……着いたら起こすね」

 ん、とかすかな声が聞こえる。目を閉じる一志を愛しげに見つめ、宣子は前方に向き直った。

 次第に暗くなる道を走りながら、一志くんのお母さんはどんなひとだったのだろう、と考える。

 弥絵ちゃんに似ているのかな。女の子はお父さんに似るんだったかしら。それなら一志くんはお母さん似なのかな……。

 宣子が一志に出逢った三年前、すでに彼らはふたりきりの家族だった。

 彼らの父親は宣子がこの集落へ身を寄せる数か月前に亡くなっていた。そのせいか、はじめて逢ったときの一志はひどくぴりぴりしていて、近寄るのが怖いほどだった。ふたつ歳下の少年だというのに、彼は老成した男のようにも見えたし、手負いの野生動物みたいにも見えた。いまになってみると、妹を守らなければという重圧と意気込みとがないまぜになっていたのだろうと判る。

 ゆっくりと、すこしずつ打ち解けあい、宣子と一志はお互いを知っていった。

 それには長い時間を要した。

 一志だけでなく、彼女自身も傷を負っていたから。

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