第56話:Teo Torriatte



 次の取引先へ向かう間、少し時間が合ったので僕はネット喫茶に入ることにした。受付を済ませパーテーションで区切られたブースに向かうと早速ドリンクバーへ。


「お気に入りの組み合わせを作ろ」


 意気込んでメロンソーダを半分注ぐ。上にはバニラソフトを二巻き。ファミレスだったらサラダバーの端にあるフルーツの盛り合わせをここにトッピングするけど今日はそれがないので我慢しよう。午後からも頑張りましょうスペシャルを作り終えると僕は自分のブースに戻った。放ったスマートフォンはサイレントモードになっていたままだった。


 午後の訪問を終えると真っ先に薄ら禿げ上司が僕のもとにやってきて僕を躾けるみたいに床に正座させた。

 原因はネット喫茶に言っている間僕の後輩が先ほど訪問したところでトラブルを起こしたからだった。連絡にすぐ気づけば小火程度で寸だのに僕が取引先に戻ったときはもう手遅れで、小火は立派な火災になっていた。



「何度言ったら分かるんだ」

 その言葉に胸の中で何度言ったら気が済むんだと愚痴をこぼし



「今度やったらもうないからな」

 その言葉で僕は今度こそやめてやると心にそう決めた。

 だけど説教が終わると薄ら禿げ上司が僕に訊くので、すぐにスケジュール帳を開いて、そして会社の前にタクシーを呼んで、予約を取った高級中華料理屋に二人で向かった。目的地に到着すると禿げはさも払うのが当然のように先に下りていって、恵比寿顔を作って取引先と一緒に中へ入っていった。そこからの記憶が何故かすっぽりとない。


 僕は昔から何度かこうやって見知らぬ夜を過ごして朝を迎えることがある。

 起きると自宅には戻っているけど昨晩の記憶は相変わらず戻らない。別に頭も痛くないし、身体もだるくない。二日酔いになるほど酔ったわけでもなさそうだ。なのに記憶だけは戻らない。とりあえずと、バランスを崩しながら服を脱いでトランクス姿になって風呂に向かう。


 僕は熱いシャワーを浴びながらなんとか記憶を取り戻そうとしていた。旋毛にあたる熱いシャワーを浴びていると朧気なイメージが頭の中でフラッシュバックする。


 中華料理屋で僕と禿げと常務は確か回る卓を囲んでいた。小籠包が美味しくて、でもレバニラはちょっとクセが強くて、それで他愛いない話しと……そうだ。会社がこれから進めようしているプロジェクトの出資をお願いをしたんだ。やっとなんとなく思い出してきた。

 その後はタクシーで送り終えて今日は金曜日だからと独りでバーに入って度の強いお酒を飲んだ?気がする。それで隣にいたシンガーソングライターの女性と話が盛り上がって、それで一緒にこの家に―――、


「おはよ」


 瞼を擦りながら下着姿で現れた女の人に僕はパニックになって、その人を早々に追い出した。



 俺の生きている時間はいつも曖昧で、あまり長くはない。それは奴が主人格で、俺は奴の副次的なものでしかないからだ。

 奴はとびきり冴えなく、そのくせ頼まれたら何でも背負ってしまう人間で、奴はイチかゼロしかなくて、0.25とか0.75ぐらいで生きられないタイプだ。


 今俺はパンツスーツを着こなす女上司の真向かいに座っているのだが、窓を見ると忌々しい太陽が輝いていて、なかなかいい女だったから口説きたかったが、俺は薄暗いこの部屋で静観を決め込むしかない。


 女上司はコンビニのサラダパスタを器用に巻き口の端にソースをつけることなく巻いたパスタを口に運ぶ。口を開ける女上司の喉の奥を見て俺は瞬間的に思った。こんなにもこの女を欲しいと思っているのに、奴は頬を引き攣らせながら女上司の愚痴に耳を傾け続けている。

 扉でもあるブラウン管テレビを掴んで揺らしながら、どうしてあと一歩が出ない、と叫び散らしてみる。だが奴は相変わらず変な笑顔で相づちを打つばかり、あーあ。とうとう天気の話始めやがった。


