第54話:Bu-To REGG
【0】
電波塔のてっぺんに向かって登っている。少しでも踏み外せば――――なんてことは考えないようにしている。
電波塔を登る理由は特にない。夢ってのは大概が唐突なものだ。
てっぺんまでつくと、手が届く位置に雲があったから手を伸ばすと触れた。
触るとコットンみたいではなく、意外と固い。まるで巨大生物の皮膚みたいだ。
「うわあああ!」
驚いた拍子に爪先が足場から外れ電波塔から落ちそうになった。必死で掴んだ手の平から血が流れている。
―――雲が僕を見つめていた。
雲に瞳があった。眼があった。目玉が在ったのだ。
僕のカラダ四倍の大きさの目玉がじっと僕を見る。魅入られて溺れそうだ。
「でっかい水晶みたいだ……」
息を呑んでそれをじっと見つめていると展望台のシャッターみたいな瞼がゆっくり閉じて、また開く。
電波塔にしがみついている僕がカイブツの瞳に映っている。吸い込まれるように手を伸ばす僕を見て驚いたのか、カイブツの黒眼がぎゅっと縮こまって、
―――空が鳴いた。
カイブツの鳴き声は低いサイレンのような、遠くの悲鳴のような、あるいは鯨のようだった。
鉄塔が音を立てて揺れ出す。
振動は上に行けば行くほど大きくなっていって、電波塔から振り落とされそうだ。爪楊枝みたいに細い電波塔の先に僕はまたぎゅっとしがみつく。
「折れるな、折れるな……」
祈るように唱え続けるとやっと揺れが止んで、涙が止まった。
その時だ。
頭上から声が降ってきた。
「はぁ、やっと見つかった……全く手のかかる子だ」
見上げると傘を差してブルドッグが電波塔の先に片足を乗せ、器用に回っている。
しかも喋っているなんて、
「キミは、誰?」
私はな……とブルドッグが思案する。
「そうだな、カミサマとでも名乗っておこうか」
「カミサマ?」
「ああ。で、このでっかいのが私の相棒の毒島さんだ」
「ぶすじま?」
ブルドッグさんが鯨に触って自己紹介するように促すと鯨は鼻息で答えた。
夢だとしても展開が荒い。
でもこういうものなんだと、僕は合わせた。逆らっても良いことなんてひとつもないってコトを僕は知っている。
鯨がまた鳴いた。
「え?今、何か言った?」
変な夢の終わりに、鯨が僕に―――オマエノ、ノゾミハナンダ?と聞いた。
僕は―――、
そこで夢が終わった。
ひたすら暗闇に落ちていく。天井に鼻先がつきそうだ。バッドトリップの中で何がしたかったのだろう、と答えを探す。
【1】
ゴホン、ゴホン。
喉が腫れている。ただいまとドアの扉を閉めて耳に駆けていたマスクを外す。漂うガスの影響でひっくり返したマスクは真っ黒だ。夜は頭の大事な回線が飛んだ大人達が一暴れするせいで僕の瞼は赤い。毎日昼過ぎになると目の奥が痛くなる。
コンロの前に行くとママがたばこを吸っていた。
「ああ、帰ってたの」
ウイスキーの空瓶にたばこの吸い殻が詰まっている。揮発する臭いは嗅ごうとせずとも鼻の奥に入ってくる。濡れた脱脂綿を鼻の穴に詰められたみたいだ。
「ママ、これ以上煙吸ってどうするの」
さあね、とママは暢気に笑っている。
「レジー、仕事はどうなの?」
「どうってなにも、」
「いじめられたりしてない?」
「いや、それは大丈夫」
ママを安心させるために僕は嘘をついた。本当は今日太った男の人にトイレに連れ込まれそうだったのだ。
「あんた、背も小さいし、もやしみたいなカラダしてんだから気をつけなさい」
「うん。気をつけるよ」
背が小さい? 当たり前だ。だって僕はまだ12歳なんだから。
