第53話:終電の人

 1


 コンコースから明かりが消えていく。

 待ち合わせをする若者たちが次第に途絶え、建ち並ぶカフェに花屋やアメリカのダイナーを意識したファストフード店がシャッターを閉める。駅前にある花壇の縁に腰掛けたサラリーマンが船をこいでいる。

 大学生二人の話し声すらはっきりと聞こえる午前1時過ぎ。ホームに電車が入ってくる。

 終点のアナウンスが鳴り、ホームに到着するとドアが開く。今日一日の疲れを吐き出すように電車は乗客を降ろした。

 眠り続ける乗客達が電車の中に取り残される。取り残された乗客達は揚げ物を食べ過ぎた後の倦怠感に似ている。明日も元気よく働いてもらうために草臥れたその胃の中を駅員達は分解酵素のように働かなくてはならない。


「お客さん、お客さん、起きてください」

 一人目は若い女性会社員だった。

 彼はおそるおそる彼女の肩を叩き、声をかける。おそるおそる叩くのは先日、同じくらいの歳の女性を起こすときに金切り声を上げられたからだ。


「お、お客さん。もう着きましたよ」

 彼女の瞼がうっすら開いたことを確認して彼はもう一度声をかける。幸い金切り声を上げられることもなく彼女は小さくお辞儀をして階段を駆け下りていった。

 

 寝顔かわいかったなー、なんて思い、鼻の下を伸ばしながら次の車両へ向かう。


「そううまくはいかないよな、人生」


 今度は壮年のサラリーマンが涎を垂らしてボックス席で幸せそうに溶けていた。頭の産毛が空調の風邪でそよいでいる。鼻毛がうっすら一本出ている。同じ寝顔だがこうも違うのか、と彼は溜息をつきながらサラリーマンを揺り起こした。


「お客さーん、終点ですよ」

 全然起きる気配がない。


「お客さーん、お客さ、」


「お、おう。わりぃな」

 これは長丁場になると彼は思っていたが、二、三度声をかけると意外にもサラリーマンはすくっと立ち上がり彼に頭を下げ電車を降りていった。


 4両目、5両目と彼は進んでいく。

 実はこの時間が彼は結構気に入っていた。それは学生から、社会人、老人、と様々な人間が見られるからだ。

 金のロレックスをした男でも眠るときは周りに気を遣って足閉じて眠るんだな、とか。この人チョコ食べながら眠ってる、相当お腹すいてたんだろうな、とか。

 眠る乗客を見ながら彼はあれこれ勝手に想像する。彼はたまたま拾ったレシートでプロファイリングごっこをするちょっと変わっている男である。


「お客さん、終点!終点ですよ!」


 彼が男の右耳を両手で広げて、鼓膜を破るように叫ぶ。

 人の生活を勝手に想像して思わずにやけてしまうような彼でもいきなり怒鳴るようなことはしない。彼にだってモラルはあるのだ。

 彼が叫んでいる理由は揺すっても、目の前で叫んでも、地団駄を踏んでも、笛を吹いても、耳元で愛の言葉を囁いても、男にはのれんに腕押しだからだ。顔は薄く紅潮し、浅い息とともに彼の肩が上下に動く。


「おい、大丈夫か?」


「だわわっ、びっくりしたー」

 胸を撫で下ろす彼を彼の上司が心配そうにドアの影から覗いた。


「お、お疲れ様です。森尾先輩」

 はんぺんに包丁で切れ込みを入れただけのような顔をした男、森尾が眠り続ける乗客の姿を確認する。


「まいったなー。あんまり残業させないように、って今日言われてんのになぁ」

 へらへらと笑いながらそう言うのでまいった、って感じが全くしない。森尾も自分の経験を生かしてあれこれ策を試してみたが男はぴくりともしなかった。


「あぁー、もうしょうがないな。とりあえず担いで外に出そう」

 脇を抱える森尾に命じられて彼は足の方を持ち上げ男を車両からホームまで移した。


「もう起こすのはいいから、免許書かなんかでとりあえず身元確認しておいて」

 そう言って森尾がホームから消えていった。きっと一息つくために喫煙所に向かったのだろう。長丁場を彼は覚悟した。

 身元確認を終えると、森尾がホームの階段を上がってくる。


「おーい、新人。とりあえず今日はあがんな」


「え、でも」


「いいよ。まだ他にも人はいるし。それに言っただろ? 今日はノー残業デーなの」


「ああ、はい」

 森尾先輩が言うんだから仕方ないよね、『これだからゆとりは』なんて思われないよね? 帰り道、ぶつぶつとアスファルトに向かって呟きながら彼は家に帰った。


「昨日は災難だったな」

 

