第29話:あの人、絵描き辞めたってよ。


―――何でも描きます。その代わりお酒おごってください(笑)


 ふざけた看板を構え、俺は駅前で絵描きをしていた。自覚はしている。俺は救いようのない阿呆だ。


 中学の頃の俺は「ここは自分の住む世界じゃない」とか言っている所謂、イタイ子だった。

 高校にあがって俺は美術部に入った。賞は沢山とったが、やっぱりイタイ子には変わらなかった。その証拠に俺は周りが大学受験で焦っている中で何にもせず毎日絵を描いてばかりいた。きっと神様が俺を創るとき、絵を描く才能のバロメーターしか上げなかったんだろう。親にも、先生にもさんざ大学は出ろ、と念を押されたが、俺はついに受験すらしなかった。もちろん就職もしていない。結果俺は親に勘当され、無一文となった。

 それから俺はホームレスになった。まぁ当然の結果だ。

 パイプ椅子、画材、ふざけた看板を脇に抱え、時間の許す限り駅前で絵を描く日々を送る。

 その日も俺は思いついたものから順に絵を描き続けていた。ハンバーグ、ラーメン、オムライス、チャーハン。空腹だったせいか食べ物の絵ばかりだ。

 こうなったらとことん書いてやる、と無駄に意気込んで俺は深夜になるまでひたすら描き続けた。その夜俺は彼女と出会った。



 リクルートスーツにペンシルスカート。胸元にフリルの付いたシャツはボタンが一つ外れてはだけている。そのはだけたところから陶器のように白い肌が見え、うっすらと鎖骨の線が浮かんでいた。

 阿呆で助平な俺は鎖骨もそうだが、彼女の胸ばかりを見ていた。

 たわわなそれが弾む姿を眺めていると、彼女は華奢な両足をふらふらと前に出しながらこちらに向かってきた。そして俺の目の前でしゃがみ込んだ。目線は自動的に屈んだ足元にいく。


「わー、おいしそう。ねぇあたしにもなんか描いてよ」

 彼女はひどく酔っている様子で、喋る度に酒臭い息がかかる。


「じゃあ、ご馳走と交換で」


「良いよ。ビールでいいかな? 」

 彼女はクラッチバックから一本、缶ビールを取り出して、ご丁寧につまみのスルメイカまでくれた。入れられてるものを見るとブランド物のクラッチバッグが可哀想に見えなくもない。


「気前がいいねお嬢さん。毎度あり。それでリクエストは? 」


「うーん。じゃあこの人の顔描いて」

 目の前にスマートフォンの画面を突き出され眩しさに目を細めながら俺は画面を覗くとそこには40代の女性の顔が映っていた。なんでこんな人を?なんて思ったりはしたが、そんなことは野暮な質問だろうと俺は缶ビールを拾い上げてプルタブを起こした。真夜中の駅前に炭酸の抜ける音が響く。


「ねぇ、まだなの?」


「今描き始めたばかりなんで」


「はやく」

 そうやって俺に文句を言いつつも、彼女は俺の絵の完成を待っていた。


「よし、できあがり」

 彼女に絵を手渡すとよく似てる、満足そうに微笑んで俺の絵を地面に置いた。何をするのかとその場で見守っていたら彼女は狂気とも取れる笑顔を浮かべ、高らかに笑いながらその絵を踏んずけて何度も引き裂いた。


「えぇ……」


 どうやらあの画面に映ってたのは彼女の上司だったみたいだ。貯め込んだストレスを笑い飛ばしながら実に楽しそうに、そして猟奇的に、彼女は紙吹雪を舞いあげて、それらともに戯れていた。これが細切れになった上司じゃなければドラマのワンシーンにも見えなくはない。


「あー、スッキリした……ごめんね。せっかく描いてくれたのに」

 彼女は胸の前で両手を合わせ、軽く頭を下げる。


「手渡してからこれをどうするかは何も言ってないんでね。お客さんの勝手でいいよ」

 それが二人の出会いだった。


 それから週に何度か彼女は俺の前に現れ、俺が憎い上司の顔を描いてやると、それを引き千切って楽しそうに紙吹雪と戯れていた。社会人の皆々様今日もお勤めご苦労様です。


「ねぇ、ここに来るのはもう面倒だし、君のこと好きになっちゃったみたいだから付き合おうよ」

 いったいどこを見て気に入ったんだか俺には分からなかったが、美人なOLと付き合えるなんてまたとない幸福。ヒモになれるまたとないチャンス!


「よろしくお願いします」

 あっさりとした返事に彼女はやっぱ君は面白いね、といいながらいつものように笑っていた。


 それからは彼女の家と駅前を往復する日々。絵を描いて、たまにお酒をもらって、夜を明かす。怠惰であることには変わりないが、緩やかな幸せが俺の前に流れていた。



「この老いぼれにも一つ描いてくれんかい? 」

 日曜の昼下がり。

 おろしたてのダークスーツを着たオッサンが俺に話しかけてきた。

 俺はオッサンが差し出したモノクロ写真を見ながら校舎を描き終えた。出来上がった絵を受け取ったオッサンは両手でそれを持ったままその場を動かない。俺の絵を眺めながら思い出に浸っているのだろうか。なんにせよ、誰かの心を動かせたって言うのは嬉しい。


 そのまま居酒屋に連れていかれてオッサンと飲み交わすうちにわかったことがある。

 その写真に映っていたのはオッサンが初めて教鞭をとった学校だった。その学校でオッサンはクラス担任から学年主任、そして教頭になるまで居続けた。しかし今年離任することとなってしまったらしい。