3ブロック向こうのあの子は今頃プライマリースクールから帰ってきたところだろう。でもこの街はスラムで、トレーラー暮らしの僕らにはお金もないからこうして働いているわけだ。
「今日は、夜もあるの?」
「うん」
「そう、なら何か作らなきゃね」
「いいよ。いつものところ寄るし」
真ん中がいつも少し焦げているけど、ママの作るパンケーキは世界一おいしかった。
―――我が国の夢を叶える街。
そう言われているのが僕の働く場所だ。
耳触りのいい言葉だ。
だって空はトリクロロエチレンやベンゼンで汚れ、厚い雲がかかっているため僕は「ほし?」というものを生まれてから片手で数えられる程しか見たことがない。多分満天の星空よりもオリンピックの方が多く見ている。
雑巾から絞り出されたような雨が今日も降り続けている。僕の住む町には曇りと雨しかない。だからパーカーが手放せない。
フードを被りビニール傘を差し、トレーラーを出る。群生するトレーラーの間を一人歩いていると、女の子が大きな傘の下で三角座りをしていた。
「どうしたの?」
「あのね、『おまえはでてなさい』だって」
女の子は何度も小石の上に小石を載せようとしている。またころんと落ちた。トレーラーの中ではガラスの割れる音と、女の人の悲鳴が聞こえる。
「ちょっと、待っててね」
僕は何かないかとポケットを探り、チョコレートを女の子に渡す。
「ありがとう」
女の子がにかっと笑った。頬が異常に痩けていた。
「またね」
女の子が小さく手を振ったので振り返す。
工場に向かう途中、黒く光る車が僕の横を通り過ぎた。
ぴっかぴかに磨き上げられた車は僕らを憂鬱にさせる雨を全て弾いて、置き去りにして遠くへ去って行った。弾き飛ばされる滴たちが全部僕みたいに見えた。
見渡すとどの煙突からも煙が昇っている。もう少しで灰色の空と煙がくっつきそうだ。目を擦ってまた歩き出す。パーカーの袖には嗅ぎ慣れた排気ガスの臭いが染みついている。
ロッカーに辿り着き、マスクとゴーグルだけしてパーカーのまま仕事場に向かう。僕らには作業服などない。作業服を着れるのは工場長とその下にいる何人かだ。
鉄屑がベルトコンベアで運ばれてきた。僕らがレバーを倒すとギロチンみたいに重しが下りてきて固まりがあっという間にぺしゃんこになる。プレスしたら残骸の端を二人で持って別のラインに流す。僕の仕事は永遠この繰り返しだ。
「この残骸ってロケットの部品に使われるんだってよ。そう思うとこの仕事もやりがい在るよな」
この前、作業服を着てる人が感慨深げに言っていた。
ロケットの部品になる? だからなんだって言うんだ。だってどんなに頑張っても僕らは鼠色の世界の向こうには行けやしないじゃないか。
「レジー、あの後どうなった?」
心配そうに僕を見つめるのは友達のアダムだ。
黒い肌にぼてっとしたたらこ唇が彼のトレードマークだ。
僕らはお互いマッチ棒みたいに細い身体だからよく大人にいじめられる。アダムもママとトレーラー暮らしだし、それに僕らは年が近かったから仲良くなるには時間がかからなかった。
「ま、なんとかなったよ」
これは本当だ。少々手荒ではあるけど。
僕のお兄ちゃんは働いていない。
でもいつも鎖みたいな金のネックレスをしているし、あの車みたいにピカピカに磨かれた真っ赤のスニーカーを履いている。兄ちゃんはギャングスターで、そして兄ちゃんは「ギャングスターは家族を大切にするんだ」とか言っていつも僕を守ってくれる。
「そういえば、あの人は?」
「ああ、無断欠勤。クビ確定だろうな」
薄ら笑いを浮かべながらアダムが答える。
「そっか」
だから多分、今頃あの男の人は何処かのゴミ袋の上で伸びているだろう。