 翌日、出社すると森尾が彼を休憩室に誘った。


「ええまぁ。でも結局どうなったんですか、あの人」


 森尾におごってもらった缶コーヒーを飲みながら彼が視線を向ける。




「あぁ、あの人な―――亡くなったよ」




「え?」


「だから今日、死んだの。今朝方だっけなぁ」

 聞き間違いかと思って彼は二度森尾に尋ねたが答えは変わらなかった。休憩室の自販機で野菜ジュースを買いながら森尾がそう言ったのだ。


「昨日、お前を帰したのは残業させないためってのもあったけど、それ以上に事後処理が長引きそうだったからなー」

 男の肩に手を置いたとき、森尾は既に疑っていた。

 森尾は医者ではないため、何の兆候が出ているかなど知るよしもないが、勘に従って夜間病院で診てもらうと、やはり既に男が息を引き取っているのが分かった。


「どうりで起きないわけだよな」

 出っ張った下腹を撫でながら森尾はズゾゾと野菜ジュースを吸っている。


「え、森尾先輩は平気なんですか?」


「まぁ、うん。もう長いから」

 彼は飲みかけの缶コーヒーをぶら下げながら固まっていた。


「そっちこそ、平気か?」


「あ、はい」

 それからの彼は仕事も手につかず、ろくに昼飯も食べれなかった。

 森尾は初めての経験をした後輩を気遣って彼を責めなかったが、翌日から彼に有休をとらせるて貰えるように上に掛け合った。


「今日は先輩や皆さんにご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」

 萎れるように頭を下げる彼を見て、森尾は初めて「そんな顔の奴に乗客は任せられないな」と彼を叱った。


 2


「ごめんくださーい……」

 チャイムを鳴らしても曇りガラスの向こうに人影は現れない。扉には鍵がかかってなかったので、彼はおそるおそる中に入った。もう葬式は終わったようで親戚だろう人々が喪服姿で集まっている。居間が随分と賑わっている。


「お邪魔しまー……わっ! 」

 上がり框の奥で遊んでいた子供達が彼を見た。


「だれだおまえは!」

 男の子がおもちゃの光線銃を構えるのも無理はない。彼は今、あの日死んだ男の暮らしていた家に来ていた。


 男は都内のタクシー会社に勤めていた。名前は明石康夫。アシカみたいな顔をした男である。

 康夫は見た目は少々野暮ったいが、たばこやパチンコはやらず、常に妻子を一番に考える優しい男であった。

 優しく真面目だがズボラなところもあるのだろう。男の財布は捨てていないレシートで膨らんでいた。一番手前にあったレシートには仮面ライダーの変身ベルトの購入記録が印字されている。


