第57話:early morning...




 chapter1

 ロウイチ 89歳,男




 どうせなら、波の穏やかな太平洋側で迎えたかったものだ。


 ホームの窓から見る日本海は台風が近づいているせいで波は高く、岩肌にぶつかると白く爆ぜる。

「ロウイチさん、外に出ますか」

 呆然と波の満ち引きを見ていると新人ヘルパーのミホちゃんが私の顔を覗いたのでとりあえず頷く。

 窓が開き、顔や、首もとに風が当たる。ゆっくりと車いすが潮騒のもとへと近づいていく。

「今朝は、冷えますね」

 ミホちゃんは、ホームの制服から露出した白い腕を一生懸命さすっている。秋は気温が移ろいやすい。どうやらワタシもミホちゃんも選択を間違ったみたいだ。

「そうかい?」

 パジャマの襟元から海風がビュウビュウと入ってくる。だがあまり感じない。

「あー、昨日洗濯しなきゃ良かったー」

「秋は難しいよね」

 ですね、とミホちゃんが私を見下ろす。すると何かに気づいたのだろう、瞼がぱっと開いた。

「あっ、すみません。毛布掛けなきゃ」

 ミホちゃんが腕に掛けていた毛布をワタシの身体に掛けてくれた。

「悪いねぇ」

 大学二年のミホちゃんは学業をしながら、このホームに通っている。年寄りの世話をするのが毎日楽しい、なんて言ってるちょっと変わった子だ。ちょっとそそっかしいところもあるが、毎日会えば笑顔をくれるし、認知症のじじばばにも嫌な顔一つせず接し、むしろ楽しそうに仕事をしている。最近はホームの仕事のせいで大学の出席が危ういとか、なんとか。まぁ、先の短い私には関係のない話だが。

 このホーム、いやホスピスに入ってからもう2年が経つ。

 持って二ヶ月と言われて入ったのにもう二年か。

 最近は息子のタカシも奥さんのユイコさんもここに来るとき、私を腫れ物みたいに見なくなっていた。

「ミホちゃん、この前さタカシが来たときのこと覚えているかい?」

 はい、とミホちゃんが頷く。

 海は灰色でなんとも味気ない。もう、本当に後がないというのに。なんともしょっぱいものだ。

「ミホちゃんが呼ばれて私の部屋を出て行った後、『親父はいつ死ぬんだ?』なんて聞かれたんだよ。だから、頭叩きついてやったんだ」

 それはひどいですね、とミホちゃんがクスクスと笑う。

 笑って吐き出す息は微かに白い。きっと寒いのだろう、ミホちゃんの膝小僧は真っ赤っかだ。

 目の前は灰色の海に灰色の空。

 だからなのか、ミホちゃんの笑顔はここで見る笑顔のどの笑顔よりも温かく私の目に映る。私と同じくらい腕も足も細いというのに、ミホちゃんは微かに震える自分の足でテラスを踏みしめ、真っ直ぐ立っている。どうして前を見ているのだろうと考えたとき、洟を啜る音が隣から聞こえた。

「どうしたんだい?」

 ミホちゃんは声を上げず泣いていた。

 まるで欠伸と一緒に出る涙のように、自然に、そして不意に、溢れる。

「だって、ロウイチさん。ワタシが始めて担当した人だから……」

 ああ、誰かがワタシがもう長くないことを漏らしたのだろう。

 この年の子は人一倍感受性が高い。だから伏せておいてと言っておいたのに。

 まぁでも、いきなりいなくなるのもそれはそれで酷だろうか。

「ミホちゃん」

 瞼を拭ってミホちゃんはワタシを見下ろした。

「キミは多分、この仕事向いてないよ」

 へ、と言う形のまま、ミホちゃんはワタシを見つめている。 

「ひどいですよ。私がそそっかしいからですか?」

 そうか、自覚はあったのか。

「ちょっと笑わないでくださいよ」

「ごめんね。でもキミは向いてない。こんなとこにいるべきじゃないよ」

 いたずらっぽい笑みがミホちゃんの顔から消えた。

「ちょっと……なんでそんなこと言うんですか。根拠もないのに」

 遅れてやってきた苛立ちが顔に表れる。

 砂浜を散歩する男女がテラスから見える。ミホちゃんはあそこにいるべきだ。少なくとも今は。

「老人の言うことは聞いておくものだよ」

 ミホちゃんは呆れたのか、カラカラと笑う私から目を逸らして真っ直ぐ前を見ている。涙は止んだみたいだ。

 太陽がゆっくりと上がってきているのか、空がうっすらと白んできている。

「戻ろう、ミホちゃん。年寄りにはこの寒さは毒だ」

「はい」

 潮騒がゆっくりと遠ざかっていった。


 Chapter2

 ユイコ 58歳,女


 ロウイチさんが亡くなった。大往生だった、と思う。


 葬式をあげてから、一ヶ月が経ち、私は今、週末たまに呼ばれる洋食屋に向かって車を走らせている。

 顔が寒くて起きてしまい、ベッドから這い出て気温系を見ると10度を切っていた。もうすぐリョウイチさんが好きだった冬が来る。

 リョウイチさんが冬が好きな理由は花粉が舞わないから、だそうだ。

 今思い出しても笑える。だけどその理由の他にリョウイチさんは冬を見ていると落ち着くとも言っていた。

 そう言い出したのは、ホスピスに入ってから半年経った頃のこと。

 リョウイチさんが言うには、枯れた木や雪に覆われる街の風景を見ると受け入れる準備が出来るのだそうだ。ベッドから身体を起こして少し寂しそうに呟く背中を私は結局、ごく最近まで直視できなかった。後悔しても今更遅いがもっと気の利いた言葉は掛けられたし、心の支えにも慣れたはずだ。考えても仕方がないことが車窓から見える雲空の上を流れている。

 これから雨が降るのか、今日は節々が痛む。

 ずっと乗っていると持ち主に似てくるのか、私の乗るマーチも最近ブレーキを踏むと嫌に鳴く。そろそろいつも預ける修理屋さんにでも行こうか。クミおばあちゃんの顔も見たいし。そんなことを考えていると、スマートフォンに着信が入った。