真っ赤に腫れた顔で、鼻血を垂らしながらだ。ハハ。笑える。
「仕事終わったらどうする?」
「明日も早いから帰って寝るよ」
「えぇー!?遊ぼうぜ」
「なにで」
「そりゃ。お前ポーカーだよ……」
呆れた。
アダムはいい奴だけどギャンブルがやめられない。擦っては働き、擦っては働き彼の日々はそのサイクルでできている。
「この間太腿に穴あけて懲りたんじゃないの?」
「ああ、そんなこともあったね」
多分これからもずっとそうだし、制止の間を彷徨っても恐怖はその時だけで数日経てばそれは笑い話に代わる。案の定、アダムは笑っていた。
「少しズレてたら死んでたんだぞ」
「わかってるよ。でもその後はツキが回ってきたんだ」
「バカアダム」
「ありがとさん。レジー、バカは幸せになれるんだぜ」
コレはアダムの口癖だ。
ハハハと笑う半開きになったアダムの口から大事なものがこぼれ落ちていく。ゼンマイ式のおもちゃみたいにいつか、アダムは止まってしまうんじゃないか、とたまに不安になる。
リーダーの怒鳴り声が僕らに向かって飛んでくる。
止まることは許されない。作業時間がどんどん過ぎていく。
でも仕事に集中している間はアレコレ考えなくてすむから僕は黙って作業を続けた。やがて頭を裂くようなベルが鳴り、作業が終わると両腕に錨がついているみたいだった。このまま海の底に沈んでいけたらいいのに。コインシャワーで溺死はあんまりか。
仕事終わりにアダムと僕はダイナーによってハンバーガーに囓りついていた。
レタスは萎びているし、パティはなんだか血生臭いけどケチャップとマスタードをたっぷりかければなかなかイケる。
「コレ、腹壊すほどうまいよな」
「それ、シャレにならないよ」
「レジー、ビールは?」
アダムの横にはもう二瓶並んでいる。
ハンバーガーとの分量が明らかに合わないというと、アダムは「おかずよりご飯多く食べるやついるだろ、アレと一緒だよ」と開き直った。
「で、ビールは?」
「いいって」
「ほんとにいいのかよ……たまには奢ってやろうかと思ったのに」
「きょうはいい。てか、そんなことする気なんてないくせに」
「たばこは?」
「きょうはいい」
「『きょうは』って。いつも吸わないでしょ」
うるさい。
僕だってかっこつけたいときだってあるのだ。
僕らの二つ前の席では睫毛の長い女の子が退屈そうにフライドポテトを食べている。嘘みたいに白い肌をした女の子だった。赤いリップが僕を前屈みにさせる。
気づいたアダムがそれとなく彼女を確認した。
「かわいい子だな」
「うん」
「でもだめだ。身につけてるもの見てみろ。明らかにここの子じゃない」
「わかってるよ……」
でも目線はなんとなくそっちに向けながらハンバーガーにまた齧りつくと、店の前に車が止まった。
ライトが眩しい車はあの黒塗りだった。
「ほらな、」
店内にスーツを着た男の子が現れると、女の子の顔がぱっと咲いた。
何故か現れた男が僕に似ていると思った。女の子が駆け寄ると赤いポピーみたいなドレスが揺らめいた。
「ままならねぇな」
「そうだね」
ぼくは明日ストリップに行こうと心に決めた。
翌日の早朝、いつも通りかかるゴミ置き場にカラスが自棄に集まっていると思って覗いてみると、飛び立ったカラスたちが貪っていたのは糸の切れた操り人形みたいに捨てられていた彼女だった。
「ああもう、最悪……」
お手上げのポーズを取るとぴたりと雨が止んだ。
僕は昨夜見た夢を思い出していた。雲みたいに大きい鯨とブルドッグが出てくる夢のことだ。
あの時僕は『オマエノ、ノゾミハナンダ』と訊かれたんだっけ。僕はビニール傘を閉じながら考える。
