ダイヤモンドとガラス片 3

 不審に思った時には、秋陽の足は止まってしまった。流石に放っておく事も出来なくて、秋陽に近付く。


「ねぇ、秋陽」


「……⁉」


 出来る限り、俺は穏やかな声を出したと思う。

 だけど秋陽は驚いて、びくりと肩を震わせた。

 俺の事を振り返った時に、否が応でも見えた。頬が濡れている――秋陽は、泣いていたのだ。


 何かあったのかと心配になったのは事実だが、流石に予想外で俺も面食らう。


 だって佐倉先輩といる時の秋陽は楽しそうに笑っていて……あれからまだ一時間も経っていない。普通に歩いて、電車に乗って、また歩いて。特に寄り道もしていない。誰かと遭遇してトラブルになった訳でもない。


 俺には秋陽が泣く理由が分からなかった。


「え、ちょ、如何したの?」


 混乱して、俺はそれだけ口に出すのが精一杯だった。秋陽もまた、応えられるような状態じゃなかった。


 むしろ声掛けたのが俺だって分かった瞬間、堰を切ったように涙が零れ始めたように見えるんだけど。

 気の所為だよね、俺は秋陽を泣かせるような事何もしてない。……してない、よね?


 ただ、このままじゃマズい事は俺でも分かる。取り敢えず秋陽の手を取って、ゆっくりと歩き始めた。

 秋陽は特に抵抗するでもなく、俺にされるがままに付いて来る。


 昔一緒に遊んだあの公園が近かったから、そこのベンチに秋陽を座らせた。都合の良い事に、誰もいなかった。子供達は家に帰った後なんだろう。この時間帯だったのは、正直助かった。


 俺は隣に座って、秋陽が落ち着くのを待った。ハンカチ貸してやるの、遅れてごめん。


 秋陽は時折、咳込んだりして苦しそうで……最初は躊躇ったけど、俺は秋陽の背中をさすった。


 それが功を奏したのか、秋陽の嗚咽は少しずつ納まっていった。


「ごめん、ね。突然泣いたりして」


 如何にか会話が出来るまでになった秋陽は、また泣き出してしまいそうな表情で俺に謝った。


「いや、その……何か遭ったの?」


 俺が尋ねると、秋陽は迷っているようだった。しかし、それでもぽつりぽつりと話し始める。


「……信じられない、かもしれない、けど」


「うん?」


 俺は秋陽の言葉を待った。俺に出来る事は少ないと思う……けれど、せめて心の中だけでは、秋陽を泣かせる原因は許さないつもりだ。例え秋陽が心変わりしても、幼馴染には変わりない。

 臆病な俺だけど、秋陽の事は好きだから。


「私、綴君の事……好きだよ」


 秋陽から聞く、二度目の好きという言葉。しかしあの時とは全然違う、哀しそうな声色で告げられた。


「でも、おかしい。私、今日……急に佐倉先輩の事が好きになってた」


 秋陽の中には、俺への罪悪感よりも別の感情が見て取れた。


「先輩と別れてから、綴君の事思い出した。先輩は素敵な人だけど、好きなのは綴君なの。綴君の筈、なのに」


 それは――恐怖、だ。


 普通悪いと思う事はあっても、怯える事はないんじゃないか? 別れ話が上手くいかずにゴタゴタして、相手にストーキングされて怖い、とかなら世間ではあるみたいだけど。……さっき俺がしてたのはストーキングじゃないからね?


 しかも俺が怖いという感じでもない。

 多分、秋陽自身も何が怖いのか分かっていないように見える。


 この後に続く秋陽の言葉は支離滅裂で、まさにそれを物語っていたと思う。


 秋陽の言葉を要約すると……佐倉先輩と話している時だけ、好きな相手が入れ替わってしまうような感覚なんだそうだ。


「ごめんね、訳分からないよね」


「うん」


 俺は素直に頷く。普通こういう時は大丈夫だよって言うモノなんだろうけど。分からない事を分かるとは言えなかった。

 長い付き合いの為か、秋陽もそれは分かっている。


 むしろ、何時も通りの俺、に安堵したようだった。


「綴君、ありがとう」


 まだ頬も目元も赤い。けれども、秋陽は笑った。ああ、良かった。やっぱりね、女の子は笑顔が一番だよ。


「あのさ、秋陽。今夜は、家に泊まっていかない?」


 先に言っておくけど俺に下心はない。


 何故なら……秋陽は事情があって、今は市川家に一人で住んでいるからだ。こんな状態の秋陽を、誰もいない家にいさせるのは気が引ける。


 俺の両親も秋陽の事は気に掛けているし、連れて行っても大丈夫だろう。今、秋陽が頼れそうな大人は他にいない。俺に話し難い事も、女性陣なら話せるかもしれないし。


「……ううん、大丈夫。綴君に話したら、何だか落ち着いたよ」


 しかし秋陽は頭を振った。一度泣いて、不安を吐き出して、すっきり出来たのかもしれない。目の光もしっかりしてるし、何時もの秋陽だ。


 少なくともこの時は、俺にはそう見えてしまった。


「じゃぁせめて、送ってく」


「ありがとう」


 今度は秋陽の隣を歩く。ほんの五分もない、僅かな時間だけど。


「そう言えばさ、読んだよ。まだ途中だけど」


 秋陽はやっぱり、小説の話をする時が一番嬉しそうだ。売ってる書籍でも、自分の作品でも。


「本当? 今何処のシーン?」


 案の定、目を輝かせて秋陽は尋ねてくる。元気を出して欲しくて出した話題だったけど、効果は覿面だったみたいだ。


「アシュレイとマーテル、出会ったよ」


「もうそんなに? 綴君、読むの早いね」


 だから尚更、秋陽は大丈夫かなと思った。

 ……そんな訳、ないのにね。


 もしもこの時俺がもっと強引に家に誘ってたら。秋陽は騒がしくも安心出来る夜を過ごせたかもしれないのに。


「じゃぁ綴君、また明日ね」


「秋陽こそ寝坊するなよ」


 門の向こうから、秋陽が玄関のドアの向こうに消えて見えなくなるまで見送るだけじゃなくて。

 何かしら理由を付けて上り込んで、もう少しだけ側にいてやれば良かった。


 兎に角――俺は後に、この事を死ぬほど後悔する。

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