「ユイコちゃん。今走ってる?」

 洋食屋のシエミさんからだ。

「うん、走ってるよ」

「ほんと、じゃあ卵二パックぐらいコンビニで買ってきてくれる」

 通話口の奥からはいろんな音がする。

 フライパンの上で脂がはねる音。ガス台に火がつく音。鍋でお湯がぐつぐつと。これから手伝いに向かう洋食店は今、モーニングの仕込みに大忙しみたいだ。

 分かりました。と暢気に返すと、ほんと、ありがとうと言ってシエミさんはすぐに通話を切った。

 朝の国道はほとんど車がなく、対向車線をすれ違うのは運送トラックばかり。

 開けた一本道を真っ直ぐ進み坂を上がる。その先に白い屋根の小さな店が見えてきた。

 まだ外は薄暗く、厨房の灯りが薄闇の中でぼうっと光る。

 砂利の敷いてある駐車場の端に車を着けて、店のドアを開けるとシエミさんがグラスを拭いていた。

「ごめんねぇー。ほんと」

 いえいえといいながら卵二パックが入った袋を見せる。

「奥に置いとけばいい?」

「うん。ごめんねー。いきなり呼んだりしちゃって」

「いいのよ。いつも美味しいモノ食べさせてもらってるんだから、これくらい当然よ」

 そう言い残して厨房へ入ると、バターの香りがワタシを包んだ。

 中では店主兼シェフのユキトシさんがスクランブルエッグを作っている。

 ここでは早朝限定でパン生地から手作りしたサンドウィッチを限定で50個販売しているのだ。多分もうすぐ誰かが店先に並び始めるだろう。日曜朝の六時にもかかわらずお店には人だかりが出来、サンドウィッチはあっという間に完売する。近所での評判は不動だ。タイミングを逃して食べれない人も居る中、そんなサンドを毎度食べられる私はどんなに幸せだろうか。

「お、ユイコちゃん。おはよう」

「おはようございます」

 シンクで手を洗い、厨房の机に置いてあるエプロンを着け、準備完了。

「とりあえず、トマト切っちゃえばいい?」

「うん、助かるよ」

 仕込みの手伝い。レジ打ち。たまに列の整理。

 時間はあっという間に過ぎていった。


「はぁー、お疲れ」

 店内の片付けを終えてレジ横の席に座っていると目の前にカフェオレが置かれた。

 喉が渇いていた私はストローで一気に吸い上げる。すると、つぶつぶの食感。

 前を見るとシエミさんが気づいた、と私の顔を見た。

「試作品」

「これって?」

「そう、タピオカ。この前息子に『もうちょっとはやりのモノ取り入れたら』って言われてね。だからお試しで作ってみたら意外と美味しくて」

「へぇー嘉納君元気かな。あれ、タピオカはってどこで仕入れてるの?」

「相変わらずふらふらしてるけど元気みたいよ。ああ、それはね。お試しだから市販の冷凍のやつ。今、タピオカってスーパーで売ってるのよ」

「へぇー、そうなの」

 不意に旦那の横顔が過ぎった。

 休んでも疲れが抜けないんだ。と言った彼の横顔は確かにひどく疲れていて、まるでゾンビみたいだった。

 シエミさんとお茶している間に厨房の片付けを終えたのトシユキさんがテーブルに着く。

 置かれたのはいつものプレート。

 ふるふるに輝く分厚いたまごサンドに、ソーセージサンド。ソーセージにはハーブが練り込まれていて、口の中でパリッと割れると熱々の肉汁が広がりバジルやパセリ、スパイスの香りが鼻に抜ける。付け合わせのフレッシュサラダに入るトマトやレタス、キュウリは全部近所の農家からもらっているモノを使うためどれも新鮮だ。それに今日は寒いから店内で食べるお客さんにサービスで出したミネストローネがマグに注がれている。

 朝からこんなに贅沢してもいいのだろうか。

「どうしたの?」

 プレートを前にして固まる私をサンドをかじりながら二人とも不思議そうに見つめる。

「ごめんなさい。これ全部ラップしていいですか?」

「いいけど?あ、ごめん……これから忙しかった?」

「いえ、そういうわけでなく。これを食べさせてあげたい人がいるので」

 私は厨房に入ってラップでプレートに乗るサンドを包み、ミネストローネはお持ち帰り用の容器に移し替える。

「お皿とか器は今度遊びに来たときでいいからね」

「ありがとうございます」

 私は店を出て、助手席に包んだモノを乗せて自宅に向かってくる間を走らせた。

 いつもここから私は幸せをもらっている。だからたまには分けてやるのだ。


「俺が『親父はいつ死ぬんだ?』なんて言ったから親父は死んでしまったんだ」

 夫のタカシは自分が言ったその言葉を未だなお引き摺って生きている。

 最初は夫の俯いた姿が不憫に思えて、一生懸命励ましてみたけれど、そろそろ一ヶ月が経つ。

 ロウイチさんはあの海が見えるホスピスで静かに息を引き取った。

 だが私たちはまだ生きている。

 息をして、ご飯を食べて、泣いて怒って笑って、そんなことがまだ精一杯出来る。

 このラップに包まれた幸せ達を私はあのバカ旦那に突きつけて分からせてやるのだ。美味しいと吠え面をかく旦那の顔を思い浮かべながら私はアクセルを踏んだ。

 雲間から一筋、日の光が私に向かって差していた。




 Chapter3

 ユイト 31歳,男




 16回目の失敗の朝を迎えてから俺は会社に籠もるようになった。 


 昔から俺は絵が書くのが大好きだった。でも世界は怪物だらけで、高校を卒業すると筆を折って、カメラを持つようになった。そして紆余曲折あり、俺は今グラフィックデザインを飯の当てにしている。

