第52話:春さがし、肩すかし。
1
「春ってのはとかく背伸びしたがるもんだ」と、
アパートからすぐのコンビニでよく一緒になるたばこ友達のおっさんは言っていた。
「そうすか?」
そして僕は思わず嘘をついた。
それからいつものようにおっさんと一服を済ませて、僕は昆布のおにぎりを囓りながらアパートに戻る。
「わかってんすよ。わかってんすけど……ねぇ」
帰宅早々独り言を一つ。
今日もこの六畳間の空気が僕の話し相手だ。
僕の部屋はあまり人が来ない。物も多いわけではない。
キッチンには必要最低限の食器と調理器具が並ぶ。リビングには布団と机の上に薄型テレビとノートPCが置いてあるだけだ。実家の自分の部屋より掃除機はぐんとかけやすかった。
「だけどそう簡単にはね、なかなか」
独り言をまた一つ溢す。
問題はクローゼットなのだ。
クローゼットには仕事で着ていくYシャツとスーツが何着か。後は私服が季節に合わせて数着収まっている。
備え付けの大きなクローゼットはどちらかというとデッドスペースの方が目立つ。僕はそこに見たくないものをよく詰め込んでいた。
2
一つ目は左下にある数冊の本。
これはサラリーマンになって3年が経った頃。「そろそろお前もスキルアップしていかないとな」と上司にはっぱをかけられ書店で買い漁ったものだ。
レジに持って行ったのはいくつかのビジネス書と海外の有名社長の自伝本、それに大人のための語彙辞典。どれも読破どころか、半分読んでいればいい方だった。
しばらく読めたのは自伝本ぐらいだった。
彼らは仕事だけではなくプライベートも大成功している。そのため自伝本には女性の口説き方が多く載っていたのだ。
彼らが言うには女性を口説けない人間は商談も成功しないらしい。横暴な理論だ、とは思いつつもそこだけはついつい読み進めてしまった。そしてコラムのようなページを読み終えると僕はあっという間に読む気が失せてしまった。
だいたいこれまで活字の多い本を避けてきた短距離ランナーがいきなり42.195kmを走りきれるわけがない。一つ目の給水所までが精一杯だ。
その他の本に関してはほんとさわりしか読んでいない。大人のための語彙辞典にいたっては、ビニールのラッピングすら外していなかった。
「後でブックオフに持って行けばお金になるかな……」
失った金額は少しでも取り戻したい。知らなかったけど技術書というのはどれも意外と高いらしい。
二つ目は三段のクローゼットチェストの一番下、その中でにくしゃくしゃになってるランニングウェアだ。
これは去年の春、大学の友人に誘われていった合コンの帰り、いい雰囲気だった子との帰り道で「君ってちょっとおなか出てるよね」と言われて早速、ランニングを毎朝のルーティンワークの中に組み込んだ時に買ったものだ。
やり始めなのだから、ただスニーカーを履いて少しだけ家の周りを走ってみるだけでもよかったのだ。
だが何をやるのも形から入ろうとする僕。すぐにランニングウェアとシューズを買いそろえた。この行動力だけはきっと誰にも負けない。でもそろそろメルカリで売ろうと思う。
想像はつくと思うけど僕は三日足らずで挫折した。そしていくらウェアとシューズがセット料金で単品での購入に比べて安かったとしてもやっぱりこの買い物は高くついた。
クローゼットの中には他にも簡単にできる作り置きおかずが載っている料理本(これは仕事がちょうど忙しくなってそれどころではなくなり、コンビニ弁当とカップラーメン生活が続くうちに埃をかぶっていった)。
漫画で分かる初めてのカメラ(これはカメラを購入するまでには至らず、今では自分の引き際の速さに感謝している)。
ドンキホーテで買った五〇〇円玉貯金箱、エトセトラ……挙げだしたらキリが無い。
それらのものは一色単に乱雑に詰め込まれていた。窮屈そうな彼らが僕をじっと見ている気がする。視線が痛い。
うちの母は昼前にやるテレビショッピングが大好きだった。
実家にいたときよく家には青汁や見知らぬカタカナが散りばめられたサプリやダイエット器具が頻繁に届いていて、高三になった頃、僕は段ボールの大きさで何が入っているか見当がつくほどになっていた。
そんな能力いらないのに。と、当時はよくため息をついていたけど、あの母にして僕ありだ。こんなところは遺伝しなくていい。
だけどこんな自分からもう卒業しようと思う。さてと在庫一掃セールだ。
綺麗さっぱりしてシンプルな人生をこれから僕は送るんだ。今決めた。僕の今年の春のテーマは「断捨離のできる男」だ。ちょうど元号も変わることだし、これ以上無い記念すべきスタートが切れそうだ。
僕は売るものと捨てるものを段ボールに分け始めた。でもいざ分別を始めると迷ってしまう。今度本屋にいったら「すぐできる簡単お掃除術」とかそういうタイトルの本を買おう、と思いながら作業に取りかかる。