「叶うなら、宙まで行きたいかな」
灰色の空を見上げながら叶いっこない望みを願う。
銀色の厚い雲がぶつかって弾けて、晴れていき、僕の身体から赤ワインみたいな翼が生える。そして力一杯羽ばたくと身体が宙に浮き、空高く―――なんてことはなかった。
【2】
「やっと望みを言ったな」
後ろから声が聞こえ立ち止まる。
振り返えると声の主らしき人はいなくて、俯きながら仕事場に向かう人々が僕を追い越していくだけだ。
「おい、こっちだよ。下だ」
視線を下げるとブルドッグが立っていた。
「あなたは、カミサマ?」
「おっ、おう……そうだよ。なんだ飲み込みが早いな少年」
「てことは、鯨も空に?」
「ああそうだよ。ほんとに飲み込み早いな君は。こっちとしても展開を早められるから非常に助かる」
「展開?」
「こちらの話だ。気にするな」
「お前の望みは確か、『宙まで行きたい』だったな。なんて言うか……お前は素朴なんだな。普通『大金持ちになりたい』とか、『女にもてまくりたい』とか望むものだけど」
「ああ、それいいね。今から変えられないの?」
「無理」
「そっか」
「ごねたりはしないんだな。本当に助かるよ」
「助かるって?」
「だから、こっちの話だ」
「今さ、金属プレス工場で働いているんだけど、そのプレスされた金属がロケットの部品になっているみたいなんだよ」
「それでそう願ったワケか」
頷くと、ブルドッグさんは歩きながら話そうといって、僕らは工場と逆の方向に向かって歩き出した。そしていつものダイナーで朝からハンバーガーを食べていた。
「お前……いつもこんなもの食ってたのか?こんなの犬のエサ以下だぞ」
ブルドッグさんはハンバーガーを手を使わず器用に食べている。首には紙エプロンがかかっていた。
「そう? 以外とイケるよ」
「お前、それケチャップとマスタードの味しかしないだろ」
「そんなことないよ、ちゃんとバーベキューソースの味だってするし」
「やめろ。聞きたくない」
また一口囓ると、元々しわくちゃなブルドッグさんの顔がさらに歪む。ふと時計を見るともう工場はとっくに稼働している時間だった。
「あぁ……やっちゃった……」
「なにが?」
無断欠勤なんて一回もしたことがなかった。朝だって遅刻すると困るから家を出る2時間前には起きるようにしてるのに。
僕は頭を抱え込んで俯いた。
「ああ、仕事のことか?」
見透かしたようにブルドッグさんが言う。
力なく頷く。
「それなら大丈夫だよ。お前はいるようでいないことになっているからね」
「え、どういうこと?」
僕は今、透明人間になっている、らしい。
らしいって言うのは完全に透明人間ではないからだ。
カラダが透明になっているわけではなくて、所謂「認識阻害」というものが僕に今働いているらしい。つまり、僕を相当意識して見ない限り世界から僕は観測できなくなっている。
「まぁ、お前は今そこら辺に漂う空気と一緒だ。試しにウェイトレスを呼んでみろよ」
どんなに呼んでも来なかった。どうやら本当みたいだ。
「さて、腹も落ち着いたし外に出ようか」
「どこ行くのさ」
「どこて、願いを叶えに行くんだよ」
野暮用を済ませるみたいにブルドッグさんが言った。
会計を済ませることなく僕らは外に出た。
僕らは今、宇宙船に乗っている。
ワンコインで動く宇宙船の中でプラスチックでできた光線銃を構え、画面に映し出された宇宙人をひたすら殺しまくっている。
「ねぇ、『宙まで行きたい』ってそういうことじゃないんだけど」
「楽しくないのか?」
「いや、楽しいけど……」
