第9話:海を征く老人

 雄大に拡がる翡翠色の海を渡る一艘の船。まもなく船は港に入る。岸が見え始め、若い水夫たちは慌てた様子で錨を引き上げた。


「おい、見てみろよ」

 一眼となって重たい錨をあげようとしているのに、見張り台に上がったまま海を眺め続ける惚け者の水夫が水面を指さす。


「それより早く降りてきて手伝えよ! 」


「いや、すごいんだっていいから見てみろ……まるで鯨みたい」


「……ったくうるせぇな。そんなものあるわけ」


 見ると、翡翠色の海には鯨のように黒くて大きい潜水艇が顔を出していた。


「船長あれはなんです? 」

 操舵室の中の水夫が船長に尋ねる。船長は双眼鏡を手に取ってそれを瞼に押し付けた。

 数秒の間あたりを見回して船長はそれを捉えると、「あいつ、まだ探してるのか」そう言って何故か懐かしむように微笑んだ。


 海の底に籠り続ける彼には生涯をかけてでも、もう一度会いたい人がいた。彼女の名はシャーレイ。二人はある穏やかな夏の夜に出会った。



『一人の水夫が早朝に人魚をみたらしい』そんな噂に踊らされた水夫たちはその日も朝早くから甲板にでて海を眺め続けていた。


「人魚ってどんな感じだろうな」

 彼は隣の水夫に話をふる。

 双眼鏡で水面をしっかりと見張り続けたまま隣の水夫は自分の空想を楽しそうに披露した。


「人魚はきっと、金色の髪をしていて、それで海にいるはずなのに肌が純白で、たわわな胸を貝殻なんかで隠していたりしてさ、それで……」


「よせよ。期待が高すぎると後でがっかりするぞ。一部では萎れた老婆って話もあんぜ」


「おい……浪漫を語るくらい許してくれよ」


 結局その朝は人魚を見つけることが出来ず、水夫たちはがっかりとした様子で夜を迎えた。

 彼もまた人魚を待ち望んでいたため、今宵もやけ酒だと喚きながらウォッカをあおり、やがてふらふらとなった。その帰り道、立ち寄った海岸で彼は夜風にあたりながら体を休めていた。


 翡翠色の海は姿を変え、頭上で拡がる果てない群青を反射させたそれは、その身もまた群青に染まっていた。

 そしてその夜、彼は一つの幻影と出会った。彼は幻影の元へ無我夢中で駆け出していった。


「どうされたのですか」

 幻影は彼の目だけでなく、耳にまで届くようになっていた。


「ある水夫の話を聞いてから、あなたに一度お会いしたいと思っていたのです。宜しければ幻でないか確かめるために一度私の手を握ってもらいたいのですが」


「これで宜しいですか? 」

 幻影は彼の触覚を確かに刺激していて、目の前で起きているのは事実なんだと彼に教えた。


「すみません。もう行かないと」

 そっと微笑んだ後、彼女は名残惜しそうにそう言い残して海の奥へ戻っていった。


「私はこの港で待ってます。だからまたお会いしましょう! 」

 夜の海に彼の声が響いた。


 彼の願いが届いたのか、ふたりは夜の海岸で港が朝焼けに染まるまでお互いのことを語り合った。幸せな時間が穏やかな海のようにゆったりと流れてく。


「もっとあなたと話していたい。嗚呼、朝が恨ましくて仕方ありません。このまま語り続けることは出来ないものか・・・・・・」


「それはなりません。私は人魚だから本当であれば人目に触れることは避けねばならないのです」


「そうですね。今日もこれでお別れです」


「はい、また夜にお会いしましょう」


「はい・・・・・・」

 長く続いていた停留も終わり、その朝を境に船は港を去った。彼はこのことを最後まで告げることが出来ず、彼女と別れてしまった。


 そして彼はあの夜言えなかった言葉を胸にひとりで潜水艇を作り上げ、海の底を彷徨い続けた。



「シャーレイ・・・・・・」

 憂いを口にしながら彼は今日も海を征く。潜水艇の周りで彼女が楽しそうに泳いでることを知らずに・・・・・・

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