第30話:ボレロと踊り子

 少年の頭の中でボレロが流れる。


 この曲はセビリアのとある酒場で一人の踊り子が踊る様子を表現したものである。

 踊り子のステップみたいにリズムが刻まれ、木管、金管、弦楽器と楽器隊が加わることで音は広がっていく。クレッシェンドしていく曲調はまるで、酒場で踊る孤独な子に、はじめそっぽを向いていた客達が次々と加わっていくようであった。


 少年は渦の中にいた。

 頭の中で騒々しくボレロが鳴っている。興奮は止むどころかもっと強くと求める。

 少年は滾った心のままに踊る。

 酒場の踊り子に魅了された瞳は濁り切っていて視界に映る踊り子は現実世界の景色ではなく、目の前の景色から逃げるために少年が生み出した幻想だった。


「ごめんなさい」

 少年は哭いていた。



「ご苦労様です」

 手がこちらに伸びる。骨ばっていて太い指には黄金のリングが光る。

 少年は何も言わず肥え太った茶封筒を受け取りその場から逃げるようにドアの外へ姿をくらませた。


「すみません。彼は人を殺した後はいつもああなので」

 隣についていた彼女が淡々と頭を下げる。


「ま、あんた達のおかげでやっと抗争ができる。向こうがいつまでも黙り込んでるもんだから親父がしびれ切らしちまったみたいでさ、昔から親父は喧嘩っぱやいのなんのって……こっちも大変で。まぁ若頭殺せば向こうの重たい腰も動くだろうよ。助かったぜ」


 彼女は淡々と相槌を打つ。それを見た男は不満げに顔を歪ませた。


「しかし、あんたもさっきのガキもほんと不愛想だな。ちょっとクライアントに対して態度がなってねぇんじゃねえか? 」

 トカゲのような目が彼女の起伏のそれぞれを嘗め回し、男は口端をわずかに吊り上げると、


「あんた、今度俺の事務所に来な。出方次第じゃこれから俺があんたらを食わしてやるよ」


「そうですか。では明日にでもそちらへ伺います」

 即決した彼女に男は一瞬たじろいだ。だが、事が運ぶことに越したことはないか、と思って男は違和感を見過ごした。


「んじゃ。そろそろ俺は帰るわ。明日の夜にでも来てくれ」


「ええ、必ず伺います」

 無機物のような雰囲気を纏った彼女が再び頭を下げる。男は顔をあげた彼女を見た時、己の背筋を凍らせるナニカを感じた。



 昼下がり、いきなりアパートのドアが開き、少年が振り返ると甘ったるい声音と共に笑顔を咲かせた彼女が走ってくる。


「ショウちゃん。ただいまー! 」

 柔らかな感触が少年の全身を包む。


「どいてよ、おねぇちゃん。暑い」

 払いのけようとしたが、一向に彼女は離れようとしない。


「ショウちゃんにいい知らせを持ってきたの」


「え、なに? 」

 窒息死寸前のとこでやっと彼女は少年を離し、彼の前に座る。


「今朝会った坂巻組の幹部の人いたでしょ。あの人もしかしたらなんだけど、私達を雇ってくれるかも知れないわ」

 彼女は無邪気に笑顔を咲かせる。だが少年は視線を彼女から反らした。


「そう」

 俯く少年。

 近所の子供と喧嘩もできない少年は殺人衝動に常にさいなまれていた。だが少年は人殺しが悪だと自覚している。

 幼い頃から人殺しは忌むべきものだと憎んでいたし、命を奪う瞬間はいつでも後悔と体を八つ裂きにしたい程の自己嫌悪が少年を襲う。しかし湧き上がった衝動に突き動かされたら最後、少年は踊り子とともにダンスを踊るのを止められなくなってしまうのだ。


「でも、おねぇちゃんは? 」


「うーん、おねぇちゃんは……あの男の人に気にいられたみたいだし、身体でも使いながら調子よくやってくよ。心配しないで。おねぇちゃんはショウちゃんのものだし、ショウちゃんの近くに居られればそれだけでお姉ちゃんは幸せなんだから」

 胸焼けしそうなほど甘い眼差しが少年に注がれる。

「……そんなのダメ」

「なんで? 気を使わなくていいよ。ショウちゃん」

「いや、ダメだ。それに一度殺しの依頼をしてきただけの男がいきなり組の一員にしようなんて話が出来過ぎてる。きっとこれは罠に違いない。僕ちょっと調べてく―――」


―――待って。


 手を握られた次の瞬間、少年は彼女に唇を奪われた。

 電撃が走ったように瞼が開きそれでも少年は姉から体を引き剥がそうと抵抗を始める。しかし彼女は少年を拘束したまま、決して離そうとはしない。

 腕は蔦の様に纏わりつき、嫌がる少年の口腔に彼女の舌が無理やり捻じ込まれる。

 猥りがましく唾液の音を立てながら、彼女の舌が少年の口腔へ。そして喉奥に何かを押し込まれた。それを飲み込んだ瞬間、少年は眠りに落ちた。


「可愛いそうなショウちゃん。お姉ちゃんがいいところに連れて行ってあげるからね……」


 少年の忠告はあっさりと否定され、二人は坂巻組に入った。

 それから少年は構成員の一人として抗争の中で何人もの幹部を殺害し、また屍を生み出す。血みどろになった少年は殺し終えた後、いつものように哭いていた。



 真夜中の暗闇が現実と幻想との境界を取り払い、少年は幻想側へと呑まれていく。暗闇の奥でスネアドラムが鳴る。その音のする方へ少年は走る。


「いらっしゃい」

 醜く笑う小鬼は何故かタキシードを着ていてそれは妙に似合っていた。深紅の蝶ネクタイが彼の顔色そっくりだ。レコードプレーヤーからはノイズの混じったボレロが流れている。