 相手の都合だの、真実の愛だの、信頼だの、そんなことばかり考えているからお前はいつまで経っても童貞なんだよ(実際言うと俺が高校一年の頃二つ上の先輩と済ませているため奴は童貞ではない)と唾を飛ばしながら俺はカウチに戻って尻を沈ませる。

 午後三時過ぎ、奴はいつも通り行きつけのネット喫茶によって甘ったるいお子ちゃまドリンクを作る。そしてそこで小さい頃ハマっていた漫画を読み、スマホでソーシャルゲームなどをして時間を潰す。その後奴は取引先をいくつか回って、また会社に戻って溜まった書類を片付けて退社する。


 その頃には、というか厳密にいうと取引先から会社に戻る頃には外へと通ずる扉は開いているんだが、仕事なんてまっぴらだし、それにあの場に俺が言ったら間違いなくあの禿げを殴っているので、俺は風通しの良くなった部屋でこれから始める夜に向けてしばし休息を取る。

 奴はバカ真面目でクソほどつまらない。だが俺はそんなやつの体を借りなければ存在できない。癪に障るがそれだけは認めなければならなかった。


 眠りから覚めると顔の上には読みかけの短編小説がアイマスクのようにのっていた。俺はそれを摘まんで床に置くと随分と夜が深くなっていることに気づいた。


「クソ!なんで起こしてくれねぇんだよ!!」



 俺は急いで立ち上がりテレビの中へと飛び込む。

 そして奴からカラダを借りた俺はクローゼットを乱暴に開く。ラックに掛かるシャツはストライプからペイズリー柄、単色系と柄のカテゴリーごとにきちんと分けてあってどれもクリーニング屋に出したみたいに皺一つなく整然と並んでいる。俺はそれらを引っ掴んでは捨て、引っ掴んでは捨てを繰り返しながら何度も鏡の前に立つ。

 脳の中で時限爆弾みたいに五月蠅いカウントにひたすら急かされながら髪をセットし、クラッチバックに財布とスマホと鍵だけ掴んで街へ繰り出す。


 今日はもうそんなに生きられない。


 そんなことを自覚しながらも誘蛾灯のように目の前をちらつく繁華街へ向かって俺は駆けだしていった。



 今日はなんだかスゴク頭が痛い。喉は何故だが渇き続けていて、時折えずきが胸を駆け上がってくる。

 午前はちょっと気むずかしい人とのミーティングが控えているというのに。

 僕はコンビニでエナジードリンクを買ってタクシーの中で飲み干した。


 今朝、部屋のテーブルには500mmが空の缶になって置いてあった。別に深酒という量でもないのに、何故こうも身体は怠いのか。その答えを僕は知っていた。

 彼との記憶は上手く共有できていないせいで曖昧だが、彼はいつも酒を飲んで、たばこを吸って、女性と戯れて笑っていた。


 夜が明けるまでの僕はいつも真っ暗な部屋に一人、手元を照らすテレビの灯りの中で鶴を折っている。何故鶴を折っているかというと何か作業をしながらじゃないと彼の日常は刺激が強くて見ていられないからだ。

 ブラウン管のテレビからはピンクや赤、原色に近い光ばかりが放たれていて、見つめていると瞼の奥の眼球がどんどん沈んでいく。それでも構わず彼の生活を覗いているとさらに眼球はより重く沈んでいきそのうちトイレみたいに流されて瞼から眼球が消えてしまう、そんな不安に駆られる。


 彼はビリヤードが趣味で、いつも左手にはバドワイザーが収まっている。ポケットには小銭とくしゃくしゃになったレシートが押し込んであって、ザルでもないのにお酒は浴びるように呑む。だけど彼の周りには自然と人が集まる。同じ見た目だというのに何故こうも違っているんだろうか。