「ぼ、僕は明石さんの友達で」


「ちがうね、おまえは宇宙人だ」

 男の子は光線銃のトリガーを引く。ビーム音が玄関に鳴り響く。隣の女の子がじっと彼を見続けている。


「ねぇーえ、おにいさんはほんとに宇宙人なの? 」

 女の子が彼に答えを迫る。子供の瞳というには純粋であるがゆえに鋭い。


「いや、どうかな……」


「宇宙人やっつけろー! 」

 ビーム音がまた玄関に響く。確かにこの家族にとって彼は宇宙人並みに遠い存在だ。

 子供達の容赦ない追求と鋭い視線に彼はこの旅を思い立ったことに早くも激しく後悔し始める。


 台所から男の子を叱る声が聞こえた。死んだ男の妻らしき女がエプロン姿のまま出てきた。


「あのっ、僕は明石康夫さんの友達で―――」

 濡れ衣を晴らすように彼が訴えると女は彼を指さした。そして台所に向かって「おーい、男手が増えたわよ」と大声で呼びかける。


「私は康夫の妻の明子。って、」友達ならそれくらい聞いてるか。それより手伝ってくれない? 」


「え? 」


「ほらあがった、あがった」

 明子に急かされ、彼は框を上がる。


「まずはあっちで手洗ってきて」


「あ、はい」

 言われるがまま手を洗い彼は明子の元に戻る。台所を見たとき中華屋でバイトをしていたときのことを彼は思い出した。大きいお尻をした奥様方が台所の中でひしめき合っている。


「そこの皿、もってってちょうだい」

 奥様の一人に声をかけられ、彼が皿を取りに行く。


「は、はい」


「そこ導線なんだから、ぼさっと突っ立てないでほら行きなさいよ」


「す、すみません……」

 酒を酌み交わす親戚一同にろくに紹介もしないまま、彼がおくものだけを置いて台所に折り返す。行きつく暇もなく居間から「おーい、日本酒」と声が上がる。


「そこの。ほら、そこのやつ。持ってて」

 明子から声がかかる。


「あ、はい」

 明子の視線を辿って彼は桐箱を開けようとする。


「違う、それじゃない!」

 奥様方全員に怒鳴られて彼が即座にそこから手を引く。


「そこの隣のよ! 」

 彼の足下には宝焼酎が置いてあった。


「でも、これって……」


「いいのよ。さっきから日本酒だって言ってあの人達が呑んでるのそれなんだから。味なんてわかりゃしないんだからもったいないじゃない」

 彼は宝焼酎をとっくりに注ぎ居間で待つ男たちのもとへ持って行く。


「おお、これこれ」

 おちょこの中身を飲み干した男達から次々と歓声が上がる。確かに、もったいないと感心しながら彼はまた台所へと折り返す。

 

「あんた、天ぷらできるかい?」

 奥様方がひしめき合う中で黙ってずっと天ぷらを揚げていた一人に声をかけられた。


「ぼく、ですか―――? 」


「ああ、あんただよ」

 パンチパーマの奥様が彼を睨む。

 仕送りで届くジャガイモみたいな顔をしている。浅黒いせいもあるだろう、割烹着のみがその方の唯一女性としてのアイデンティティに見える。


「できるのか、できないのか? どっちなんだい」

 気迫に押されて彼は頷いてしまった。


「よく言った。それじゃ、頼んだよ」

 まるで継承式のように菜箸が渡される。手元は休ませないが、奥様方も様子が気になるようで、ちらりと彼を見た。


「あら。やるじゃない、僕ちゃん」


 奥様方の一人が彼の肩に手を置く。

 排他的な思想を持った民族が始めてゲストとしてではなく仲間として迎えたような静かな感動が台所に沸き起こった。

 油の温度を菜箸の先で見て、それから震える指先でゆっくりとひとつずつ天ぷらを揚げていく。


「久々だなぁ……」

 呟きながら彼は山菜やしその葉、茄子や海老なんかを揚げていく。


「なんか懐かしいな……この感じ」

 ぶつぶつと呟きながら彼は油に投入していく。

 

 いつの間にか台所が静まっていた。それは奥様方が一斉に手を止めたからだ。隣でぐつぐつと音を立てる鍋が自棄に五月蠅いな、と感じたとき、明子が口を開く。


「あんた、天ぷら屋?」


 驚いた拍子に箸の先から滑ったサツマイモが油に落ちる。はねた油が彼の頬にかかり、彼が熱っ!と叫びひっくり返りそうになる。そして一息ついた彼はまたひっくり返りそうになった。彼はいつの間にか奥様方に囲まれていた。