 依頼され、制作し、入稿する。

 忙しいというのはいいことだ。いろんな事が忘れられる。

 たとえばそれはありふれた幸せだとか、それで立ち止まってしまうんじゃないかと言う不安とか、あるいはインポテンツであったり。


 保育士の彼女と知り合ったのは友人の結婚式に行った帰りのことだ。飲み過ぎた俺を解放してくれた事が二人の出逢いのきっかけだった。

 彼女は朗らかで子供が大好きで、仕切り屋なところがあってたまに喧嘩になるけど俺を7年も愛してくれている。

 付き合って半年で同棲を始めて、27の時に俺は彼女と結婚した。

 もう4年だ。新婚とは言えない。なのに俺達には子供がいなかった。


 結婚した当初はお互い仕事が優先順位のトップにあって、多分彼女の方ですら子供を持つなんて考えていなかったと思う。だが3.11の時のドキュメンタリーを見ていた時、丁度去年の今ぐらいか彼女がぼそっと呟いたのだ。

「アタシ、子供が欲しい」と。

 彼女も言いたくて言ったわけではなかったようで、自分の口からそう漏れたとき、すぐに彼女は口元を両手で覆った。

 だがもう遅かった。

 多分その時からだと思う。セックスレスになったのは。


 前は頻度なんて特に考えず、どっちかが寂しいときは自然と身体を重ねて温めあっていた。少し寝て、ヤッて、また寝てなんていう日が今ははもう遠い。

 以前の俺達にとって二人の夜というのは明日を生き抜く糧であり、道草であり、雨宿りでもあった。だから気楽だった。だが子供が欲しいと言ったあの日からそういった行為の全てに意味が生まれてしまったのだ。俺達はいつの間にか快楽を義務にすり替えていた。


 俺は途端に夜が来るのが恐くなった。

 隣で眠る彼女を起こさないようにベッドに入るが彼女は起き出してきて眠い目を擦りながら俺の股間を触ってくる。

 別に悪い気はしないけど―――。

 最初はそんな感じだった。

 頭の中で広がる快楽に身を委ねれば、前の自分と何ら変わりない。そう言い聞かせ、俺は腰を振り続けた。

 だが「外していいんだよ」と言われる度、身体を重ねる頻度は減っていった。一週間に一回が、二週に一回に変わり、そのうち一ヶ月に一回に減っていく。

 だが夏場すれ違う女性の露出した肌に目を奪われたときや、寂しいと感じるときだって当然あった。そういうとき俺はネット喫茶に行ったり、同僚と風俗に通った。

 そんな日が続いたある日、彼女に風俗嬢の名刺を突きつけられ、つい俺が心ないことを言ってしまった。

 俺の言葉に彼女は逆上して、後は売り言葉に買い言葉。

 一週間、俺達は顔を合わせても一言も話さなかった。

 これではダメだ。そう想って彼女に謝り倒し、やっと許してもらい俺は父になる覚悟を決めた。

 そして望んだ夜、俺の股間はうんともすんとも反応しなかった。

 3回目の失敗を迎えた朝、俺達は昼過ぎに病院へ向かった。

 原因はストレス。医者は何でもそれで片付けたがる。

 とはいえ、医者の言うことだ、と言われたとおり、俺はまず生活リズムを整えた。

 午後出勤を午前に変えてもらい、カロリーメイトで済ませていた朝食は早起きしたどちらか作るというルールを彼女との間に設けた。

 だが、ダメだった。やっぱり勃たなかった。

 あれ、おかしいな、と彼女に馬乗りになってるのにそこでまごつく俺を彼女は気まずそうに見守っている。

「焦んなくていいよ」その言葉が俺を焦らせ、

「私は幸せだから」その言葉が俺を堕としていく。


「嘉納君。まーた、徹夜……奥さん心配してるんじゃないの?」

 重たい瞼を擦りながら振り向くと二つ年上の先輩ヒトミさんがいた。

 艶めいていて緩く巻いた自慢のワンレングスも今はぼさついている。

「お互い様ですよ。チャコちゃん心配してるんじゃないですか?」

 チャコちゃんというのはヒトミさんが買っているビーグルのことだ。休憩になる度、先輩が愛犬動画を見せてくるのでもうすっかり顔を覚えてしまった。

「たしかにあたしも帰らないと……ってもうこんな時間なんだ」

 言われて窓の外を見ると、真っ暗だったはずの空が白を取り戻していってる。人々は駅に向かい、カラオケ館の入っているビルはまだまばらに灯りがついている。

「俺も一段落したし、そろそろ帰ろ」

 組んだ手をぐんと突き上げ、身体を伸ばす。見渡すとオフィスには俺とヒトミさん以外誰もいなかった。

 不意にヒトミさんと目があった。

「ねぇ、ちょっと私の家で休んでいかない?」

「いや、それは……だってこれきりって決めたじゃないですか」

 俺が決まり悪そうに笑うと、だよね、とヒトミさんが大げさに笑いを被せてきた。


 彼女との関係が煮詰まってどうしようもなくなった夜、俺は酔った勢いでヒトミさんとホテルへ行った。

 部屋の鍵を閉めるとさっきまでそんなつもりなかったのにどうにも抑えきれなくなって、ヒトミさんの唇に俺は強引に吸い付いた。

 そのままヒトミさんの胸をまさぐると股間はどんどんと熱を帯びていって、まるで変なクスリでも飲んだかのように俺の頭の中は真っ白になり、無我夢中で俺はヒトミさんのシャツのボタンを外し、ブラのホックを外した。

 そこには見ただけで嫌悪感すら感じていたおっぱいがあった。

 たかが乳房。人間を構成するパーツの一種に過ぎないのに、両手は自然と吸い寄せられていった。

 迷わず俺はそれに顔を埋め、舐めるとヒトミさんの吐息が漏れた。

 それから焦りすぎ、と笑いながらヒトミさんはシャツのボタンを外してくれた。ゆっくりと。それがまた溜まらなかった。

 ヒトミさんは俺にしなだれかかりながら、胸の真ん中、腹筋、臍とキスをしながら体勢を落としていき、床に膝をつくとベルトをカチャカチャと弄りだした。

 ベルトを外し、スラックスを下ろし、ここまではスムーズだったがトランクスを下ろそうとすると引っかかるものがあった。彼女の前では偶然どころか奇跡ですらあったことが必然に変わっていた。