 彼が僕だったら、といつも思う。口説くのがやたらと上手い彼のことだからいろんなミーティングはスムーズに進むだろうし、商談だってさっさとまとまるだろう。


 だけどそう思うのと同時に僕は彼をとても恐れていた。

 だってあんな生活を続けていたらいつか身体を壊すし、現に彼のしわ寄せはこうして毎日僕にのし掛かっている。それに何より恐れているのは彼が狡猾な男だということ。


 ある夜、彼は通りがかった大学生に絡まれ財布を持って行かれそうになった。

 だけど彼は自分のポケットから財布を取り返そうとはせず、「俺が奢るから一緒に呑まねぇか」と大学生を誘った。予想外の反応に大学生は面白がって彼らはそのまま飲み明かし、肩を組んで夜の街を闊歩した。別れ際、彼は大学生男女四人組とラインを交換し、即グループを作り、次の飲み会の予定を立てながら個人情報を裏の人間に売っていた。

 それから一週間後、大学から彼らの姿が忽然と消えたらしい。僕は詳しく調べる気になんてなれなかった。らしい、でもう十分だ。

 彼は小さい頃大嫌いで思わず椅子を放り投げてしまった先にいたあの子と似ている。傲慢で自分の思い通りに行かないとすぐへそを曲げて、報復の手段は極端で、こっちが耳を塞ぎたくなるほどよく笑う。なのにみんなから何故か好かれて高いところから僕をいつも見下ろしているんだ。


 金曜の夜が明け、いつものように彼の破滅的な生活を眺めた後、僕が目覚めた。起きるともう昼すぎで僕は寝癖だらけの髪を落ち着かせるため熱いシャワーを浴びて、髪をドライヤーで乾かした。


「え?」


 胸の真ん中には蝶のタトゥーがあった。それはTシャツのワンポイントぐらいの大きさだったが僕には大事だ。

 蝶の下にはTake it easy(気楽にやれよ)と刻んである。冗談じゃない。アドバイスでも送っているつもりか。

 苛立ちながら胸の真ん中をガリガリと掻いても肌が赤くなり傷むだけでタトゥーはちっとも消えやしない。朝からどん底に落ちた僕はワックスもつけず、キャップを目深に被って適当に服を着て、近所を散歩した。

 


 僕が住む二階建てのアパートの隣には大家さんが住む一軒家があって。そこから少し進んで空き地のところを右に曲がると行きつけの銭湯がある。

 日曜日。明日が仕事であることに落ち込んだ朝はちょっと早く起きてそこで風呂に浸かり、たまにサウナに入ったりして、その後帰りにコンビニでビールを買って、ツタヤで借りてきた映画を見るのが僕のささやかな贅沢の一つ。なのに彼は重要なピースの一つを僕からかすめ取っていった。今頃彼は崩壊したジグソーパズルを踏みつけながら踊り惚けていることだろう。

 僕は肩を落としながらそのまま国道に向かって歩き始めて、よっぽど自分を回復させたいときにしか立ち寄らないちょっと高い焼き肉屋に足を踏み入れていた。


 中に入ると昼過ぎなのにもかかわらず席は埋まっていて、待合にも何人か待機していた。


「あ、あの時の」


 待合席の端に腰を下ろすと隣から声が聞こえた。


「誰ですか?」

 わたし、わたしと女性は自分の鼻を指差している。記憶は特にないからおそらく僕がではなく彼と会っていた人だろう。



「ほら、朝あなたわたしのこと追い出したでしょ」

 あ、あの人か。

 思ったことがそのまま口から漏れていたようで彼女はあの人って何よ、と愚痴を溢しながら脚を組み直した。



「あの人って。一応ワタシ有名なんだよ」

 彼女はほら、と言ってスマホの画面を見せる。画面にはyoutubeが開かれていて彼女らしき人物が写ったミュージックビデオが再生されている。再生回数12万。

彼女は黄色のドラム式洗濯機が並ぶコインランドリーで歌っていた。

 へぇ、という感嘆詞が口からこぼれ落ちて彼女はそこでスマホをスリープにさせた。見上げると店員さんが彼女を呼んでいて、彼女は僕の手を何故か握って僕を立ち上がらせ二人で、と言った。