「わわっ!一体なんですか……」


「いいから、揚げてみなさいよ。ほれ」

 鏡餅みたいな奥様が呟く。


「わかりました。じゃあ……行きます」

 奥様方が腕まくりをした彼の動き一つ一つを固唾をのんで見守る。

 食材が揚がり終わる度に静かな歓声が上がり、しまいにはメモを取る人まで出てくる。この状況に彼もまんざらでもないようで、次々と天ぷらを揚げていく。


「実家が、天ぷら屋なんです」

 彼が照れ隠しのように呟く。どうりでね、と納得の声が上がる。


「継いだの? 」

 明子が彼に問いかける。


「いえ、実家は出ました」


「じゃあ、何の仕事に?」


「駅員です」

 奥様方全員がえぇー、と言いながら彼から一歩引く。もったいない、と明子が続く。


「そう、ですかね? 」


「あんた、店出せるよ」

 彼の揚げたしそをいつの間にか摘まんでいた奥様が呟く。


「いやぁ……そんな上手くいきますかね? 」

 言葉尻は濁しているとはいえ、彼は舞い上がっていた。衣を纏っていく食材達を七五三を迎える我が子のように見守る。


「にしても、暑いな……」

 垂れそうな額の汗を彼は手の甲で拭う。抱き上げるように網で食材を掬い、軽く油を切ってトレイにそっと移す。ここで一応忠告をしておく―――彼は康夫の友達ではなく、赤の他人だ。つまり彼は今、不法侵入中である。


「おい! 宇宙人! 」

 光線銃を両手で構えた男の子が台所に入ってくる。


「ちょっと!危ないから向こうで遊んでてって言ったでしょ!」

 明子が息子を叱る。

 はっと彼が我に返る。


「ねぇ、ほんとのほんとに宇宙人、なの?」

 裾を引っ張って振り向いた彼の顔をまた女の子がじっと見つめていた。


 3


 宴も一段落したみたいで、ちらほらと人が帰り始めている。立てに二つ連なる卓の端で親戚の誰かが尻を此方に向けて寝息を立てていた。もう既に残っているのは数名でほとんどが家に帰っていた。


「何してんだろ……」

 全くその通りだ。

 つけっぱなしのテレビではお天気キャスターがまた明日と手を振り、夕方のニュース番組がちょうど終わったところだった。


「悪いね、裕太と栞奈まで」

 彼は今日始めて明子の顔を見た。疲れで頬じわが少し目立つが、明子は初夏の風を纏ったようなさっぱりとした美人だった。


「いえいえ、僕にできることなんてこれくらいですから」

 あぐらをかいた彼の両足を枕にして兄弟は眠っていた。謙遜し、申し訳なさそうに笑うのは全くの他人の彼である。彼の素性を知らない明子が隣に腰をかける。


「あら、満月ね」

 浮かんだ満月を二人でぼんやりと眺める。


「ですね」

 風流ではない。ホラーである。


「色々こき使わせて申し訳なかったね」

 彼は明子におちょこを持たされた。明子が傾けるのは桐箱に入っていたあの一升瓶だった。


「あの、これ……」


「いいんだよ。だって康夫さんの友達なんでしょ? 」


「いや……まぁ、はい」

 首を傾げながらも注がれた日本酒に彼はちゃっかり口をつける。普段は安い発泡酒で侘しい夜を過ごしているため、これが本物か、とつい口が滑る。


「今日は来てくれてありがとうね」

 二杯目を注がれ、彼はまた口をつける。


「いえいえ」

 図々しい男である。


「ねぇ、あなたといるとき、あの人どんな話してた? 昔から喋らない人だったから聞いておきたくて」

 明子の視線が膝に落ちた。


「そうですねぇ……」

 思い立ってすぐに実行に移せるのが彼のいいところではあるが、後先を考えないのが彼の悪いところだ。康夫の家には上がったが全て成り行きに任せていた彼は額に浮かんだ汗を拭う。