 自分で脱いでと言われ、トランクスを脱ぐと、俺の股間は屹立していた。

「あーあ。こんな……」

「あ…ほんとだ」

「もう、高校生みたい」 

 ですね、と笑うとヒトミさんは嬉しそうに咥えてくれた。


「じゃあ、朝マックでもどう?」

「まぁ、それなら」

 俺とヒトミさんは手早く荷物をまとめ近くのマックへ向かった。そこで俺はマックグリドルを頼み、ヒトミさんはエッグマックマフィンを頼み、二人駅前が一望できる席に座った。

「ねぇ。例の件考えてくれた?」

 例の件。

 それは夜通しさんざヤッた後のベッドで言われた。

 来年、ヒトミさんはこの会社を辞め、自分で小さなデザイン会社を立ち上げるらしい。そこに俺は新規スタッフとして引き抜かれているのだ。

 ヒトミさんは入ったときからずっと憧れの人で、第一線を歩く彼女の凜とした背中に触発されて俺はいつも制作に励んでいた。そんな人に才能があると認められたのだから二つ返事で受けたい。だが事はそう単純ではない。

「キミが欲しい」とストレートに伝えられ、しばらく面食らった後俺は「買いかぶりすぎですよ」と躱したつもりだった。だが眼差しは今まで見てきたヒトミさんの顔の中で一番真剣で、だから俺はそれ以上はぐらかせなくて、そして今、また決断を迫られている。

「大丈夫。両立できるようにスケジュールは調整するから。それにパパになったらちゃんと定時上がりを心がけるわ」

 うちはホワイト企業だから、と言いながら笑う。

「ほんとですか」

 ヒトミさんに合わせて笑う。

 いつの間にか引き直したのか唇には赤いリップが乗っている。笑う姿はまるで悪魔みたいだ。

 パパになったら。そんなこと簡単に言わないでくれ。

 叫びたい気持ちはあったがこの人に俺の事情を話してはいないため事を荒げることは出来ない。

 とりあえずどう切り抜けようか、それを考えるために俺はホットコーヒーを啜る。

 かじりついたマックグリドルからホットケーキの甘みと、そこに心地よく肉のうまみが重なる。

 啜る珈琲は寿司屋でいうがりみたいなモノで、口の中を甘ったるくしすぎないでくれる。

 俺と彼女だって最初はこんな感じでお互い引き立て合って、察しあっていた。だが歳を重ねるにつれて友達のような距離感はなくなり、目の前には夢か家庭かその分岐が現れる。

「こんなこというのは嘉納君しかいないんだよ」

 頬杖を着きながらヒトミさんは笑っている。細い手首にはシチズンの腕時計が巻かれている。数字盤の窓が細長いやつ。俺が誕生日に送った奴だ。

 照れているのか、それともこの仕草自体が計算なのか、ヒトミさんは俺と目をあわさず窓の外の景色を見ている。

 赤に黄色に緑。せわしなく動き出したJR線がホームに入っていき、人々を運んでいく。

 今の俺にもレールがあったらどんなに楽だろうか。

 自由になってから後悔ばかりしている気がする。

 スケジュールどうこうの問題ではないのだ。

 二つ返事できないのはどんなに家庭のある男を加味したスケジュールをヒトミさんが組んでくれたとしてもむしろ俺がそれを守れない予感がするからだ。俺は1度始めたプロジェクトは納得のいくまで、何度でも何時間でもやってしまうのだ。

「私がこれから作る会社にはしつこくて、力強い男が必要なのよ」

「そ、そうですか……」

 昔から俺は表現者になりたくてなりたくてどうしようもなかった。

 それが原因なのか、筆やカメラを1度握ると対象以外何も見えなくなってしまう。それは大人になった今でも変わらない。

 同棲を始めて一年目の頃、会議だ、打ち合わせだ、制作だで何日も家に帰らなかった期間があった。

 その時は何かを作り上げることが楽しすぎて、彼女が頭の中からすっぽりと抜け落ちていた。

 多分その日、地震がなければ俺達はとっくに別れていただろう。


 徹夜明けの朝のことだ。

 会社のラウンジでカップラーメンを啜っていると突然ビルが音を立てて揺れた。


 震度は3。


 後になって思えば別にたいしたことはないが、揺れが収まってすぐ俺は彼女に連絡した。


 すぐかえから。


 すぐに、かえるからと付け足す。

 漢字変換も出来ずメッセージを打ち込んでしまった。

 再送しようかと迷う数分、待ったが返事は帰ってこない。

 俺は全ての予定を中断し、伸びたカップラーメンも食べかけのまま机に置き去りにして走って家に帰った。ゲリラ豪雨じゃあるまいし、そんな局地的に震度が変わるなんて事なんてないのに胸の中には焦燥感ばかりがあって、俺は止まれなかった。

 ドアを勢いよく開けると、テレビの前であぐらを掻いて彼女はニュース速報を見ていた。

 肩で息をしながらただいまと呟くと、彼女は振り返って拗ねた子供みたいにおかえりと返す。

 その時、当たり前にそこにある彼女の小さな背中を確認して、よし、と思う自分がいた。安堵した自分はすぐに踵を返そうとしていたのだ。何も考えられなくなるくらい心配していたというのに、無事と分かった途端やりかけの仕事が幾つも頭に過ぎった。


「ユイトはこんな時じゃないと帰ってこないんだね」


 冗談のつもりで彼女は言ったのだろうが、俺は彼女の言葉にぞっとしてしまった。それから俺はその場から急に動けなくなってしまって、その時しばらく見つめていた彼女の背中が今でもまだ頭にこびり付いている。


