サヨナラペイン

姫野なりた

1-1

 晴れた空が恨めしい。

 これ以上はないと思えるほどの暑い日だった。

 一面の緑から上空の青へと視線を上げる。

 途端に汗が目に入った。

 眼鏡をずらし、指で目を軽く擦る。きっと指先も汚れているから、あくまで軽く。

 自宅の裏で遭難するのは二回目だなあ、と、杉本英次郎すぎもとえいじろうは思った。

 進めば進むほど周辺の緑は深くなり、足下の踏み分けられた道も細くなってゆく気がした。日が落ちて暗くなってしまったら、もう戻れるとは思えない。

 一度目の遭難はたしか幼稚園児の頃。世話係の少女が目を離した隙に、幼い彼は逃げ出した。

 広大な森のような庭は間違いなく杉本家の敷地内だったけれど、はじめてそこに迷い込んだ彼は右も左も判らず途方に暮れた。二時間ほど彷徨ったあげく、家人の捜索隊の手によって泥まみれの彼は救出された。世話係にはこっぴどく叱られた。

 自分ひとりで外に出てみたかったのに、玄関の門も見つけられないうちに夢は潰えた。情けなくて苦い想い出のひとつだった。

 幼稚園児が自宅の、森みたいな庭で迷うというのも、冗談みたいな話だったけれど。

 三十を過ぎて、自宅周辺の裏山で遭難するというのも笑えない。

 戻れなくて死んだら、発見されることなく打ち捨てられたままになりそうだ。

 鼻先を掠める葉を振り払いながら進む。この方向へ行けば目的地へ着くことができるのかどうか、自信はまったくなかった。それでも歩き続ける。

 こめかみに汗が流れて、落ちた。背中にもじっとりと汗をかいている。

 この暑いのに白衣を着てきたことを少しだけ後悔した。が、数日前に裏山を偵察したときにはむき出しの腕を蚊に刺され、さらに草の鋭い葉で切り傷をつくられ、とにかく散々だったのだ。

 弥絵やえにも「半袖で裏山へ入るなんて」と、呆れ顔をされてしまった。

 長袖で腕が隠れるだけ、前回よりはましだろう。

 歩き続けて一時間以上は経っただろうか。息が切れてきた。喉もからからだった。

 絶え間ない虫の声を聞きながら彼は立ち止まり、周囲を見渡した。

 道の周囲を取り囲む高い草は、杉本と同じかそれ以上の背丈をしていた。草に阻まれて遠くを見渡すこともできないし、休めるような空間もない。土と砂利だらけの細い道にしゃがみ込む気にもなれなかった。

 早いところ、目指す場所へ辿り着かなければ。

 杉本は焦り、疲れた足を引きずる。

 十分ほど歩いたところで視界が開けた。

 これまでの緑の道が急に広がり、ぽっかりと開いた空間へと続く。

 途端、紅色に、吸い寄せられる。目眩がするようだった。

 背の高い草に覆われ、行き止まりになった場所。自然により形成された小さな広場には、数え切れないほどの紅い花が群生していた。

 思わず感嘆の声が洩れる。

 目を見開いて、一歩、足を踏み入れた。

 鮮やかな紅と周辺の緑の、苛烈なまでのコントラスト。

 寒気がするほど美しい光景だった。

 杉本は目的地に辿り着いたのだ。

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