「でもオッサン、次の学校で校長になるんでしょ。よかったじゃん」


「ああ、そうだな。名残惜しいが次の学校でも頑張るとするよ」

 焼酎をあおるオッサンの横顔はアルコールが回って楽しそうではあったが、どこか寂しげでもあった。


「オッサンのいる場所が何度変わっても変わらないことが2つある。その1、オッサンはどこへ行こうとも教師であることは変わらない。その2、先生を子供たちが待っていることには変わらない。だからさ、また最初からその子供たちと一緒に思い出を作っていけばいいんじゃない? 」


「あんた軽薄そうな身なりでそれに若いんだから、そんな沁みること言うなよ。見た目と全然あっとらんぞ……」


「これでも、それなりに苦労はしてきてるんでね。まぁ、全部自業自得だけど」


「こんな若者に説教される日が来るとはな」


「説教じゃないさ……」

 オッサンは泣き出した。

 それから俺は泣き止むまでオッサンと酒を酌み交わし続けた。

 こうしていろんな人と関わっていけばその人の人生の一端に触れられる。そうすれば俺は豊かな人間になれる。そう思っていた。でもそれは違っていた。



 嵐の夜だった。日中、傘も持たずに駅前に出た俺は土砂降りの夕立に出くわして逃げるように彼女の家に転がり込んだ。


「ただいま」

 シャワーを浴びて夕飯の支度をしていると彼女が帰ってきた。


「お帰り。今日は早かったね」


「うん、なんか調子悪くてさ」

 そう言いながら彼女はお腹をさすっていた。


「大丈夫? 飯食べれそう? 」


「うん。軽いのなら」

 そう言ってソファに倒れ込む彼女を見ながら俺は急いで食材を並べ、ミネストローネを作った。

 しかし彼女は口をつけることなく、スープの入っていたカップを床に落としてその場で痛みに喘ぎ始めた。

 俺はすぐに救急車を呼び彼女に付き添って病院へ向かった。彼女は腸閉塞を起こしていた。

 幸い大事には至らず、数日間の入院によって彼女はまた元気に職場に戻ったが、その時の俺はただ傍にいることしかできなかった。

 彼女はそれだけでいい、といっていたが、蓄えのない俺は入院費も治療費も出すことができなかった。彼女に何もしてあげられなかった俺は只々情けなくて、数日の間、俺は自己嫌悪の迷路を彷徨っていた。



 あれから、5年がたった。

 降ろしたてのリクルートスーツを着て、彼女の前に立つ。


「ミカちゃん、俺、教師になるよ」


「え? 何言ってんの?」

 目の前の状況を飲み込めないうちに、俺は教員免許を彼女に見せる。


「新しい、遊び? 」

 どうやら彼女は俺が免許を偽造している思っているみたいだ。そんな彼女に俺は念押しのために採用通知をテーブルの上に出す。


「嘘でしょ……」

 驚いた時、テレビではよく口を両手で覆い隠したり、泣いて喜んで抱き合ったりするが、人が本当に驚いた時は感情も出ず、ただ茫然と立ちつくしているのだとこの時初めて知った。


 あの日に抱えた自己嫌悪の迷路をやっと抜け出し、スタートラインに立てた俺はまず手あたり次第にバイトの面接を受けに行った。

 いくつものバイトを掛け持ちしながら通信制の大学に通う費用を集め続けた。

 そして時々死にそうになりながらなんとか単位を取得し、俺は教員免許をとった。そしてその年の冬、俺はあのオッサンが校長を務める中学に行き面接を受けた。そして晴れてその学校の美術教師となることが決まった。


「ほんと」

 俺は彼女に向かってピースサインを見せる。喜んでくれると思った。

 でも彼女はなぜか苦虫をつぶしたように顔を顰めた。


「君が努力して教員になったのはすごいことだし、うれしいよ。でもわたしはいつも能天気でノープランで、『生きてさえいればいい』っていう考え方の君が好きだった。君の気楽さにわたしは救われてたんだよ」

 崩れ落ちた彼女は床に手を付く。涙が流れ落ち糠には小さな水たまりが出来る。流れ落ちる涙はあの日のスコールのようにとめどなく、降りやまない。


「なるほどね、そういうところを好いてくれてたんだ。でもごめん、これからはその期待には応えることは出来ない」


「なんで? 」


「自分のために時間を費やしてきた俺はミカちゃんが入院したあの日思ったんだ。『自分のためにじゃなくてこの人のために生きたい』って。初めてだよそんなこと思ったの」

 照れくさくなって項を掻く俺を彼女は涙を流しながら見つめる。


「つまらないわたしのために生きて何になるっていうの? 」


「幸せになれる」


「そんなのは嘘だ」

 泣き止むことない彼女を俺は包み込むように抱いた。肩口が暖かな幸せで濡れる。


「ねぇ、俺もうミカちゃんの恋人止めるよ」


「何でよ? 君を失いたくない」


「そっか……なら良かった」

 一泊おいて深呼吸をして声が震えないように胸の高鳴りを抑える。


「だったら俺と結婚しよう。俺は恋人をやめてミカちゃんの夫になりたい。君を支えてこの先、いやずっと先まで二人で生きていきたい」


「こんな私のために? 」


「もちろん」

 俺は今確かに感じている温もりのために生きると誓う。

 もう、取り返しはつかないぞ、俺。

 宙ぶらりんで怠け者なかつての俺になげかけた言葉を胸に刻み付けた。

 離さないように、離れないように彼女をさらに強く抱きしめる。


 スーツに身を通し、いつもの駅前に向かうと女子高生二人が柱に寄りかかってだべっていた。聞き耳を立てるとどうやら俺らしき人物のことについて2人は話しているみたいだ。


「あの人絵描きやめたってよ」って。それでいいと思った。

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