「ヒトミさんは家庭を持とうとは思わないんですか」」

 急に話題を変えたことに驚いて、ヒトミさんは俺を見た。

「え、なんで」

「ほらお綺麗ですし。男の人はほっとかないですよ」

 そうね、とヒトミさんは考え込む。

 この人は下手にはぐらかしたり、謙遜もしない。いつも剥き出しで何事にもぶつかってきた人だ。

 だからこの人に見つめられると俺はつい、逃げたくなってしまうのだ。

「うーん……今はかわいい甥っ子がいるし。それでいいかな」

 ヒトミさんはポケットからスマホを取り出して俺に見せた。待ち受けには芝生の上を楽しそうには知って向かってくる男の子の姿があった。

「名前はタクト。かわいいでしょ」

「たしかに」

「今度、妹の明美とタクトと一緒にディズニーに行くんだ」

 これおそろいなんだ、と前言っていたテントウムシのキーホルダーが揺れている。

「ウキウキですか」

「うん。仕事が手につかないくらい」

「それは困ります。やめるとはいえ、ヒトミさんの抱えているタスク会社にとって結構ウェイト高いんですから」

 分かってますよ、と言いながらヒトミさんはマフィンの最後の一口を口の中に放った。

「じゃ、そろそろ行こっか」

 ヒトミさんは手早く荷物をまとめ、トレイを持つ。 

「え、もう行くんですか?」

「うん。髪の毛ベタベタだし、早くシャワー浴びたいから」

 慌てて俺も立ち上がり、トラッシュボックスの上にトレイを置く。

「待ってくださいよ!」

 マックを飛び出た。


「嘉納君。アタシ、そんなに待たないからね」

 改札を抜けてそれぞれのホームへ向かう前、ヒトミさんはそう言って俺に向かって微笑んだ。


 最寄りについて、改札を抜け空を見上げる。

 まるで何かを書き足すのを待っているかのように雲一つない大空だ。

「なのに雨とは、ねぇ」

 青天の霹靂。

 予定調和が崩れる予感。

 イヤホンからはASIAN KUNG-FU GENERATIONのムスタングが流れていて、なんとなくだがもう、戻れない気がしていた。


 Chapter4

 セイ 19歳?,女?

 

 助手席に乗り込んだパパは私のパパではない。 

 カミサマに必死にお願いをして、叶ったはいいがそこまで上手くはいかないモノだ。本当は一生という時間を味わってみたかった。けど私のショーはせいぜい6時間程度。まぁ女子高生になれたことだし、それでよしとするか。


「セイ、大丈夫か?」

 パパはシートベルトがきちんとロックされているか何度も確認しながら私の顔を覗く。

「平気だよ」

 ハンドルを握る手は少し汗ばんでいて、私はクーラーをつけようとした。

「セイ、それはパパがやるからまずはほら、ミラー確認して」

 都内の美術大学の受験がすんなりと終わり、私は先週仮免許を取った。

 向こうで一人暮らしを始めてから教習所に通おうかとも思ったが、ママの言うことを聞いておいて正解だった。

 なぜなら都内では交通量が多く、そのせいで仮免許をとっても路上を走ってはいけなかったからだ。

 教習所のおばさんは口うるさくて嫌いだけど、運転は楽しい。それに免許を取ったら受付のお姉さんサキちゃんとドライブデートに行こうと約束している。教習の時間だけじゃ当然実践が足らない。

「パパ何してんの?」

「いや、ほら。セイも安全確認してるからパパも念には念をな」

 パパは胸に掛かるベルトを何度も引っ張っている。そんなに私の運転がいやなのか。

「別に恐いわけじゃないからな。パパはセイのこと信じてるぞ」

 はいはい、と言いながら私はエンジンを掛ける。

 今乗ってる車はパパの愛車、黄色のレンジローバー。丸目がかわいくて私も結構気に入っている。

「安全確認終わった?」

「ああ、終わったよ」

「じゃあ、行くよ」

 うんとパパは小さく呟いた。ちなみに新車で購入したため、まだローンは半分ほど残っているらしい。

 家の駐車場を出ると私はパワーウィンドウのスイッチを押した。

「ああ!それはパパがやるから」

「うるっさいなー。それくらい出来るよ」

 家を出て、バス停のところで右に曲がって、橋を渡って、信号手前のファミリーマートまで行き、食後のアイスを買って来た道を戻る。曲がるところは一カ所だし、中学の時は良くこの道を歩いていたし、だけど今は遠く感じる。

 対向車のライトが見えると身体に力が入る。外輸入車だからさっきウィンカーとワイパーを間違えてしまいパニックになってフロントガラスにウォッシャー液を意味もなく撒いてしまった。

 フロントミラーに後続車が映ると、なんとなくアクセルを踏み込んでしまう。

「セイ、もうすぐ道が狭くなる。もうちょっとスピード落としなさい」

 うんと言って、教習所の感覚でブレーキを踏むと急ブレーキになってしまった。

「ああもう。だからジムニー直ってくるの待とうって言ったんだよ。外車は色々ピーキーだから」

「うるさいな。分かってるよ!」

 つい怒鳴ってしまった。隣を見るとパパは黙ったまま、俯いている。パパは確かに何度も、しつこいくらいもう少し待とうって言っていた。だけど私は早く運転が上手くなりたくて、ママに説得を頼んでやっとパパが首を縦に振った。パパは友達に絶対に車を下層としないし、家族で遠くに出かけたって自分の車で行くときはママにだって運転席を譲らない。それなのに私は今ここに座れている。