ブルドッグさんは上位ランカーの仲間入りを果たすと、満足げな顔して宇宙船を下りた。
「おし、次はバスに乗るぞ」
僕は言われるがままついて行き、バスに乗る。
ついたのは3ブロック先にある遊園地だった。
バーを大胆に跨いで渡っても気づく人なんて誰一人おらず、エントランスゲートを抜けるとアコーディオンが僕らを迎えてくれた。目の前ではピエロがジャグリングをしていて、ポップコーンの匂いがする。
「食べたかったら自分で掬ってくればいい。私はここで待っている」
僕はせわしなく動き回るお姉さんの横でカップいっぱいにポップコーンを盛る。
「本当に、誰にも見えてないんだね」
「だから言ったろ?」
「カミサマってすごいんだね」
「まぁ、こんなことくらいはな」
ブルドッグさんの口角が上がる。きっとまんざらでもないのだろう。
「楽しいか?」
「まぁまぁだよ」
イケないことをするとその度何かが僕の中で弾けていった。暗いトンネルから光が差していくような気持ちになるのは何故なんだろう。
「そうは見えないがな」
「うん。次はジェットコースターに乗ろう」
僕らは閉園時間になるまで遊んでいた。
【3】
翌朝僕は観覧車の中で目覚めた。
身体が痛い。
瞼を開くと向かいにブルドッグさんが座っていた。
「よう、起きたか」
「おはよ……」
瞼を開けると、ゆっくり眼下に収まっていくテーマパークがあり、目の前には間もなく昇ろうとする太陽があった。
「太陽だ」
角膜を濡らさないと光に負けて眼球が焦げてしまいそうだ。
「太陽だよ。見てカミサマ」
目の前の景色を確認したくてもう一度呟くと、ブルドッグさんは煩わしそうに眼を細めて、そうだな、と返した。
「ところで、僕の願いはまだ叶ってないよ」
「安心しろよ。順調だ」
「順調? まぁいいや。今日はなにするの?」
「うーん、そうだな……今日は街に行こうか」
僕はまた言われるがままバスに乗り込む。
ついたのは遊園地からさらに数ブロック先に行った田舎だった。
「今度はここでなにをするの?」
「なにって……散歩だよ」
ブルドッグさんは1度振り返り、立ち止まった僕を見てからまた歩き始めた。
なにもかも退屈な一日の始まりの中で唯一見ていられるのは無駄に器用な犬の二足歩行だけだ。
諦めて、僕も後を追った。停留所から先は右にも左にも森があって、僕らの歩く道は車よりも鹿の方が多い気がする。
「ここって街ってより……村に近いんじゃない?」
「そうかもな」
坂を下りるとやっと家らしきものがぽつり、ぽつりと見え始めてきた。看板の寂れ具合とか、店番の退屈そうな顔を見ていると僕の住んでいる街を思い出す。
「見て、」
「どこだ?」
「あそこだよ」
畑でおばあさんがコーンの収穫をしていた。
積まれたコーンをひとつ手にとって、茶色の髭を生やしたもぎたての皮を剥くと、触れば破裂しそうなくらい膨らんだ黄色い粒がぎっし詰まっていた。
「ハウスにはなにが生っているんだろう」
「もういいだろ。他見よう」
「待って。あそこだけ見に行ったら帰るから」
気になって中に入るとそこには真っ赤なトマトが幾つも生っていた。
もぎ取ると、まだ温かい。きっと太陽に照らされていたからだ。囓るとすぐに汁が飛ぶほどみずみずしくて、甘かった。
次々ともぎ取っては口に放り込む。僕がいつも食べているハンバーガーに挟まっているアレとは大違いだ。
「おいおい、そんなに食べたら……」
吐きそうだ。でも止まらなかった。
「何で泣いてんだ?」
ブルドッグさんが僕を見下ろしている。
降ってきた声が小雨みたいに柔らかくて、生きていたらお父さんってこんな感じなのかな、とか考え始めてしまう。