 僕が口を挟む間もなく彼女は次々と肉を頼み、あっという間にテーブルが大皿で埋まる。

 頼んだのはカルビにタン、あと稀少部位をいくつか。

 網にはそれらが乗り、彼女は大盛りのご飯の上にカルビを海苔みたいに乗せ箸で器用に巻いて次々と口に運んでいく。


「お金は各自でってことで、いいですよね?」



「いいよ。アタシのおごり」

 人気アーティストだって言ったでしょと彼女は笑う。口の端に米粒つけて男子高校生かよ。



「ねぇそれより、この後どうする?」


「どうって。別に」

 彼女が茶碗を置いて改めて僕の顔を見る。


「なに、それマイブームなの?」


「何がですか?」


「だからその奥手くんキャラ」

僕は心底意味がわからなくて首を傾げるしか無かった。


「アンタ、どうしたの」

 彼女の瞳には八割の困惑と二割の誘惑が渦巻いている。

 顔を歪める彼女が期待することは分かっていた。でもその誘いには乗らない。期待を寄せるのは僕ではなく軽率な男担当の彼にして欲しい。だって僕には心に決めた人がいるのだから。



「今日はおしゃべりだけにしませんか」

 掻き込んでいた器が置かれ、彼女の視線が分かり易く下に落ちる。



「なんか違う人みたい」



「ええ、そうです。僕、二重人格なので」

 彼女の瞼が開かれ、はの口のまま固まっていた。網の端ではハラミが間もなく炭になろうとしている。他人だし、僕にはそもそも関わり合いのない人だからすんなりと打ち明けられた。



「僕らは昼と夜で入れ替わるんです。すごい分かり易いでしょ」



「え、じゃあ本当に私と一緒にいたのは違う人というか、」



「そうです。僕は『彼』と呼んでいます」

 彼女は全然飲み込めていない話を無理矢理水で流そうとグラスを口に運ぶ。



「彼は酒と女性とスリルに溺れるが大好きで、軽薄で、狡猾で、残忍な男ですから」

 自嘲の言葉はポップコーンみたいに弾け口から出てくる。レンジの中で加熱されている不満はまだまだ色々と燻っている。



「悪いことは言いません。だからもう彼とは会わない方がいいです」

 彼女は黙ってしまった。おそらく話しがまだ飲み込めないのだろう。彼女は食べきった器や皿を重ねテーブルの端に寄せると、店員さんに灰皿を頼んだ。

 たばこに火をつけると細い煙が換気扇に吸い込まれていく。


「そうかな」


「え、どういうことです?」


「ワタシにはあの人、寂しく見えたけどなぁ」

 切りそろえられた前髪の下、猫みたいな彼女の瞳が僕を見る。


「そんなことないですよ。彼は抱ければ誰でもいいし、暇が埋められれば何でもいい男ですから」


「ワタシはそうは見えなかったよ」

 強情なやつ。だからくっつくのか。何にしろダメだ。この人は全く分かっていない。

 掬いあげたコップ一杯の水ぐらいで僕らを、いや僕を分かったふりをして、同情のつもりなんだろうか。その辛さ分かるよ、と彼女の瞳が僕に共感を求めている。数枚程度しか食べていないのに胃がいつもより重い。


「ワタシもね曲創ってるとさ、たまに別人みたいになっちゃうことあるんだ」


「それと一緒にしないで欲しいです」


「え、違うの?」

 もういい、と僕は財布から何枚か取り出しテーブルに叩きつけた。他のテーブルから視線が飛んできたが構うことなく、呆気にとられる彼女の顔を見下ろしながら立ち上がり店を出た。


 店から飛び出してきた彼女が待ってと叫んだ。振りかえると彼女の声に驚いた店員が自動ドアの前で固まっていた。


「あなたもあの人もひっくるめてキミなんでしょ。だったら丸ごと愛したらいいじゃん」


 それじゃ、と言って彼女が踵を返す。


 簡単に言うなよと、彼女の背中に向けて中指を立てた。


 カウチに掛けて俺は中指なんて何で立てたのだろうと考える。

 そうさせたのは俺だろうかそれともあいつだろうか。あるいは彼女―――か。


「変な女」


 独り言が重なった気がした。

 つきっぱなしのテレビには浮き雲が映っている。暢気だとは思ったが、悪くない景色だと思った。

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