 ナイーブになって当然だ。

 私は沈黙がいつまでも流れるのが嫌で、オーディオのスイッチを入れようとした。

「ああ、それはパパがやるから、セイは前を見て」

「うん。ごめんパパ」

 ラジオからはパパが好きなバンドの曲が流れている。

 ASIAN KUNG-FU GENERATION、荒野を歩け。

「この曲いいよね」

「セイ、このバンド嫌いだったんじゃないのか?」

「うん。でもこの曲だけは好き。それに今の気分にすごく合ってる」

 そっか。と言ってパパは始めて笑った。

 夜風が私の頬に当たり、オレンジの街灯が私の上を通り過ぎていく。

 視界の先に信号機が見えた。もうそろそろドライブも終わる。

「セイももっと運転が上手くなったら好きな音楽を聴いて遠くに出かけてみな。きっと楽しいぞ」

「そうかもね」

「その時はパパのお気に入りばかりを集めた自作アルバムをあげるよ。きっと素敵なドライブになるぞ」

「それはどうかな。私パパの聴いてる音楽趣味じゃないし」

 パパが参ったな、と呟いて、私は信号手前でゆっくりブレーキを踏み減速する。今度は間違えず左にウィンカーを出し駐車場に入っていった。

「パパ下りるか?」

「いや、任せて」

 深夜のコンビニにの駐車場には運送トラックが一台止まっているだけだった。

「頭からでいいからな」

 私はうんと言ってハンドルを右に切り、後ろを見た。

「ちょっと、セイ?」

「見てて、これだけは教習所で褒められたんだから」

 車をぐんと前に出し、バックギアに切り替える。後はミラーを見ながら白線で区切られたスペースに入れるだけ。

 レンジローバーは横幅が広いから一回切り替えしたけど真っ直ぐスペース内に停められた。

「セイ、すごいな……」

 パパは両手で膝を掴みながら固まっていた。驚いた顔がコンビニから漏れる光りに照らされている。

 ギアをパーキングに入れ、ピース。

「どう?すごいでしょ」

「うん、すごい。セイはもう……大人なんだな」

 パパは腕で顔を拭っていた。

「そうだね、私はもう大人だね。だからパパはもう―――必要ないよ」

 私は笑顔でそう言った。

 ひどいなぁ、と、上擦りそうになる声を押し殺しながらパパは笑っていた。

「ひどいのはパパの方でしょ。おねぇさんにまんまと絆されちゃってさ」

 リミットが近づいている。もうすぐ朝が来る。

「なんで、そのことを……」

 パパは腕で顔を拭い私を見る。

「パパ、じゃないね……嘉納唯人さん。あなたはこれから一つの決断をします」

「急にどうした? 随分と他人行儀だな」

 私は構わず続ける。

「それはあなたにとって一生ものの選択となるでしょう。その選択が吉と出るか、凶と出るかそれは私にも分かりません。だけど決断をしなければなりません」

「このまま、だらっととはいかないのか?」

 何かを察したのか、やっぱりか、と、俯く。

 彼に私は発破を掛ける。

「だって、あなたは私よりずっと大人でしょ?スパッとした大人の格好いいところ私に見せてくださいよ」

 いたずらっぽく笑うと、彼は参ったな、と頭を掻いた。

 身勝手な彼だけど、彼だってそれなりに悩んで苦しんできた。だからもう、自由にしてやってもいいはずだ。

 

 私のパパはパパじゃないし、ここは現実ではなく夢の中だ。

 そして私はその一時に居座った幻影、あったかもしれない一つのカノウ・セイ。


「ほら、目覚まし鳴ってますよ」

 秋の夜長がもうすぐ明けようとしていた。




 Chapter5

 タクト 10歳,男




 僕の恋人は23歳年上のお姉さんで名前は伴 一美という。


 織田卓人、10歳。小学校5年生。周りはもちろん、同い年の子ばかりだ。

 クラスの男の子はみんな変身ベルトが好きで、女の子はマジカルステッキが好きらしい。僕は正直そういった話に興味がない。

「タクト、今度の日曜さ。田んぼにカエルとりいこうぜ」

 僕が席についてランドセルを開けると、隣の席の吉田君が話しかけてくる。

「ごめん。予定ある」

 カエル?そんなもん捕まえて何が楽しいんだか。

 あんなのヌメヌメしてるし、気持ち悪いだけだ。

「織田君、今度一緒にバスで近くのショッピングモールに行こうよ」

 今度は前の席の高井さんが話しかけてくる。

「ごめん、予定あるんだ」

 さっきより少し柔らかい口調で断る。なぜなら相手は同い年とはいえレディだからだ。

「タクト、予定ってなんだよ」

 隣の席の吉田君がそう言うので、僕はちょいちょいと手招きする。

「日曜はデートなんだ」

 デート?

 吉田君が大声で叫ぶとクラス中が僕を見た。そしてなになに、だれだれと尋問タイムが始まる。

 ああもう、言わなきゃ良かった。


「ってことがあってさ」

 母さんが運転する隣にヒトミさんは座っている。後ろに座らされた僕は運転席と助手席の間から顔を出してヒトミさんに話しかけている。「こら、タクト。危ないからシートベルトしてなさいって何度も言ってるでしょ」