「分からないんだ」
「なんだそれ」
答えが見つからないから違うことを考えることにする。トマトで溺死はさすがに笑えるか。
「お、雨が降ってきたな」
僕は瞼を擦って、立ち上がる。
外に出ると雨はすぐ本降りになっておばあさんが慌てて畑から引き返すのが見えた。
「行くぞ」
「どこに?」
「決まってるだろ。あの老婆を憑けるんだよ」
おばあさんの後を追うと、山奥のログハウスに着いた。
死体みたいに冷え切った雨が降る中でログハウスだけが心音を放っている。
室内から漏れるオレンジの光の中には笑顔がひとつ、ふたつ。ずぶ濡れのおばあさんが灯りの中に入るとまたひとつ笑顔が増える。ログハウスの中から聞こえる笑い声は僕にとって眩しい。
「似てると思ったんだろ?」
「うん」
最初は確かにそう思っていた。
だけどおばあさんの送る日々と僕の送る日々は全く違う。
おばあさんは確かに労働者で家を見る限りそんなに裕福ではない。だけど、ここで息を吸っても咳き込むことはないし、僕らにとっては憂鬱の象徴である雨もここでは大地の恵みだ。
そして何よりも帰れば温かい家があってそこには当たり前のようにお母さんがいて、お父さんがいて。家の中には破裂しそうなくらい笑い声が溢れている。
「目の前はどうだ?」
欠伸が出るほど退屈なファミリムービーがおばあさんの一生だとしたら、僕はきっとそのムービーの海賊版―――だろうな。
「そうだね。くそくらえだ」
いや、それすら叶わないか。
「じゃあ、くらわしてやるか。糞ってやつを」
ブルドックさんがそう言った後、1度咆えた。
ログハウスに雷が落ちた。
家の中が暗転し、中の人々が逃げ惑う。暗闇の中でどけよ、と誰かの叫び声が聞こえた。
さっきまで当たり前のようにあった灯りが消えて、住人の誰もが暗闇の中で独りになった時、いとも容易く団欒という風景は崩れ去る。パニックで逃げ回る度ログハウスが小さく揺れている気がした。
「驚いたか?」
口を開けて固まる僕をブルドッグさんは少し残念そうに見ていた。
「おいおい、お前が望ん―――」
「ねぇ、もう一回やってよ」
「そうこなくちゃ」
雷がまた同じ家に落ちる。
落ちた瞬間白く飛んだ視界の中で老婆がこの世生らざるものを見る目で僕らを見ていた。ざまぁみろ、と思いながら僕は笑う。山の奥でまた雷が落ちる。
「他の家にも落としておいたぞ」
「いいね。ねぇ、もう一軒」
今度はそう遠くない距離で光った。
笑いが止まらない。
頭がバカになっていく―――ああ、アダムはこの事を言っていたんだ。確かに今僕は幸せかもしれない。
「いいぞ、もっとやろう」
僕の指差す方角の空が光る。
シュート!シュート!
気分は最高だ。まるで魔法使いになったみたいだ。こんなに楽しいのはアダムと一緒に先輩のチャイナホワイトをくすねて吸ったとき以来だっけ?
立てなくなるほど笑い、膝から落ちて地べたに倒れる。砂利に頬ずりしてみる。
気持ちよくはなかった。
身体は雨に打たれて随分と重いけど、今なら飛んでイケそうだ。
「な、順調だっていったろ?」
「ほんと、最高だよ。カミサマ」
【4】
起きると僕はまたバスに揺られていた。
開いている窓から日常の臭いがして、瞼を開けるとモザイクで全てを覆いたくなった。
「見てみろ」
「見なくても分かるよ。帰ってきたんでしょ……」
「違う。上だ、上」
どういうことなのか分からず僕はとりあえず窓から顔を出して空を見上げる。
見上げると僕らの街を太陽が照らしていた。男の子の部屋の壁紙に書いてあるような雲が気持ちよさそうに青い空に浮かんでいる。
僕は着ていたパーカーを脱ぐ。
なぜだろう?