始めてから三時間後。ようやく別れを惜しむ会が終わった。
着ていない洋服も含め処分しきったため、クローゼットの中にまたデットスペースが戻った。
あれだけ迷って悩んで買ったのに、いざ自分の生活からそれらを除外すると決めたらあっけないものだ。
目に映るそれぞれを見渡して、いくらで売れるかと考えている自分が少し怖い。でもこれも断捨離のできる男になるために必要なステップだ。
彼らが涙ぐみながら捨てないでと嘆いている気がしたがここは心を鬼にしなければならない。
さようなら僕のフレンズ。鼻の奥がツンと痛んだ。少し泣いた。
「しっかりしなくては」
腕で涙を拭う。
泣いている場合ではない、まだ作業は終わっていないんだ。
クローゼットの中身のフレンズとは確かにおさらばできた。だがクローゼットの外。寄りかかるソイツを僕はフレンズを処分している時、いつも視界に入れないようにしていた。
3
去年の合コンで知り合った彼女、つまり僕の下腹を摘まんできた彼女から連絡が来たのはちょうど僕がランニング生活に飽きた頃だった。
「ライブ行かない?」
いきなりの連絡で僕はとりあえず舞い上がった。僕は早速、行きますと返事をした。
彼女の名前は鮎川紗栄子。
二つ年上で僕は彼女のことをよく鮎川さんと呼んでいた。
鮎川さんは合コンの時から周りとは何か違う雰囲気を発していた。同僚の馬鹿話に騒ぐ女子達を横目に見ながら鮎川さんは窓際でずっと煙とワインを交互に口に運んでいた。鮎川さんとのデートは連絡のあった週の金曜だった。
「え、ピアス開けたの?」
鮎川さんが僕を見て笑っていた。本当は金髪にしたかったけどサラリーマンである僕はこれが精一杯だ。
鮎川さんが僕の耳を触っている。薄暗いライブハウスの証明で真っ赤になる僕の顔は見えていないようだ。ありがたい。
「これからね友達が出るんだよー。今日はチケット買ってくれてありがとうね」
「あ、いえ。大丈夫です」
大丈夫、と繰り返しながら鮎川さんが首を傾げた。
「もしかして緊張してる?」
「あ、いや、鮎川さんといるのがとかそういうわけじゃなくて、ライブハウスって初めてだったので」
「やだー、かわいい」
鮎川さんが僕の背中を叩く。突き抜けるような笑顔がどの照明より僕には眩しい。合コンの時に見たライトベージュのワンピース姿の鮎川さんも良かったが、ダメージの入ったホワイトデニムにTシャツ姿の鮎川さんも良い。というかむしろこっちの方が良い。
「どしたの? じろじろ見て」
やっと僕の隣にいる実感が湧いた。
「なんか雰囲気違うなって。というか、そのチョーカー良いっすね」
「ほんと? これ結構高かったんだよね」
鮎川さんが無邪気に笑った。
バンドの演奏が終わり、次が鮎川さんの友達がいるバンドの番だ。鮎川さんは僕の手を握った。
「ほら、行こ」
鮎川さんに引っ張られて人混みの中に紛れていく。身体が当たる度に済みませんと小声で謝り続けると、いつの間に僕らは群衆の最前列に立っていた。
楽しみだね、と興奮する鮎川さんがかわいい。僕は鮎川さんのいろんな表情をこれからたくさん知っていくんだろうな、とぼんやりそう思った。
「なに、ニヤニヤしてんの? ほら始まるよ」
「あ、はい。すいません」
バンドの演奏が始まった。なんと鮎川さんの友達はイギリス人だった。だからコピーした曲もオリジナルもUKロックで、僕はノリ方が分からなかったけど他の観客や鮎川さんと同じように揺れていると時間はあっという間に過ぎた。
僕は横目で鮎川さんの着ている横に少し伸びたバンドTのロゴばかりを見ていた。
後で調べて分かったことだがお友達のバンドは半年後にメジャーデビューが決まっていた。どうりで他と雰囲気が違うのが素人目から見ても分かったわけだ。
ライブハウスを出ると夜も大分深まっていて、鮎川さんが明日休日出勤で朝が早いと言うことなので、僕らは駅前のマックで少し休んでから別れた。
で、その翌日買ったのが今クローゼットに寄りかかっているこのギターだ。
埃をかぶっている僕のギター。開けた20ゲージはすっかり塞がっている。何が言いたいかというとつまり、何も起こらなかったのだ。
ギターにしたって、ランニングにしたってスキルアップにしたって、始める前はあんなにもわくわくしていたのに、いざ始めてみると継続するってことはなんだか地味だし、それに抱いていた理想像にはもちろんすぐに届くことはない。
誰だって最初からなりたい者になれたわけではない。きっとあのジェームズだってギターを手にしてから多くの努力をしてきてあのステージに立っている、はず。
わかっているつもりだ。でも僕はいつも何処かで肩透かしを食らうんだ。