 もう、と母さんが溜息をついた。

 今僕らが向かっているのは夢と魔法の国。僕はここで叔母のヒトミさんに告白しようと思っている。

「私も昔、蛙とるの好きだったよ」

「え、そうなんですか?」

 言いつけを守ったのも一瞬のこと。すぐに間からまた顔を出す。ったく私の言うことなんて聞きやしない、と母さんがまた溜息をついたが別にどうでもいい。

「おねぇちゃん、昔から虫とか蛙とか蛇とか好きだったよねぇ」

「あと、蜥蜴もね」

 ヒトミさんはドラマから出てきたような美人で、とっても落ち着いていて、だから吉田君や高井さんみたいな過去があるなんて想像できなかった。

「叔母さんはそういう人じゃないと思ってた」

「じゃあどういう人?」

「うーんっと……図書館で静かに本読んでる、みたいな」

 ぐふっと母さんが吹き出した。

 ヒトミさんも母さんが笑い出すとそれに続く。

「タクトの理想像はどっちかというと明美の方が近いかもね」

 高速道のトンネルに照らされたヒトミさんの笑顔に僕は吸い込まれそうになった。

「そろそろ、休憩しよっか」

「えー。まだ出たばかりじゃん。開園前にはつきたいんでしょ」

「大丈夫だって、アタシお腹すいてきちゃった。タクトもそう思うでしょ?」

「うん」

 この前三人で行った牧場の帰りに寄ったサービスエリアがそろそろ近づいてくる。僕はそこでお小遣いを使ってテントウムシのキーホルダーをヒトミさんにプレゼントしたのだ。

「これ、おそろいなんです」

 照れながらヒトミさんに背を向け、同じキーホルダーのぶら下がったリュックを見せる。するとヒトミさんは「こっち向いて」と言って僕のおでこにキッスをくれた。

 僕はそれからそのキーホルダーを学校に行くときはランドセルにつけ、休みで何処かに出かけるときはヒトミさんがいるときはもちろん、いないときも必ずバッグにつけた。

 本当はヒトミさんみたいにスマホに着けたいけど、母さんはどんなにお願いしてもスマホを買ってはくれない。ケチな人だ。


 サービスエリアについて二人は女子トイレに僕は男子トイレに入り用を済ませる。僕が先に車に戻って寝たふりをして待っていると二人が戻ってきた。ヒトミさんの手にはベーカリーの袋があった。

「ほら、あんたが好きなクリームパン。買ってきたわよ」

 後部座席のドアが開いて母さんがクリームパンを僕に手渡そうとする。母さんの隣でヒトミさんが僕を見ている。

 ほんとに母さんは僕の邪魔ばかりする。これじゃ僕が子供っぽく見られるじゃないか。

「いらない。気分じゃないし、それにクリームパンなんて好きじゃない」

 僕は母さんから目をそらすと、母さんは袋にクリームパンを戻して運転席へ向かった。

「明美、アタシ後ろでいい?」

 呼び掛けると母さんが振り向いてどうぞという。なんだヒトミさん、僕の隣に座りたかったのか。真ん中に座っていた僕が橋に映るとヒトミさんは「ジェントルマンね」と頭を撫でてくれた。


 高速道路ってのは景色が単調で真っ直ぐで。どこまでも続く道路を見ていると当然眠たくなる。メトロノームみたいに訪れるライトの明かりが眩しく、目をつぶるとどんどんと瞼が重くなっていく。

「タクト、眠い?」

 ヒトミさんは優しく僕の頭を撫でてくれている。やめて欲しいけどやめて欲しくない。そんな感情が交互に押し寄せてくる。

「いや、叔母さんこそ。お仕事大変なんでしょ? 寝ててください」

「あら、そんなことないわよ」

 そう言ってヒトミさんは欠伸を噛み殺していた。

「母さんに聞きました。会社やめるって……何があったのか僕はそこまで知らないですけど、辛いときは電話ください」

 僕の声は震えていた。

 長い睫毛が重たそうなヒトミさんの瞼がその時ぱっと開いた。

「僕、叔母さんからの電話いつだって待ってますから」

 ありがと、と言ってヒトミさんは僕をぎゅーっと抱きしめる。微かに彼女の鼓動が伝わってきて僕はまたヒトミさんとの距離が縮まったのを確信していた。

「長電話は家計にとって毒だからよして頂戴よ」

 ウィンカーを出して母さんはまた前の車を抜き去っていく。きっと眠くてイライラしているんだろう。

 でも母さんのことは別にどうでもいいんだ。

「それより、タクト。いつも通り叔母さんじゃなくて、ヒトミさんって呼べばいいじゃない。アンタこの前までそう呼んでたでしょ」

「う、うっさいな!」

「あれ? ムキになっちゃって」

 ふふふ、と母さんが笑う。

 なんなんだこの人は。子供をからかって何がそんなに楽しいというのだ。

「そうね。おばさんって呼ばれるとすっごい歳くった感じがするのよね。だからタクトいつも通りヒトミさんでいいよ」

 ほら、試しに一回とヒトミさんは僕を急かす。

「ほら、男でしょ。しゃきっと言ってみなさい」

 母さんが僕に発破を掛ける。

「ヒ…ヒトミ、さん」

 顔がみるみるうちに真っ赤になって恥ずかしさが頭の中でどんどんと膨らんでいく。膨らんでいくのなら赤い風船となって今すぐここから飛び出したい気分だ。

「もう眠いから!寝るから!」

 僕はヒトミさんとは逆方向に倒れて、蹲りぎゅっと目をつぶった。眠気は思ったよりも早く僕を遠くへ連れて行ってくれた。


 起きると、夜が明けていた。

 ずっと蹲ったままだったのか、身体のあちこちが痛い。

「あら、起きた?」

 首の後ろを擦りながらシートに座り直す。

 運転席から聞こえたのはヒトミさんの声だった。

「あれ? ああ……なるほど」

 隣では母さんがだらしなく口を開けていびきをかいている。

「アタシも眠くなってきちゃった。ねぇ、タクト話し相手してよ」

 僕は手招かれるままに助手席に飛び乗り、シートベルトを締めた。

「よく寝てるよね」

「ほんと、だらしない」

 小学校でいえがち解雇のお母さんと話すときとは大分、顔が違う。

「おーい、明美」

 ヒトミさんが母さんの名前を呼びながら振り返ると母さんがフガ、っと豚みたいに鳴いた。

「ほんと……ああなっちゃうと家でも全然起きないんですよ」

 やっぱり、とヒトミさんが笑う。

「昔からあの子、ああなのよね」

「へぇ、そうなんですか」

 母さんは自分が中学生だったときとか高校生の時の話をしない。でもじいちゃんはよく僕に「昔はこうだった……」と話してくれる。どうして母さんは話そうとしないんだろうか。

 フロントガラスにフィルムでもかかっているかのように目の前には青の世界が広がっていて、僕らはその奥へと真っ直ぐ突き進んでいる

「私、昼とか夜とかよりもね、そこに移り変わるときの景色の方が好きなんだ」

「夕方とか、今とかですか?」

「そうそう。何かがこれから始まろうとしている感じがしてわくわくしない?」

 ヒトミさんがパワーウィンドウを下げると風の音が少しうるさくてびっくりした。窓から外へ顔を出すと寝汗でべたついた肌を風の冷たさが攫っていき、僕の前髪がパタパタとはためいている。 