ここに居れば脱ぐことよりも着込むことの方が多いのに。
「なにを嗅いでんだ?」
「いや、いつもの臭いがしないんだ」
その答えはすぐに分かった。
工場の前をバスが通り過ぎると作業服を着た大人たちが空を見上げていた。
スカイブルーのキャデラックの前で下着姿のカップルが上を見上げていた。多分コトの最中だったんだろう。ストリッパーのカノジョは僕がパンツに2ドルを挟んだのを覚えているだろうか。
エサを待つ鯉のように口を開けながら立ち尽くす彼の前をバスが通り過ぎる。
「おーい、アダム!」
呼んでもアダムは気づいてくれなかった。彼はパートナーと手を繋ぎ空ばかり見ている。
油圧ポンプの音も、金属のひしゃげる音もしない中でバスのエンジン音だけが響く。コトの最中じゃなくても下着になりたい気分だ。暑さで頭が割れそうだ。バスの先に蜃気楼が見える。
「いつからここは砂漠になったんだ」
横を見ると、ブルドッグさんが涼しい顔で伏せていた。
「不感症なの?」
「そういうお前は多汗症なんだな」
たまらなくなって僕は着ていた服を窓の外に投げ出し、トランクスだけになる。
暑いのは僕だけじゃないみたいだ。下着姿の人々が窓の外にもだんだんと増えていく。
しばらく走るとバスのエンジン音が止まり、ドアが開く。
「夜はまだ先だ。ちょっと、歩こうか」
ブルドッグさんの後をついて行って僕はバスを降りた。
いつものダイナーに入るとお腹の出た大人たちがハンバーガーに齧りつき、冷えたビールを喉を鳴らして飲んでいる。
「腹減ってるんだろ? 行けよ」
「うん」
僕は縺れて転びそうになりながらダイナーのキッチンに飛び込んだ。
誰にも見られていないことをいいことに僕は乗せたいものを乗せられるだけ乗せて素敵バーガーを作った。
「幸せそうだな」
食べ始めるとすぐに手の平は誰かを殺した後みたいに真っ赤に染まった。
「なぁ、その肉、何の肉か知ってるか?」
「え―――? 」
「本気にするなよ、ただのジョークだ」
「やめてよ」
「せいぜい腐りかけの牛肉ってところだろ」
「う……」
「おいおい、そんなの知ってたことだろ? まさか知らないで……」
「違う。そうじゃなくて、思い出したんだ。ここ、ピクルスだけはいれちゃいけないんだった……」
素敵バーガーを半分遺したまま僕は一時間トイレに籠もった。顔を青白くさせて帰ってくると
「幸せそうだな」とブルドッグさんが口角を上げた。
「さて、日が沈むまでにはまだ時間がある。願いを叶える前に家に戻るか?」
ここで戻ったら今が夢になってしまうような気がして、僕は首を横に振った。
「いや、あそこはもう僕の家じゃない。だからまたあのゲームをしよう」
ブルドックさんの短い尻尾がぷるぷると震えた。
「名案だ。付き合ってやろう」
【5】
アーケードゲームで遊び疲れ、自動ドアを抜けると煙突の合間に太陽が沈んでいくのが見えた。
煙突はまるで格子のようだった。執行猶予の間、はしゃぎ過ぎた太陽は間もなく収監されようとしている。
「もうすぐだな」
「うん。でも本当に行けるの? 」
「行けるさ。宙だって、どこへだってな」
「何で行くの? ロケット? 」
ブルドッグさんが笑う。
口の周りの弛みがぶるんぶるんと揺れている。
「まぁそう急くなよ。時間が来ればそこに居る」
「そういうもの? 」
「ああ。だから少し歩こうか」
「え……また? 」
文句を言いつつ僕はブルドッグさんの後に続いた。斑模様のお尻がかわいく揺れている。
相変わらず外は蒸し暑いままで、羽交い締めにされた太陽は子供のようにまだ遊びたいと叫んでいる。ここには茶色く濁った川しかないけれど、街はさながらヌーディストビーチだ。
これじゃあストリップ小屋は商売あがったりだ。
赤色のワーゲンバスが揺れている。覗くと三人が汗だくで踊り狂っている。外にまで音楽が漏れている。
僕らは歩き疲れたから縁石に腰をかけた。