 スポットライトが女を照らした。

 眩しさに目を焦がしながら視線を向けると彼女は深紅のチュチュを身に纏っていて、チュチュのスカートは彼女が飛び跳ねる度、翼のように羽搏いて見える。

 しなやかに伸びた肢体は優美に弾み、少年は踊り子の姿に酔いしれていく。その姿は噴きだす血流が舞っているようにも見え、猟奇的で情熱的な姿に少年はどんどん惹きこまれ、心を焦がしていく。


「そこで見てないで早く踊ったらいいじゃないか」

 醜い小鬼が少年を煽り立てる。


「それは……」


「何でだ? ここで立ち尽くしていても退屈なだけだぞ」


「そういうことじゃない。もう僕は彼女とは踊れない」


「いいから、踊れ! さぁ、いつものように二人の踊りを見せてくれ! 」

 突如、怒号が漆黒のダンスホールに響く。

 醜い小鬼の怒気を煽り立てるように踊り子の跳躍は高く、ステップはより強さを増す。


「いやだ」


「早く踊れ! 」


「踊りたくない! 」

 醜い小鬼は嫌がる少年の髪を引っ張って、無理やりスポットライトのもとへ引きづり出す。踊り子が少年を見た。


「欲しがりなのねあなた」

 足を止めた踊り子が少年に手を差し伸べる。鼓動が小節ごとにクレッシェンドする。ボレロのスネアドラムに同調していく。少年は頭や首を掻きむしり必死に衝動にあらがう。まるで体中を蛆が這い回っているみたいに。


「いやだ。嫌だ。助けて。誰か、助けて。僕は人殺しなんてしたくないんだ。誰か僕を止めてよ。いやだ。いやだ。いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ―――」


「でも踊りたがってる。あなたがどう拒もうとも私達には抗えないよ」


 醜い小鬼が踊り子の背後で高らかに笑う。

 少年の慟哭はそれによって打ち消されていく。甘美に微笑む踊り子の姿が幾重にも重なって見え、少年は快楽の泉へ堕ちていく。


「そんなことない―――」

 気づけば少年は踊り子の手をとってステップを踏んでいた。

 気づけば二人の息は寸分の狂いもなく合い、ボレロは盛り上がり、そして絶頂を迎える。また屍が彼の前に転がった。



「これで押澤組の幹部は全員殺した。ガキよく頑張ったな。こんなの見たら若いヤツら失禁するかもな」

 呆然と屍の前で立ち尽くす少年に男が貼り付けたような笑顔をみせた。その時の顔がどこかの小鬼に似ていて、少年は頭の中をかき乱された。堪らなくなって少年は悪心のままに内臓に貯留していた内容物をすべて吐き出した。


「ショウちゃん―――! 」

 男の隣に立っている彼女がすぐに少年のもとへ駆け寄る。身を屈ませて体を痙攣させながら吐き続ける少年の背を彼女が優しくさする。


「吐くのも無理ないわな……これだけの人数を数日かけたとはいえ、皆殺しだからな。普通のガキだったらまともじゃなくなる。ガキはガキなりによく頑張ったと思うよ」

 男の笑顔はまだ嘘くさかったが、それなりに情がこもっているのは少年にもわかった。だから頭を下げようとしたが少年の動きが止まった。


「ガキってなんですか? 彼には翔という名前があるんです。そんな言葉で呼ばないでくださいよ」


「ああ、悪かった―――」

 男の手が少年に差し伸べられたのと発砲音はほぼ同時だった。

 一発だ。

 小径銃によって男は心臓を撃ち抜かれていた。


「何故―――」

 立ち上がった彼女は倒れた男の眉間に銃口を突き立て、また引き金を引いた。飛散した血痕を浴びても彼女の表情は以前として冷酷なままだ。

 一発。また一発と銃声が響く。

 彼女の顔は能面のように変わらない。

 変わらない。


「別に大した理由なんてないのよ。ただ、あなたがショウちゃんのことを『ガキ』と呼んでいることが許せなかったのよ」

 まだ変わらない、と思ったがマガジンが銃弾を吐き出し終わると彼女はゆっくりと笑顔になっていく。


―――ショウちゃん、見て。お姉ちゃんも人殺したよ。これで私もショウちゃんと一緒だね。ショウちゃんのつらい気持ち、いつも全部はわかってあげられなくてお姉ちゃん辛かったんだ。けどね、これからお姉ちゃんもいっぱい頑張るから、ね?


 悲願がかなったように涙を流す彼女の顔を見て、少年は空になった衣を痙攣させて嫌悪を吐き出した。

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