「あ、いや。その……仕事が辛いとか、そういった感じの」

 当然どもり、表情から焦りが浮かんでくる。


「いやぁ、暑いな……」

 彼は額に浮かんだ冷や汗をまた拭う。


「そっか……」

 明子の顔に影が差す。


「ええ、まぁ……」

 俯いた明子は肩をふるわせていた。泣いているか、と思い彼が肩に触れようとした。


「明子さん、大丈夫ですか?」


「はぁ……おっかしい」


「へ? 」

 口に運ぼうとしたおちょこが彼の顔の前で止まる。明子は笑っていた。そして笑い終えた明子が彼の顔を見た。


「でさ、あんたは誰なんだ?」明子が呟いた。


「あの人ね。昔から友達なんて片手で数えるくらいしかいないのよ。それにお酒だって会社の飲み会で最初の一口飲むだけだし。まぁ夜遊びの多い男でさんざ苦労してきたアタシとしてはよかったけどさ、けど、それにしたってよ。あの人は遊びが少なすぎる。たまにネットで特撮グッズを集めてたみたいだけどどうやらそういう仲間も周りにはいなかったようだし、」


 彼は話題に振り落とされないのが精一杯だった。

 襲いかかる風の中で耳を澄ませ、彼は必死に特急列車の天井にしがみ付く。唯一思ったのは、あの買い物は自分のためだったんだ、ということだけだった。


「それにね―――」


「それに?」


「子供の目は騙せないのよ」

 空に浮かぶ満月のように真っ白な顔をした明子が彼を見る。


「はっはっは。捕まえたぞ、宇宙人」

 眠っていたはずの兄弟がじっと彼を見ていた。金切り声を上げて彼が飛び上がった。


「なんだ、火事か?」

 居間から声がした。声の主はそうぼやいた後、尻を掻きながらまた寝息を立て始めた。


「安心しなよ、通報したりしないから」

 笑い終えた明子が彼を見る。


「あの、その、騙しててごっ、ごめんなさい!」


「おい、兄ちゃん。どうした?」

 居間で眠り続けていた男がむくりと起き上がって彼を見る。ボクシングの生中継がテレビから流れている。


「何でもないわ、お兄さん」


「あ、そう」

 男の兄はすぐに視線をテレビに戻した。


「で、あんたは誰なのよ?」

 明子が話を戻す。彼が口を割った。


「駅員というのは本当です。あの日、僕は最終電車が終点についた後、乗客がまだ残っていないかチェックしていました。そして眠っている人を見つけたら起こして返していたんです。その時に僕はご主人と出逢ったんです。その時ご主人はもう―――」


「じゃあ、本当に知り合いでも何でもないのね」


「は、はい」


「しかも、あなたと康夫さんが出会ったとき、もう康夫さんは死んでたと」


「そう、なりますね」


「驚いた。何でわざわざ赤の他人の葬式なんかに。結婚式ならまだしも」

 明子が少ししなびてしまった茄子の天ぷらを皿から拾い上げ口に放り込む。


「それが、僕にも、なんだか……」


「なんだかって、あんたねぇ、一応言っておくけど不法侵入よ」

 呆れ笑いを溢しながら、明子が彼のおちょこに日本酒を注いで一息で飲み干す。


「それは、分かってますけど……」


「久々よ。こんなおかしな夜」

 細い首に一筋汗が流れ、鎖骨に落ちる。ぐびりと鳴る喉につい視線が吸い寄せられる。


「康夫さんは何を考えていたのかしらね」

 彼は黙ったまま明子の横顔を見ていた。


「正直まだね、私泣けてないのよ。なんか彼に追いつかなくてね」


「康夫さんはどんな人だったんです?」


「一言で片付けてしまえば、つまらない人よ」


「は、はぁ」


「かっこよくもないし、頭が特別切れるわけでもないしね」


「そう、なんですか……」


「わたしね。28の時かな。今度はギャンブルしなくて、刺青入ってなくて、前科がない人がいいって願ったのよ。そしたら私が浴びるように酒を飲んで酔っ払った夜に乗り込んだのが康夫さんのタクシーでさ」

 彼は自分で揚げたサツマイモの天ぷらを口に運びながら明子の話を聞く。


「疲れた目を擦りながらもあの人私を介抱してくれてね。途中吐きそうになって何度も停車させたけど文句一つ言わず付き合ってくれてさ、それで私のアパートまで送り届けてくれた後、近くの自販機でミネラルウォーター買ってきてくれて、なんというかその時『ああ、この人でいいか』って思えたのよ。まぁなんだろうね……思い返してみれば酒の勢いって奴ね」