隣の建物からはスロットマシーンの音がする。後ろにあるショッピングモール並みに大きい駐車場には4,5台の車が停まっていて、ここに居る人はきっと外がどうなってるのかも知らないだろうな、と、ふと思う。
「お、見ろ。いよいよだな」
そう言われて遠くを見ると太陽の頭先しか見えなくなっている。肌寒く感じたのか、人々はシャツやジャケットを羽織りだした。
―――夜が来る。
いよいよだ。いよいよ僕は宙へ行ける。
どんなところだろうと想像し始めるとなんだかそわそわし出してきて、僕は意味もなく駐車場の中を廻る。
まるで鍵盤の上を歩いて居るみたいだ。履きつぶしたスニーカーからワルツが聞こえてくる。
「見ろ。西から迎えが来たぞ」
西の空に今度ははっきりと鯨の姿が見えた。
しかも一頭ではない。ぽかんと口を開ける僕の頭上に向かって鯨の群れは空をゆっくりと進む。何頭もの鯨の腹が僕らの頭上を覆い、空には鯨の鳴き声が響き渡っている。
「始まるぞ」
ブルドッグさんの声に合わせてまた鯨が鳴き声を上げると、周りの鯨がそれに呼応するように鳴き始める。
鯨たちは一定方向に回り始め、まるで僕の頭上に台風ができたみたいだった。街全体が鯨の大群によってできた影に染まっていく。
「どうだ?」
僕の頭上に空いた台風の目をじっと見つめると重さを持った身体からふっと力が抜けていく。頭の中がぼーっとして、身体中の骨から入浴剤みたいに小さな泡が吹き出ている。
「うん。悪くないよ……でも」
「なんだ。煮え切らないのか?」
「いや、そうじゃない。ただちょっと恐いんだ」
そうか、とブルドッグさんが溜息をつくと、その瞬間身体に重さが戻った。
僕は膝から崩れ落ちてしまった。
汗がどっと溢れ出してバターみたいに溶けていきそうだ。何処か背中を預けるところを探して僕は車のボディに寄りかかった。
今頃アダムは何をしている?
プレス工場のみんなは?
兄ちゃんは?
ママは?
行きたいと言ったのは自分なのに行けば戻れない、そんな予感がしていた。
そう思うと顎がカスタネットみたいに震えだし、骨が軋んでいく。めちゃくちゃ恐い。どうしよう。
涙が勝手に溢れてきて、その時だ。誰かが僕の背中をノックした気がした。
コンコン、コンコン。
誰かの心音のように背中に伝わる振動は僕の真後ろからだった。僕は立ち上がって、車の中を覗く。
未だ熱気がこもり続ける車内には女の子がいた。
「あ、」
あの頬が自棄に痩けた女の子だ。
彼女の髪は止めどなく噴き出す汗で濡れていて、細かい呼吸を何度も繰り返している。
多分叫ぶ余裕すらなくなってしまったのだろう。声なき声で彼女は「たすけて」と言っている。僕は車のドアを開けようとしたが鍵がかかっていて開かない。
「ちょっと待ってて! 今お母さんたち呼んでくるから! 」
駆けだそうとした瞬間、後部座席に突っ伏すように彼女が倒れた。
「ダメだ! 死ぬな! 」
再び窓にしがみついて僕は必死に叫び、ドアを開けようとする。空くはずもない。
窓ガラスを割るにもこの小さな拳じゃ……どうしたらいいんだ。考えているこの間にも彼女はどんどんと干涸らびていく。
「嫌だ。行かないで行かないで、頼む、頼むから―――」
頼む。どんな犠牲を払ってもいい。
だから―――と僕は天に願った。
―――イインダナ?
はっきりとそう聞こえたとき、僕は全てを振り絞るように頷いた。
「バカだなお前、これですべてが台無しだ」
「これでいいんだ。ごめん。君たちのところにはまだ行けそうにないや」
そうか、といってブルドッグさんも鯨たちも消えた。
瞼を開けると僕は道路に寝そべっていて、トラックのナンバーが霧の中に消えていく。今救急車呼んだからな、と僕に呼びかける誰かが僕の体をゆすっている。
後ろからサイレンの音が聞こえた時、帰ってきた感じがして、僕は「ただいま」と呟いてひりつくアスファルトの熱を肌で感じていた。
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