「明美ってさ、美人だけどさ、寝姿は最悪よね」

 ハンドルを握ってヒトミさんは真っ直ぐ前を見つめている。

「ですね」

「だからさ、昔から友達にも好きだった人にもこういう姿見せられなくてさ、お泊まりデートもしたことないし、もちろん友達同士で泊まるのも嫌で、だから今は普通だけど昔は人付き合いが苦手な子だったんだ」

 意外だ。

 人類皆友達、みたいな今の母さんにそんな時期があっただなんて。

「これあたしが言ったって事はお母さんに内緒ね」

 ヒトミさんは唇の前に人差し指を立てた。なんだか二人だけの秘密みたいで僕もヒトミさんの真似をしてシーっと言った。

「じゃあヒトミさんはどんなだったんですか」

「私は……普通だよ。普通に友達作って、普通に恋して……あの時は明美より絶対早く結婚できるって思ってたんだけどなー。いつの間にか先越されちゃったよ」

 ふと気になって隣を見る。

 丸での映画のワンシーンみたいに、ヒトミさんの横顔は早朝の明かりに馴染んでいた。だからか、青の陽に照らされたヒトミさんの横顔は少し寂しそうに見えた。

「ヒトミさんは」

「なに?」

「寝顔見せられる人、いますか」

 今、彼氏はいますか。そういった方が男らしくて、格好良かっただろうか。

 それに思い浮かべていたタイミングと全く違う。ほんとは遊んだ帰り道に言おうと思っていたけどいつの間にか口から出ていた。

 ヒトミさんは振り返ってアタシ? と自分を指差している。

 僕はヒトミさんの驚いた顔を真っ直ぐ見て静かに頷いた。

「寝顔、ねぇ……オフィスではいつの間にか寝ちゃってることもあるし、私の横顔なんて割と誰でも見られるんじゃない?」

「じゃあ僕も?」

「うん。見れるよ。なんなら帰りアタシ爆睡する予定だから」

 それは残念だ。帰りはいっぱいヒトミさんと話そうと思ってたのに。

 よろしくね、と言ってヒトミさんは歯を見せて笑う。

 こんな無邪気な顔も出来るんだ、と、思う。同時に僕はヒトミさんの笑顔も何もかもを独占したいと思ってしまった。

「じゃあどんな顔ならみんなに見られたくないですか?」

 どんな顔、ヒトミさんは首を捻らせて考え込んでしまった。

 見上げると緑の看板があって、そろそろ高速道路の降り口が近づいている。

 青の世界がうっすらと白んできている。

 母さんが起きたらこんな話は出来なくなる。こんな話の先なんてもっとだ。

「酔った姿かな」

 ぽつりと呟くと、ヒトミさんの頬は微かに、ほんの微かだが赤らんでいた。

「僕の前ならその姿、見せてくれますか?」

「どうだろうね」

「僕はヒトミさんが見せられないと思っている姿が見たいんです」

「タクトはいつから意地悪な子になったの? こんなおばさんからかって楽しい?」

「からかってなんか……僕は本気です」

「えっ、本気って?」

 左にウィンカーを出してヒトミさんは車線変更をし、車は減速し、出口の料金所へと向かっていく。

「僕は……ヒトミさんのことが好きなんです」

 前を向いていた顔が僕の方に向いた。

 ヒトミさんは一般料金夜に入りそうになって慌ててハンドルを切りETCのゲートに向かう。

 母さんが何よ、と呟いて僕たちが振りかえるとまたいびきをたてて眠ってしまった。

「え、ほんき?」

「本気です。僕はヒトミさんの全部を見たいんです」

「全部ってねぇ……だってわたしお母さんより年上なのよ?」

「関係ありません」

「関係ないって……参ったな。まさか甥っ子にこんなこと言われるなんて」

「甥っ子じゃなくて、タクトです」

 真っ直ぐヒトミさんだけを見て目は逸らさない。まるで因縁の相手を睨み付けているみたいに僕は必死だった。

 そんな圧から逃げるようにヒトミさんは前だけを見て、項をさすっている。

 大好きな人が困っている姿ってのは見てて辛い。だから僕は助け船を出した。

「別に返事は今出なくてもいいんです。たとえば五年後でも。あるいは10年後でも。僕も今のままじゃヒトミさんに釣り合う男じゃないのは分かっていますから」

 ほっとしたのか、ヒトミさんはやっと「そうね」とだけ呟いた。

「タクトは多分さ、これから一杯いろんな恋をすると思うよ。美形だし、天然ジゴロだしね」

「ジゴロ? いや、ヒトミさん以外は好きじゃないんで」

 余裕が少し戻ったのだろう。ヒトミさんの口からは「大人として」の言葉ばかりが溢れる。こんな言葉聞きたくない。

 だってそれは本心じゃないから。

「そうはいってもすると思う。だってタクトまだ小学校5年生だよ」

「それでもしません。ヒトミさんが僕の中で一番なんです」

「あのね……自分で言いたくないけどもう結婚の適齢期だって過ぎてるの。それに仕事ばっかりでアタシ面白い話なんて出来ないし、大人になってからは明美の方がアタシよりずっと人付き合いが上手いんだから」

 ヒトミさんは怒っているように見えた。あるいは焦っているようにも見えた。

 僕は何故か何も言えなかった。頭ではヒトミさんを慰める言葉が幾つも浮かんでいる。

 でもその言葉は漂うだけで、どれもつかめない。

「待っててください」

 やっと出てきたのはそんな言葉だった。

 僕は緊張で、ヒトミさんは恥ずかしさで火照った身体を窓から入ってくる風が冷ましてくれている。信号待ちで停車している車のエンジン音が隣でも、前でも聞こえる。随分遠いところまで来たんだな、なんて今更思った。

「もう、好きにすれば」

 ヒトミさんは窓の外を見てばかりいる。

「なぁに、けんか?」

 母さんがむくりと起き上がり、瞼を擦った。


「なんでもない!」二人の声が重なった。





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