 あっけらかんとしている明子はおちょこをまた口に運ぶ。


「勢いって……じゃあそれがなかったら?」


「結婚なんてしてない。今も多分どっかのバーで働いてるんじゃない? アタシ元々ジャズシンガーになりたかったの。だから高校卒業してすぐバーで働き始めて、いろんな男に貢いだり貢がれたりして、そうやって生きてきたの。パトロンだって少しはいてさ、ああ、こんなことになるのならあんな男に出会わなければよかった。そしたら今頃何処かで歌えてたのかも知れないのに」

 語り口調がだんだんと恨み節になってきている。


「ボロクソ言いますね」


「それぐらいいいでしょ。だって息子と娘を残して勝手に逝ったんだから」

 振りかえると、康夫の兄はまた寝息を立てていた。その周りで兄弟も寝息を立てている。


 あの日、彼は睡眠薬を過剰に摂取して自殺した。

 何が男を自殺にまで追い込んだのか、彼は改めて考えを巡らせる。


 仕事がきつかった? 

 いや話を聞く限り簡単に家族を捨てる男とは思えない。

 では妻との不仲か? 

 明子は男を確かに罵っているが、その口調は柔らかい。それは彼の死を惜しんでいるが故だ。きっかけはどうあれ、夫婦としての彼女ら絆はそう簡単に揺らぐものでは無いだろう。


「なに、考えてたんだろ」

 ぼそりと彼が呟いた。

 彼の頭の中にいくつかの可能性が浮かんでは消えていく。掴もうとするがどれも感触というものがない。

 結局、本人にしか真実はわからないのだ。いや、もしかしたら本人ですらもわからなくなってしまったのかもしれない。だからこうなってしまったのかもしれない。だけどそれも結局、分からずじまいだ。


 途方に暮れて彼は夜空を見上げた。男の家の周りにある稲田から蛙の鳴き声が聞こえる。


「あら、お義母さん」


「明子さん、あの子はともかくとして、裕太と栞奈を布団に連れて行ってちょうだい。あのままだと風邪をひいてしまうからね」

 明子が立ち上がって慣れた様子で二人を抱きかかえる。それを見て彼は『これから一人であの二人を育てていくのか』と思った。


 彼の隣にパンチパーマの奥様改め、幸江が腰を下ろす。


「あ。言い忘れていたが、終電もう出ちゃったよ」


「え? 」

 まだ夜の9時過ぎである。信じられない現実に彼は固まったままである。


「あんた、康夫の死に目に会ったんだって?」

 彼を気にかけることなく幸江は話を続ける。


「あ、聞いてたんですか」


「最初からね。そうだ。あんたお線香まだだろう? ついてきな」

 幸江が重たそうに腰を上げ、その腰を手の甲でたたきながら階段を上がっていく。彼はその後をついていった。梯子みたいな階段を上ると居場所を示すように男の部屋から明かりが漏れていた。

 男の部屋には特撮ヒーローのフィギュアやグッズが幾つも置いてあった。佇む遺影と遺骨を男が大好きだったもの達が囲んでいる。

 素朴な笑顔を浮かべる男と彼の目が合う。とてもではないが、自殺するような男には見えない。だがきっとそういうものなのだろう。誰もが朗らかさの中に虚を抱えて生きているのだ。