それはこれを続けたからどうなるという疑問であったり、努力の結果を見せたい誰かがいなくなったり、単に面倒に感じたりときっかけは色々だ。誰かが置いた小石に僕はまんまと躓いて転んでしまう。転べば痛い。だからやめる。当然の流れだ。
だけどその小石と同じだけ「変わりたい」という欲求が、願いが、春とともに廻ってくる。
その夜、僕は夢の中で鮎川さんと出逢った。場所は僕がいつも行くコンビニだ。
鮎川さんは結婚式の二次会から抜け出してきたみたいな服装でたばこを吸っていた。立ち姿は相変わらず芯があって綺麗だった。
スウェット姿のままの僕は鮎川さんから何故か一本もらって火を点ける。その服装が恥ずかしいとは思わずに。夢とはそういうものだ。
それから交わした大したことない会話は覚えていない。夢とはそういうものだ。
そして別れ際鮎川さんは「いい男になりなよ」そう言った。脈絡のないこの展開、しつこいようだが夢とは……
4
起きると小さく砂嵐が聞こえた。
地上デジタル放送になってからほとんど聞くことのなくなった音が聞こえて、何かと思い起き上がって眼鏡をかけ、カーテンを開けると外は雨だった。
部屋には昨日まとめた段ボールとクローゼットがある。その隣には眠り続けているギターがまだあった。
決めた。
コイツだけはもう少しこの部屋に置いておこう。
そう思ったのは別に夢のせいではない。これが一番高かったからだ。それに今コイツが意味をなさなくてもそれでいい。そう思った。
春になる度に何かになりたいと思って、始めて、三日坊主で投げ出す。そして一年が廻ってまた同じことを繰り返す。愚かな人間の終わらないループ。
抜け出そうとしてもそう簡単にはいかない。以前なんでこんなことを繰り返すのか小一時間考えてみたことがある。辿り着いた結論はこれといって突出したものが僕にはないないからだと思った。
自信をもって「これが自分だ」とは言い切れないため、こうしてまた性懲りもなく僕は春を探している。
だったらいっそ開き直ればいい。ある時そう思った。
これはきっと花粉症と同じで春の風物詩なんだ、と思うようにすると重たくもたげる頭が少し軽くなった。軽くなった分大事なものが一つ抜け落ちた気がするが、今は放っておこう。だから僕はこのサイクルをまるごと愛することにした。
クシャクシャになったたばこの空き箱がテレビの前に転がっている。
欠伸をしてとりあえず僕は煙草を買いにコンビニへ向かった。わざわざジーパンをはいてジャケットを羽織っていったけどもちろん鮎川さんなんていなくて、待っていたのは僕の面倒臭がりな部分を三日煮詰めたようなおっさんだった。
「よう」
「おっす。これからパチンコっすか? 」
「いや、今日はいいや」
「え、なんで」
「昨日徹夜でこれやってて」
おっさんは牌を倒すフリを僕に見せた。
「あぁ、そう」
オッサンとはよく話すが趣味の話で盛り上がることはない。
僕は昔からギャンブルだけはやらない。別に毛嫌いしている訳では無い。結果が見えているからだ。ラックの低さはお祭りのおみくじがとうに証明してくれている。やがて話すことがなくなり僕とおっさんは自然と空を見上げた。
「雨、強くなってきたな」
「っすね」
「もうすぐ五月か」
「っすね」
灰を落として一本吸い終える。おっさんも同時に吸い終える。
「じゃあな。俺帰って寝るわ」
うるさい欠伸を一つ吐き出して、おっさんが雨の中に消えていった。
雨で濡れた空気がなんだか物寂しくて僕はもう一本吸ってからコンビニを出た。
アパート前に咲く桜はもうすぐ散り始めるところだ。雨に打たれる桜はそれはそれで風流だという人がいるけれど、雨が強いせいで頭の垂れた桜の木が先日課長に怒られていた後輩の姿と重なる。
今朝は自棄に冷える。
感じる温もりといえば口の中に放り込んだ唐揚げぐらいで、舌の上で衣の油と肉汁が広がってそれを飲み込むと、ほんのりとにんにくの匂いが鼻に抜ける。
唐揚げの温かさだけが際立って身体は温まらない。こんなことならコーンスープ缶も買えばよっかったとぼやきながら僕は冷えてきた体を摩った。小さいビニール傘をさしながら足早にアパートへ戻ろうとする時ふと思った。
「そうだ、犬飼ってみよ」
そうすれば独身生活が長い僕にも新たな潤いが生まれて、そしてその潤いが僕に新しい何かをもたらしてくれるかもしれない。
「公園でまだ見ぬ出逢いがあったりして……」
駆け足がスキップに変わる。飛沫が突っかけたサンダルにかかる。この天候と僕の閃に拍手だ。雨に唄えばを鼻で歌う。
この後、僕はアパートがペット禁止だいうことを思い出すまであと…3…2…
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