 彼は手を合わせ、そして席を立った。


「泊っていくのだろう? 布団は居間でいいかい? 」


「はい……すみません」

 幸江の言葉に彼は甘えることにした。

 それから彼は遅めの風呂に入り、布団をかけ電気を消した。眠れないのは他人の家だからではなかった。


 4 


 翌日彼が目覚めてトイレに向かうと、明子が一人で台所に立っていた。朝ごはんはどうするか、聞かれて小さく頷いて彼はトイレに向かう。

 食卓に上がったのは山菜のお浸しと、昨日の残りの煮物。そして湯気の立つ白米と味噌汁。彼は手を合わせてさっそく山菜に箸を伸ばす。違和感がないのが謎である。


「何から何まですみませんでした」


「別にいいわ。美味しい天ぷらが食べれたことだし」


「ああ、それはよかったです」


「あんた実家に帰りなさいよ。そして継ぎなさい。遠くで頑張るのを認めてないわけじゃないけどね、親の傍にいるってのも大事だと思わない? 」


「いやあ、それは……」

 彼は笑いながら首を傾げる。結構本気で彼は今揺れている。寝付けなかったのはそのせいでもあった。


「店を出す時は連絡ちょうだいね」

 明子がそう言って笑う。


「それは、どうだか……」

 彼もつられて笑う。

 まだ泣けてないと言ったのは嘘だった。彼女の瞼は今日も真っ赤に腫れている。


 彼が荷物をまとめているとき、丁度兄妹と幸江が起きてきた。

 それから明子も含めた5人で近所にできた揚げパン屋が意外とうまいとか、今日の特売がどうとか他愛ない話をいくつかした。彼女らの会話に混ざりながら彼はふと思う。


 ここに男が居たのだ―――と。


 帰りの電車の中で彼は少し泣いた。そして昨日の晩を取り返すように深く眠った。

 最寄り駅まで一本となったところで油断したのか、彼は間違って特急に乗ってしまった。彼の最寄り駅は各駅停車でないと止まらないのだ。


「あぁっ……待って」

 ドアにへばりついても電車は止まらない。乗客が白い目で彼を見るだけだ。いつも降りる最寄り駅を目の前で通り過ぎていく。

 

 その時、彼の視界の端に男が写った、気がした。


 彼は最寄り駅を二つ過ぎたところで降りて今度は何度も確認して折り返しの各駅停車に乗り込んだ。

 最寄り駅に着き、ホームを飛び出して彼は人影を探す。そんなことをしても意味ないのに、彼はあたりを何度も見回した。さっき感じた視線はやっぱりどこにもない。


 アパートに帰って彼は夕暮れを漫然と眺めていた。近くのコインパーキングの隅で盛りのついた猫が喧嘩している。

 抜けるような空には一本の飛行機雲が果てしなく伸びていた。男は逝ってしまったのだ。真っ直ぐ空に向かって。

 赤の他人なのだがそう思うと何故だか心が湿っていく。


 やっぱり答えはわからない。


 誰にだって迎えたくない朝があり、超えたくない夜がある。

 だから一日の終点についてもボックス席に座ったまま目を開けようとしないのだ。それは目覚めなければ昼も夜もないからだ。

 だけど文句をさんざ吐きつつも結局多くの人々は明日を迎える。それを男は越えられなかった。その差は何だろうか?


 それは、妻や子供たちの写真であったり、自分を今も見守り続けてくれる両親の存在であったり、夜中に突然呼び出しても付き合ってくれる友達であったり、伴に何かに向かって切磋琢磨し合える仲間の熱気であったり、何かに没頭する中で巡り合った同志たちの共感であったり、あるいは、わかっているからこそなんでも打ち明けられる他人同士の距離間の心地よさであったり。


 寂しさを埋めるだけに寄り添い合う相手との営みであったり、好きなアーティストの新譜から流れてきた歌詞に心をさらわれた感覚であったり、下らない下ネタで笑うラジオパーソナリティの声であったり、あるいは、終電ですよ、と肩を叩かれたときに瞬間的に伝う他人の体温であったり、と……挙げだしたらきりがない。だからこの先のきっかけ探しは各自に託そうと思う。

 

 掛け替えのないもの。

 揺るぎないもの。

 些細なもの。

 心地よいもの。

 下らないもの。


 形はそれぞれあるが、どれだって立派な糧だ。だがそれに気づいて拾い上げるのは男次第だった。

 そして今、物思いにふける彼次第であり、君ら次第であり、僕次第でもある。

 

 胸を張らなくてもいいし、翼なんか広げなくてもいい。カップラーメンのような五等星のようなものを拾い上げて、毎日を歩いていこう。


 とりあえずでいいんだ。だって―――今日と明日にそれほど大差はないのだから。

 

 ベランダから差し込む西日が霞んでいく。

 夜が今日もやって来る。

 


 

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